A birdcage〜トリカゴノナカデ〜

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(12)懐かしい背中




 駅から直通の大きなホール。ここは以前、柊史に連れられて来たことがある場所。あの時は寒い冬で、凍える身体を寄せ合いながら帰りの電車に乗り込んだのを覚えている。

 広いロビーは相変わらず美しい。入り口付近にある飾り花には、聞いた事のある有名人の名前が送り主として連なっていた。
「陶子、何か飲む?」
「ううん。大丈夫」
  母は父に飲み物を頼まれ、買いに行った。残された私と父は壁際に立ち、母を待ちながら次々に入ってくるたくさんの人を眺めていた。
「陶子。ここへ来たということは、どういうことかわかっているね?」
「……これからお芝居観るんだから、今は言わないで」
 冷静な声で答える私をしばらく無言で見詰めていた父は、それ以上私の思いを探ろうとはしなかった。

 広いホールの座席は観客で埋め尽くされていた。柊史と同じ場所にいると思うだけで胸が震える。どこかから観客席を見ていることがあるのかもしれない。私がいるのかどうかなんてわかるはずもないけれど、もし、もしも……。
 その時美しい声のアナウンスが入り、隣にいる父は携帯電話の電源を落とした。


「陶子、出るぞ」
「あ……」
 久しぶりに観た彼の世界に圧倒されて、しばらくは口も利けずに呆けていた私は、父に促されロビーへ出た。
 パンフレットを抱えて口々に感想を言い合う人。その人達の顔を見れば、柊史がどうしてここまで舞台に拘るのかが、わかるような気がした。
「すみません」
「いえ」
 誰かが後ろからぶつかり、その拍子に私が向けた視線のずっと先に、懐かしい背中が見えた。逸る鼓動が、夢ではないと教えてくれる。

 いつもしがみついていた、彼の痩せた薄い背中。見たことのあるシャツを着ている。駆け出したいのに、足が動かない。
 柊史はたくさんの人に囲まれ、声を掛けられていた。彼の肩を叩き嬉しそうに何かを話していく年配の人。花束を渡す為に少しの列を作っている若い人。何人かのグループで連なり、大きな声で笑いかけていく同年代の人たち。次々現れては、柊史の周りを取り囲んでいった。

 柊史、柊史……!!
 声が、出ない。胸が痛い。必死に名まえを呼んでいるのに、それは喉の奥で留まり、そこから先へ出ていこうとはしてくれない。

「すごいな、これは」
 彼に対して、初めて賛美の声を上げた父の腕に手を掛ける。
「お父さん、帰ろう」
「陶子」
「いいの? 声、掛けなくて」
 私の顔を覗きこむ母が言った。
「……もういいの。よくわかったわ、私。もういいの」

 彼がまるで別の世界の人に見える。彼の成功は私と離れたからなのだと、今はっきりとそれを見せ付けられた。きっと私が想像もできないほどの努力をしたんだろう。
 柊史はあんなにも変わったのに、私はいつまでも変われない。離れていた間、私は一体何をしていたの?

 人ごみを縫いながら、逃げるようにその場を去り、ロビーから飛び出した。父と母が何かを言っていた気がするけれど、私には何も聞こえない。聞きたくない。
 その後、柊史の舞台は再演が決まった。それから一ヶ月後、柊史は演劇祭の大賞を獲得した最年少演出家として発表された。



 父と母に告げてから家を出、一人電車を乗り継ぐ。
 来週、父の決めた人と会う。きちんとけじめをつける為に、柊史を忘れる為に、どうしてもあのアパートメントへ一人で行きたいと話すと、父は何も言わずに頷いてくれた。

 駅を降り、バスへ乗る。いくつかの緩い坂道のバス通りは、知らないお店や新しい家がいくつか立ち並んでいた。バス停を降りると、ここだけは何も変わらない景色が私を迎えてくれた。
 青い葉が黄色くなり始めたばかりの銀杏の樹は、アパートメントに寄り添っている。
 もう諦めたはずなのに、その姿を見た途端涙が溢れた。ここを初めて訪れた時から、私はこの銀杏の樹に憧れていた。何も言わずにただそっと、私も柊史の傍にいたかった。何もいらない。柊史がいれば他に何もいらなかった。

 指で涙を拭い、アパートメントの階段前の扉へ向かう。薄いグレーだった扉は、真っ白なペンキに塗り替えられていた。
「……」
 中へは入らず踵を返し、アパートメントの間を歩いていく。途中、レンガで出来た花壇には、以前よりも大きくなったアーチにくすんだ色の薔薇がいくつか咲いていた。相変わらず手入れが良いことに、少しだけ笑みが浮かぶ。

 小さな公園のブランコは、誰にも相手にされないまま、秋の風に吹かれて揺れていた。低い位置にあるブランコに座り、少しだけ漕いでみる。靴の裏を引き摺りながら、抜けるような青い遠くの空を見詰めた。
 今頃、柊史はどうしているだろう。こんな風にほんの少しでも私のことを思い出してくれることはあるのだろうか。ホールのロビーで見た彼の背中が胸を掠めた。もしもあの時、駆け寄ってしがみついたなら、彼は何て言っただろう。
 けれど、柊史と一緒に過ごした日々は、本当は夢だったのではないかと錯覚を起こしてしまうくらいに、私はあの場で無力だった。彼の前に出ることは迷惑でしかないのだと、あの時やっと母の言葉を受け入れることができた。

 かさりと草を踏む音がした。
 二年前にもらった新聞紙にくるまれた数本の冬薔薇。膝の上に置いてくれたことを、もう忘れているかもしれないけれど。

 後ろにいるだろう無口な管理人さんへ、慰めてもらったお礼を言う為に、足下の土を見つめながら口を開いた。




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