「陶子」
懐かしい声に振り向くと、スーツ姿の友人が笑顔で駆けて来た。
「ごめん、待った?」
「ううん。久しぶり」
「仕事早かったの?」
「うん。今日はすぐ片付いちゃって」
「じゃあ、行こうか」
駅ビルの中へ入り、落ち着いた和食のお店へ入る。クーラーが程よく効いている個室に案内され、居心地良さそうな椅子へ座った。
先に運ばれて来たグラスビールを口にしている彼女は、柊史の舞台へ私を連れて行き、彼と出逢わせてくれた友人だった。
「ねえ、陶子」
「うん?」
一瞬躊躇った彼女は、吹っ切るように笑顔で言った。
「仕事、だいぶ慣れたの? もうどれくらいだっけ?」
「一年半になるかな。皆いい人達だから、甘えてる」
「そう」
少し安心したように、彼女はもう一度笑った。
窓の外には、都会の綺麗な夜景が広がっている。すぐ下には何本もの線路が並び、電車がせわしなく行き交っていた。
「私ね、
「感謝?」
「私と柊史のこと、ずっと私の両親に言わないでいてくれたでしょう?」
「……」
「そのお陰で、彼と一年も一緒に居られたんだと思う。私たちが付き合っているのを知っていた人は、他に誰もいなかったから」
私の言葉に彼女は頷いた。
「菅野さん、高堂の名前に戻して活動してるのね」
「……うん」
「すごいね。雑誌で何度か見掛けた」
別れてから数ヵ月後、私は彼の演出している舞台をネットで調べた。辿り着いた先で見つけた演出家の名前は、菅野柊ではない彼の本名。
両親と和解することをずっと拒んでいたけれど、私と別れたことで柊史の中にある何かが……軽くなったのかもしれない。やはり私は彼の重荷になっていたのだろうかと母の言葉が何度も頭の中を過ぎり、時が経った今でもそれは私を苦しめていた。
「ねえ、尚美。あのお友達は?」
柊史と出逢った時に舞台へ出演していた、尚美の友人。
「うん。もうだいぶ前に、お芝居はやめちゃってる。今は派遣で働いてるよ」
「そう」
「最初から決めてたみたい。ある程度までいったらやめようって」
それきり柊史や舞台の話は出ず、お互いの職場や、昔の友人の話しなどで、あっという間に楽しい時間は過ぎて行った。
生暖かい風に包まれて駅ビルの外へ出る。
「絶対また連絡ちょうだい? 今日誘ってくれて嬉しかったんだよ? 本当に」
「うん。私も、尚美が来てくれて嬉しかった」
微笑んだ彼女は、小さな声で遠慮がちに言った。
「あのね、陶子。あたし今度、結婚するの」
「え……」
「同じ会社の人なんだけどね」
私を気遣い、その話を出そうとはしなかった彼女の優しい心に胸が熱くなった。
「おめでとう。お祝いしなくちゃね」
本当に、心から幸せになって欲しい。
「陶子も……お願いだから、幸せになるってあたしと約束して」
彼女は私の右手を自分の両手でふわりと包んだ。そこから伝わる温かさと柔らかさに、甘えたい。今だけ。ほんの少しだけ。
「……尚美。私、変なのかな」
「え?」
「別れてからもうすぐ二年になるのに、柊史のこと、全然忘れられないの」
「……」
「会えるどころか彼の声も聞けないし、顔も見れないのに毎日毎日ずっと考えて、前よりもっと好きになってる」
「……陶子」
「いつかきっとまた、柊史と一緒にいられる時が来るんじゃないかって、」
今まで誰にも言えなかった、上手にまとまらない気持ちを初めて口にした。
「馬鹿みたいだけど、ずっと考えてるの。柊史のこと、気付いたらいつも思い出してる」
隠し切れない思いと共に涙が溢れた。それは止め処なく流れ、二人の手の上に零れた。私を見つめる友人の瞳も、いつの間にか濡れている。
「おかしくないよ。だって高堂さんのこと、あんなに好きだったんだから。すぐに忘れられるわけがないよ」
「う、ん。う……ん」
思い出しては俯いて、つらくなって、忘れられなくて、いつまでも彼の温もりを捨てられなくて……できることならこの思いと共に私が消えてしまいたかった。
「あれから高堂さんの舞台、観た?」
「……ううん」
「行かないの?」
友人の手を、無言で強く握り返す。
「新しいのがもうすぐ始まるのは、知ってるよね?」
「うん」
「あたし、一緒に行こうか」
「……」
「陶子の何かが変わるかもしれないよ?」
頷くことができずにいる私の手を離した尚美は、バッグからハンカチを取り出した。
「もしその気になったら教えて。ね?」
「……ありがとう」
綺麗な刺繍の施されたハンカチを借りて涙を拭き、洗って返したいからとまた次に会う約束を交わし、それぞれの路線へ向かった。
帰宅すると父に書斎へ呼ばれた。私が家にいるせいか、病院へも二、三ヶ月に一度通院をするだけで良い位にまで父の具合は安定していた。
ここはいつでも古い図書館の匂いがする。小さい頃、壁に並んでいるたくさんの本を眺める時間が私はとても好きだった。
私と目が合うと、父は机の引き出しの中から一枚の小さな紙を取り出した。その色は、柊史と暮らした部屋のドアを思い起こさせる。
「行きたいのかどうかだけ、答えなさい」
手渡され、そこに印刷してある文字を目にした途端、私の手と共にそれは小刻みに震え出した。
――作・演出 高堂柊史。
「これ……どうしたの?」
あまりのタイミングに動揺を隠せない私へ、父は眉根に皺を寄せた。
「このチケット、お父さんが買ったの?」
「余計なことは言わないでいい」
まさか。ううん、もうそんな期待を望んではいけないことくらい、私にだってわかってる。
「陶子が行きたいというのなら構わない。但し、私たちも行く」
「お父さんとお母さんと、三人で?」
「そうだ」
尚美が言った通り、舞台は今度の週末に迫っていた。
「舞台を観たら、もういい加減に彼のことは忘れなさい」
「!」
「……お前の為に言っているんだよ」
穏やかな父の声は、いつまでも縋りついて周りを見ようとはしない私の心を全て見透かしていた。
「彼も新しい人生を歩み始めている。きっとお前が幸せになることも、望んでいるだろう」
「その為に、これを手に入れたの?」
食い下がる私に、父は溜息を吐き呟いた。
「行くのか?」
二年近く前、私へ送られてきたダンボールに、一つだけ入っていたお揃いのカップが、いつも心の片隅にあった。柊史が丁寧に入れてくれた私の荷物。
もしも彼を忘れるためにこのチケットを受け取ったとしたら、誰にも知られず守ってきた、頼りない光を放つ最後の小さな明かりが……消えてしまう。
「陶子」
「……」
「どうするんだ」
「……行きます」
それでも行かなければ、きっと前には進めない。
チケットが置かれた手のひらを見詰め、祈るように友人の温かさを思い返していた。
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