後ろで草を踏んだ足音が、少しずつ近付いて来た。
「あの、薔薇をありがとうございました。もう随分前のことですけど」
照れくさくて、ブランコに座ったまま、まだ顔を上げられない。
「ずっとお礼も言いに来なくてすみません。あの時いろいろあって、でも本当に嬉しかったです」
綺麗な薔薇を持ち帰り、部屋に飾って眺めていた。美しいその姿に、私はどんなに慰められたかわからない。
管理人さんは今もあの作業服を着ているんだろうか。その首元には、きちんとしたシャツとネクタイが見え隠れして、皺のある手には鋏と新聞紙を持って。
相変わらず無口な管理人さんを振り向こうとした時、声をかけられた。
「ずっと、ここにいたの?」
「……」
「一人でずっと」
混乱していた。その声に心臓が誰かに掴まれたようになり、激しい動悸に息が詰まり、肩が震える。
「陶子」
私の名を呼ぶ声の主が、もしも違っていたら。これが私の幻聴だったら。何度も夢に見ては目が覚めると、そこにはいつもつらい現実があった、今までの朝と同じだとしたら。そう思うと、どうしても振り向く事ができない。
乗っていたブランコが微かに揺れた。私の後ろに立つ気配が、頭のすぐ上にある左右の鎖を両手で押さえたのがわかる。
「僕、来月フランスへ行くんだ」
頭上で響く声に眩暈が起こり、鎖を痛いほど強く握った。
「向こうで、他の演出家とユニットを組んでの公演が決まった。勉強の為にも、しばらく日本へは帰って来ないかもしれない」
やはり後ろにいるのは柊史なんだと、私の頭が理解をし始めた途端、次々に彼の言葉が胸の奥深くへ突き刺さっていった。
日本には帰らない? もう逢えないの? 柊史は本当のお別れを言いに来たの? どうして今……どうしてここにいるの?
「ここの薔薇は、まだ咲いているんだね」
「……」
「陶子、顔見てもいい?」
「いや」
「どうして?」
「最後にこんな顔、見せたくない」
諦めようとここへ来たのに、彼の声を聴いた途端、縋り付きたくなってしまった、こんなみっともない私を絶対に見られたくは無い。
「大賞、おめでとう」
涙を拭き、声を絞り出した。私には何も出来なかったけれど、きちんと送り出してあげたい。
「ありがとう」
「応援してるから、ずっと。頑張ってね」
「君はどうして今日、ここにいたの?」
「え?」
秋の風が吹いた。それは二人が過ごした日々と同じ匂いで、公園の向こう側からブランコの間をすり抜けていった。
鎖を掴んでいた私の両手には温かい手が乗せられ、上から包まれた。彼の温もりに、拭ったはずの涙がまた溢れた。
「僕の自惚れかもしれないけど、もし違っていなければ、陶子に伝えたいことがあるんだ」
足下の土は私の靴に引き摺られて、乾いたベージュと湿った黒に分かれている。
「二年前突然別れを言って、君をここから追い出した僕を許して欲しい」
「……」
「陶子に甘えないで、僕が死ぬ気でやっていく為には必要だった。君の両親に認めてもらう為にも」
私の両手を一瞬強く握った柊史は、そこからすぐに手を離した。顔を上げると、前に回りこんだ柊史が、土に片膝を着いて私を見つめていた。
「陶子。もし、もしもまだ僕のことを少しでも思って、ここにいたのなら……」
縋るようなその瞳は、私を捜しに靴の後ろを踏み潰したままでここに来た、あの朝と同じに見えた。
「僕と一緒に来て欲しい」
流れる涙をそのままに、彼の瞳を見詰め返す。
「髪、短くできなかったの。柊史が綺麗だって言ってくれたから」
彼は頷いて、ひざまずいたまま私の手を取った。
「……私も、あなたに伝えたいことがあったの」
「うん」
「最後の夜、どうして私も言えなかったのかって、ずっと。ずっと後悔してた」
たくさんもらったのに、私は返してあげることの出来なかった言葉。
「柊史のこと、愛してるって」
告げた途端、彼は正面からブランコに座る私を抱き締めた。私の髪に顔を埋めた彼は、確かめるように何度もその手に力を込めた。
「忘れるためにここへ来たのに、駄目だったの」
懐かしい匂いのするその胸に、彼は私の頭を抱え込むように押し付ける。くぐもった声しか出せない私は、途切れ途切れに言葉を紡いた。
「柊史のこと、今までずっと忘れられなくて、」
「陶子」
「もう、置いていかないで」
消えてしまいそうな声で願うと、彼は私の頬を両手で包んで言った。
「絶対に置いていかないよ。もう二度と」
「……うん」
「陶子。もう一度、聞かせて?」
せがまれた私の思いを、躊躇うことなく口にする。
「柊史、愛してる」
「僕もだよ。愛してる、陶子」
彼の瞳に映る私の姿が、水の中にいるように一瞬揺らいで見えた。どちらともなく近付き、そっと唇を重ねる。二年の時は二人を、ほんの少しだけ怯えさせた。
お互いの額をつけて微笑み合うと、今度は胸に湧き上がる思いを抑えることなく、強く深く確かめ合った。
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