階段を駆け下り、父の書斎の扉を乱暴に開けた。
「柊史に何を言ったの!?」
「なんだ、急に」
広い部屋の一角に置いてある机の前で座っていた父は、パソコンの画面を見詰めたままでいる。苛立ちと共に大きな声で父を問い詰めた。
「柊史と直接話したの? いつ? どこで? 私の知らない間に!?」
「陶子、落ち着きなさい」
「私を迎えに来る前に柊史に会ってたの? ねえ、教えて!」
幼稚な思いつきなどではなかった。
薄暗がりの中で見た柊史の表情が、今はっきりと目の前に現れる。何かを、決して悟られてはいけない何かを、言わずにいようとしていた彼の横顔を。
「どうしてこんな……ひどいことをしたの? 彼を馬鹿にしないで!」
封筒を机の上へ投げつけると、お札が飛び出し床へ散らばった。表情を変えない父は、椅子から立ち上がり、しゃがんでそれを拾う。
「……返してきたのか」
「当然よ。おかしい、こんな、の」
認めた父の言葉に、恥ずかしさで顔が熱くなる。柊史に対して申し訳ない気持ちで一杯になる。この家へ初めて彼を招いた時の様に、再び同じ目に遭わせてしまった悲しみで、勝手に涙が込み上げてくる。
「お前も世話になったんだ。このくらいの礼は当たり前だろう」
話の通じない父を睨みつけ、震える唇から搾り出すように言葉を吐いた。
「私、柊史の所へ行くわ」
「どこにいるかもわからない男を、どうやって捜すんだ」
「それでも捜すわ。どれだけかかってもいい。もう二度とここへは戻らない……!」
「親よりもあんな馬鹿げた奴の方が大事だというのか!」
怒鳴り声を上げた父は、両手で机を叩いた。
その目を、真っ直ぐ見つめる。逸らしたりしない。怖くない。怯まない。私が思っていることは、決して間違ってはいない。
「……大事よ。私、柊史が大事なの。彼のことも彼の夢も、自分のことよりもずっと」
私を連れて行ってくれた背中を、優しく髪を撫でてくれる大きな手を、いつもどこか遠くを見詰めている彼を、一人にしないと約束したのに。
「のぼせているだけだ。あんな部屋に住んで、他人と比べる時が来たら自分がどんなに惨めな生活をしているのか、その時にわかる」
「わからないのは、お父さんの方よ」
「陶子、お父さんはね」
「お母さんは、お父さんのことが好きで結婚したんでしょう?」
いつの間にか部屋へ入り、話を遮ろうとした母を振り向く。
「お父さんにお金があったから好きになったの? 安定した暮らしがあったから? じゃあもしお父さんが働けなくなって、お母さんが苦労することになったら別れるの? 嫌いになるの?」
「陶子!」
私の名を呼ぶ母を振りきり、再び父の前に立った。
「私は、彼と一緒なら何も思わなかった。お金が足りなければ私が働けばいい。彼は遊んでいるわけじゃないのよ?」
「娘が苦労するのを分かってて、止めない親がいると思っているのか!」
「苦労なんてひとつもしなかった。毎日が幸せで、これ以上何も欲しいなんて思わなかったわ」
「……くだらない。一年は我慢してやったんだ。別の人と結婚しなさい。既に二、三の話は付けてある。あの男も、自分が陶子を幸せにはできないと納得したんだ」
「嘘よ。どうせ、あることないこと言ったんでしょう?」
「親の言う事が信用できないのか」
「できないわ。私の幸せをこれっぽっちも知ろうとしてくれない人の言う事なんて、信用できない」
もう何もかも終わり。本当はこんな酷いこと、口にしたくはないのに。
「……今までありがとうございました」
頭を下げ、父に背を向けて部屋のドアへ向かう。私の全てが両親を拒絶しようとしたその時だった。
「陶、子……」
「お父さん!」
母の叫び声と共に、大きな音を立てて父が倒れた。
夜の病院はやけに静かで、廊下を歩いてくる靴音が遠くからでもよくわかった。救急車で運ばれてくる人、夜間診察を受けに来た人たちを、長椅子に掛けたままぼんやりと見詰める。
