ブランコを囲む鉄の柵に腰掛けて、二人並んでいたはずなのに、いつの間にか私は彼の膝の上で温かい腕に包まれていた。
何から聞けばいいのか迷ったけれど、思いついたことをそのまま彼にぶつけていった。
なぜ電話に出てはくれなかったのか。どうして待っててくれとは言わなかったのか。両親と柊史が交わした、私の知らない約束のひとつひとつを、彼は丁寧に教えてくれた。
手紙とチケットを舞台の度に両親へ送っていたこと、大賞を取ったあの舞台だけは私にも観て欲しいとチケットを三枚送っていたこと。
「私の両親、それまでの舞台を観に行ってはいないと思うわ。……ごめんなさい」
「当然だよ。来てもらえないのはわかっていても、僕のしていることを知って欲しかっただけだからさ」
柊史は足下にある小さな石を、靴の先で転がした。辿り着いた先の枯れ草へ、彼と一緒に視線を送る。
「私がここにいるの、どうしてわかったの?」
「絶対に駄目だって言われてたけど、君の家へ直接伺ったんだ。陶子をホールのロビーで見つけてから、もう我慢できなかった。受賞できたら、一番に君へ逢いに行こうと決めていた」
「私のこと、わかったの?」
「すぐにわかったよ。声を掛けようとしたけど、あっという間に人ごみに消えてしまって、追いかけられなかったんだ」
逃げるようにあの場を去った、つらい思いが蘇る。
「僕と入れ違いで、君がアパートメントへ向かったことをご両親が教えてくれて、急いでここへ来たんだ」
「何か話したの?」
「君を連れて行きたいと話したら、陶子の気持ちに任せるって言ってくれた。僕のことも……認めてくれたよ」
私の髪をすくった柊史は、指に絡ませ目を伏せた。
「でも正直、ここに来るまでは怖かったよ。陶子が僕を受け入れてくれなかったら、なんて思うとさ、ブランコに座る君を見ても中々近寄ることができなかった。足も、震えてた」
苦笑する柊史の手を取り、私の頬へ当てる。
「私、心のどこかで思ってた。いつかきっと、また柊史と一緒にいられる日が来るんじゃないかって」
どうして? という顔をして彼が私の顔を覗きこんだ。ひとつひとつの仕草が懐かしくて、また涙が滲んでしまう。
「カップを、ひとつしか送らなかったでしょう?」
「……ああ」
「もし、私がその意味に気付かなかったら、」
「陶子なら、わかるだろうって信じてた」
「私も、信じてたわ。きっとまた二人で使う日がくるんだって。柊史もそう思っているから自分でひとつ持って行ったんだって」
ダンボールを開けた時から、小さな明かりは私の心の片隅を灯し続けていてくれた。頼りない光ではあったけれど。
「でもロビーであなたを見た時、もう駄目だと思ったの。柊史はあんなに変わったのに、私は何一つ変われなかったから」
「僕が変わったように見える?」
「そう、感じたの」
「今は?」
「ちっとも変わってない」
私を見つめる瞳も、優しく囁く声も、肩も、柔らかい髪も、込み上げる愛しさをはらんだ泣きたくなる背中も、全部あの頃のまま。その答えに頷いた彼は、嬉しそうに微笑んだ。
「変わらないさ。君がいたからここまで来れたんだ」
「うん」
今まで離れていた時間を埋めるように、お互いの髪を撫で鼻先を擦り合わせ、囁きに耳を傾ける。
「毎晩、君を思い出しては眠れなくて、苦しかった」
「私もよ」
「僕とこれから先、ずっと一緒にいてくれる?」
「いるわ。だから、離さないで」
柊史に抱き締められた私には、彼以外に何も目にはできず、秋の匂いも、聴こえてくるはずの美しい音楽も届かない。私の全ては彼で埋め尽くされ、満たされた。
「どうしたの?」
突然私から離れ立ち上がった柊史は、背を向けしゃがみ込んだ。
「陶子乗って。行くよ」
言われるがまま、彼の背中に身体を預ける。歩き出した柊史の耳元に言葉を送った。
「どこ、行くの?」
「本当はこのまま、僕の部屋へ君を攫って行きたいんだけど」
「?」
「君のお父さんと約束したんだ。もし、陶子と会うことが出来たら家まで送ってくれって」
「……いやよ。私、今日はこのまま柊史といる」
「我侭言ったな?」
「だって、きゃ!」
いつの間にか日が落ち薄暗くなったアパートメントの間を、柊史は私を背に乗せたまま走り出した。小さく悲鳴を上げて彼の首にしがみつく。あの頃が戻ってきたようで嬉しいのに、まだ拭いきれない不安な気持ちが私をからかった。
足を止めて笑った柊史は大きく息を吐いた後、私を肩越しに振り向いた。
「陶子。君もこれから、うんと忙しくなるんだよ」
「え?」
「僕は来月には日本を発つ予定だ。お互い、いろいろな手続きもしなくてはならないし、仕事のこともある。多分あっという間にその日が来る。だからそれまで、君にはなるべくご両親と一緒に過ごして欲しいんだよ。あっちへ行ったら、なかなか会えなくなるからね」
もしもこの人が、私を連れて行った時からずっと、自分の思いだけを先に立たせる人だったら、私はここまで彼を好きにはなっていなかったのかもしれない。いつか、と呟いていた柊史はそれを実現させる為に、たくさんの努力を背負ってくれた。
「ありがとう。いつも私の両親を気にかけてくれて」
「当たり前だよ。僕の大事な人の大切な親なんだから」
「私も、会える? 柊史のご両親に」
静かに歩き始めた柊史は、クスッと笑った。
「だから忙しいんだよ。この三週間の間に、君を僕の実家にも連れていかなくちゃならないからね」
「本当に?」
「本当だよ。陶子の名前も変わるし」
「どうして? 私、柊史みたいに演出なんてしないし、役者さんでもないわ」
私の問いかけに、銀杏の樹の下で柊史は立ち止まり、呟いた。
「……高堂に変えるつもりはない?」
「……」
「高堂陶子って、どうかな」
俯いた彼の横顔は、私の胸の奥をまたひとつ、切ない幸せの色で塗り重ねていく。
「そんな……夢みたいなこと、いいの?」
「いいさ。夢にしたくないんだ。陶子のこと」
「私、ここへ来た時からずっと、この銀杏の樹に憧れていたの」
二人で顔を上げ、その姿を仰いだ。
「このアパートメントに静かに寄り添って、いつまでも傍にいるこの銀杏に」
背中からそっと降りて、その胸に額をつけると柊史は肩を抱いてくれた。苦しいくらいにあなたを思うこの気持ちを、早く教えてあげたい。この手が二度と離れていかないように、願うだけではなくて、あなたに伝えたい。
「私もそうなりたいの。柊史の隣に、こうしていつまでも寄り添っていたい」
「ありがとう。僕もだよ。ずっと寄り添っていこう」
銀杏の樹は私たちを優しく見下ろし、黄金色に輝くのを待ちながら静かに佇んでいた。
Copyright(c) 2010 nanoha all rights reserved.