必死に走った。もう一度顔を見て、きちんと話がしたい。願うような気持ちを抱えて、ひたすら走った。
閉じ込められた家の中で十日間、私は静かにこの時を待っていた。
初めの三日間を、有給まで取り、一歩も外へ出ようとはしなかった父と過ごした。母は、私が出て行かないかどうか様子を確かめる為に、夜中も定期的に部屋へ訪れた。父が出勤してから残りの一週間、私は両親へ逆らう事もせず大人しく過ごしていた。
もう大丈夫だと油断して、午前中ベランダへ出た母の目を盗み、私は家を飛び出した。柊史に逢いたい、ただそれだけの為に。
息を切らして電車に乗り込み、窓の外を眺めながら思い出す。
別れの朝、電話で両親を迎えに来させた柊史は、淡々と私に上着を着せ、鞄に取りあえずの物を詰め込み、何も言わずにそれを持たせた。私は髪も梳かさず、顔も洗わず、他人事の様に黙ってその様子を見詰めていた。
いくつか電車を乗り換え、バスに乗る。緩い坂を幾たびか上ると、見慣れた風景が現れた。
逸る気持ちを抑えきれずに、バス停へ飛び出すように降り立つ。携帯電話もなく、家の電話も使わせてもらえなかった私は、バス停近くにある公衆電話から柊史の携帯の番号を押した。予想はついていたけれど、出てはくれない。見知らぬ番号からでは当然だと電話を切り、急いでアパートメントへ向かった。
冬に近い冷たい風が頬を撫で、黄金色の絨毯が私を迎えた。少し湿った葉の上を駆け抜けようとした時、滑ってバランスを崩し、バッグを落とした。そこから部屋の鍵が音を立てて転がる。慌ててバッグを手にし、拾った鍵をそのまま握り締め、再び走って階段の入り口にあるドアへ手を掛けた。
呼吸を整え、木製の扉を開ける。懐かしさを感じる匂いを吸い込みながら、薄暗い階段を一段ずつ上がっていった。
使い慣れた重い鉄製のドアはミント色。知らなかった四角い箱は、牛乳瓶を入れる為のものだと柊史が教えてくれた。
横に付いている古い呼び鈴を鳴らす。応えはない。もう一度鳴らす。人の気配のない静けさをわかっても、諦めきれずに声を出した。
「……柊史」
久しぶりに口にした名前に、唇から指先まで震えが走る。
「柊史、柊史……!」
何も応えのない扉を叩き、何度も名前を呼んだ。
手袋をしていない手の中には鍵がある。息を吹きかけると、温かさと共に一瞬だけ金属が曇った。ドアの前に座り、待ってみたけれど、彼の帰ってくる時間がわからない。気付いた母が私を追って、すぐにでもここへ来るかもしれない。
「……」
立ち上がり、逃れる為にはこれしかないと、握り締めていた鍵をそっと鍵穴へ差し込んだ。彼のいない間に部屋へ勝手に入ることなんて、許されないかもしれない。後ろめたさを感じながらも、ゆっくりと鍵を時計回りに動かした。
けれど、途中までしか回らなかったそれは、扉を開ける役目を果たさない。震える手でがちゃがちゃと動かしても、虚しい金属音が踊り場に響くだけ。
何も考えられない頭で、ふらふらとその場所へ向かった。
薔薇の咲いている花壇。その先の公園。小さなブランコ。夜中に柊史がおぶってくれた。走り出した彼は怖がる私に悪戯っぽく笑った。冷たい耳に私の頬を当てると一瞬だけ微笑んだ。そして……、
ブランコに座る私の後ろで、かさりと草を踏む足音がした。
「柊……!」
「忘れ物はなかったよ」
期待に振り向くと、そこにいたのは作業着に軍手をはめた管理人さんだった。
「取りに来たんだろ? 何も残ってはいなかったよ」
「忘れ物?」
「違ったのかい? 引っ越しの後の忘れ物を、取りに来たのかと思ったんだが」
管理人さんは新聞紙と鋏を持っている。これからまた、あの薔薇の手入れに行くんだろう。冬に咲く薔薇を。
「引っ越した、んですか。彼」
「……一緒に出たんじゃないのか」
溜息を吐いた管理人さんは、そのまま花壇の方へと行ってしまった。
「もう、いないの?」
当たり前のように、柊史が逢ってくれると思っていた自分の愚かさに俯いた。ブランコの低さに引き摺る足元の土に雫が落ち、黒い小さな点を作る。余りにもあっけない別れに、涙が止まらない。漕がないブランコの上で声を押し殺し、泣き続けた。
いつの間にか私の膝の上には、新聞紙にくるまれた薔薇が数本置かれていた。どこへ行ったかはわからない、管理人さんがそう呟いた気がする。
この前と同じに、チェロがシシリエンヌを奏でていた。彼と一緒に聴いたのではない、この曲。美しく哀しい旋律が、薄暗い夕闇に溶けていく。
その後はもう、今日までどうやって過ごしていたのか、あまり覚えてはいない。カレンダーはもうすぐ、新しい年に変わろうとしていた。
目覚めた時の寂しさに耐え切れなくて、ベッドで眠るのはやめた。毛布と布団にくるまって、時には座ったまま、時には冷たい床に猫のように丸まりながら、無理やり眠りについた。
朝起きて、洗面所へ行き顔を洗う。着替える。何も食べたくはなかったけれど、いつかきっと柊史に逢えると、望んではいけないことを夢見て、眠る時と同じに無理やり口へ運んだ。部屋へ戻っても何もする気にはならず、座ったまま窓の外を見詰めて一日中ぼんやりしていた。
私の何がいけなかったんだろう。柊史の傍にいたのに、何も気付く事ができなかった。
後悔に苛まれながら、何をしても、何を聞いても、全て柊史と過ごした日々へ繋がっていて、ただ……ただ、つらくて消えてしまい。そんなことばかりを考えていた。
部屋の隅にある、放っておかれたダンボールに手を伸ばす。家へ戻った次の日に送られてきた私の荷物。貼り付けてある伝票の、送り主の名前を指でなぞる。高堂柊史。その上には彼に書かれた私の名前。癖のある文字は、彼の手を指を、思い出させた。
ガムテープを端からゆっくりと剥がしていく。蓋を開けると二人の部屋の匂いが私を包んだ。胸の奥を押し潰されそうになりながら、ひとつずつ中の物を取り出す。柊史のシャツと一緒に壁へかかっていた私の白いブラウス。本には拾った銀杏の葉が挟まっている。大きなひざ掛けとお揃いのカップは、私が持っていったもの。
「……」
着替えや小物の中をいくら探しても、カップはひとつしか見当たらなかった。もちろん一つは柊史へあげたものだから、ここに入っていなくてもおかしい訳じゃない。
何かに気付きそうになった時、ダンボールの隅に封筒を見つけた。少し厚めのそれは、封がされていない。
「高堂、様?」
宛名は柊史の苗字だけ。住所は書かれていない。裏を見ても、差出人の名前はない。
「あ、」
何故か手元が滑り、封筒を床へ落としてしまった。何枚ものお札がそこから飛び出し、床へ散らばった。
――柊史が私へ別れを告げた夜。珍しく自転車で迎えに来てくれたあの日。いつもより丁寧に洗ってくれた髪。愛してるの、言葉。
封筒の意味に気付いた途端、怒りと羞恥に身体が震え出した。よろめきながら部屋を飛び出し、帰宅したばかりの父の元へと駆け込んだ。
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