ナースステーションから戻ってきた母が、私の隣へ座った。
「お父さんは?」
「二、三日入院すれば大丈夫だって。ストレスね」
母はひとつ溜息を吐き、小さなペットボトルの温かいお茶を口にした。久しぶりに近くで目にした母の手は、以前よりも随分歳を重ねたように見える。
「……陶子が出て行ってからお父さん、少し体調を崩してたのよ」
「倒れたこともあったの?」
「ううん。これが初めて。興奮したんでしょう」
「……ごめんなさい」
頷いた母は私の顔を振り向いた。
「お父さんには陶子が必要なのよ。家にいてあげて」
「……」
「陶子」
「お父さんのこと、柊史も知ってたの?」
「この前、お会いした時に私から話したわ」
「……どうして、お金なんか渡したの」
「渡したというよりも、置いてきたのよ。陶子と一緒に出た朝、玄関に。高堂さん、何も言わなかったわ」
病院独特の匂いは、小さく生まれた不安を駆り立てた。
「陶子、あの人は駄目よ」
遠くへ視線を移した母は、静かに話し始める。
「自分が大変な時期に大切な女性を招き入れて、どうやって責任を取るつもりだったのかしら」
「責任?」
「あんな狭い場所に二人で。いいえ、二人ならまだいいわ。もし、もしもよ? 子どもが出来たらどうするつもりだったの?」
「ちゃんと気をつけていたわ」
「それでも、わからないものよ。男の人はね、何とかなるなんてすぐに楽観的なことを言うけれど、結局損をするのは女なの」
「……」
側にある自動販売機へ、私たちのように家族の付き添いへ来ている人が小銭を入れた。飲み物が落ちるガタンという音が、狭いロビーに響き渡る。それと同時に、私の心の奥へもまた一つ、重たいものが落ちていく気がした。
「まさか……待ってて欲しいだなんて、無責任なことを言われてはいないわよね?」
「……」
「あれから連絡、来たの?」
母の問いかけに目を伏せ、唇を噛み締める。連絡が来るどころか、私から電話をかけても一度も出てはくれない。最後の夜、愛していると口にした柊史から、待っててくれという言葉を聞くことはなかった。
「その程度だったのよ。彼にとっても、ひとつ足枷が無くなったのだから、自由にさせてあげなさい」
「足枷?」
「夢を追いかけている者にとっては、自分に纏わりつく女なんて、面倒なことに違いないでしょう? ましてや私たちに反対されているんだから。彼の迷惑になっていないか、陶子は考えもしなかった?」
「それは……」
「だったらもう、彼の為に追い掛け回すのはやめて、離れたところから彼の夢を応援してあげなさい」
「……」
「それが今の陶子に出来る事よ」
「いやよ、そんなの……!」
「子どもみたいに拗ねて会いに行っても、余計鬱陶しがられるだけよ」
もう簡単には家を離れられない。私のせいで傷ついた父を、今見捨てることは出来ない。
家を出たとしても……引っ越したことを知らせず、電話にも出ようとしない柊史は、母の言う通り、もう私を受け入れてはくれないの?
いつかこうして別れがくることを、本当は知っていた気がする。もう割れてしまった、不安を無理やり閉じ込めていた小瓶を、見て見ぬ振りをしながら必死に隠して怯えていた。
それでも柊史と一緒にいることを夢見て、頼りない道のりを歩いて、二人の思いを失くさない為に守りたかった。彼もきっと同じ気持ちなんだと、信じたかった。
柊史に逢いたい。逢いたくてたまらない。声が聴きたい。触れたい。その優しい腕に包まれたい。
アパートメントで聴いた美しい音色が、もう二度と届く事はない。静かに流れる涙を両手で覆い、柊史を想って、いつまでも肩を震わせ、そこから動けずにいた。
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