「……駄目だったか」
ネットの情報でいち早く演劇祭の結果を見て、溜息を吐いた。
「次は確実に取る。いや、取れるな」
床に仰向けに寝転がり苦笑した。
大賞なんて、その時の審査員の機嫌だの、知ってる名前だの、この先自分たちにとってどれだけ得になるかだので、大方決まる。
観客賞は獲得した。僕個人としてはこれで十分だ。劇団員も満足だろう。きっと陶子も喜んでくれる。ただ、陶子の両親に納得してもらう為には、大賞でなくては意味が無い。
天井からぶら下がっている、電球に被さったアルミの傘を見つめる。陶子が綺麗に拭いてくれたのか、僕の身体をはっきりと映し出していた。
「……」
次は二年後だ。陶子はそんなに待っていてくれるだろうか。二年後に賞を取ったとしても、その後はしばらく忙しい日々が続く。きっと、僕の方が待ちきれない。
この先、いつまでも住民票を移せない生活や、保険証の無い不安を抱えさせるわけにはいかない。僕には陶子が必要だ。陶子も僕を必要としてくれているのなら、このままこうして一緒にいたい。
その時、呼び鈴が鳴った。
「?」
こんな時間に珍しい。起き上がり、急いで玄関へ降り立った。僕にはドアから小さな覗き穴に目を通す習慣が無い。すぐにノブへ手をかけ、回し、重たいドアを開けた。
「はい。新聞ならいらな、」
「陶子は?」
そこには……陶子の両親が居た。以前、一度だけ彼女の家で会ったのことのある二人は、僕を見詰めていた。
「あ……」
「どこにいるの? 隠さないで! 陶子はどこ?」
「おい」
「だって、あなた!」
「……どうぞ、お入りください」
狭いアパートメントの玄関に、僕と陶子と彼女の両親の靴が並んだ。
僕のあとへ続いた陶子の父は床に座り、部屋をぐるりと見回した後、苦い顔をして言った。
「こんな薄汚いボロ屋に住まわせて」
「まさか、陶子はアルバイトへ行っているの?」
「……はい」
二人の正面に正座をして座る。ストーブの上に置いてあるケトルからは、湯気が立ち昇っていた。
「陶子に働かせて、自分は家にいるのか」
その言葉に一瞬だけ頭に血が上ったのを、咄嗟に抑えつけた。この人達から大事な人を奪ったのだから、当然の言葉なのだと自分へ思い知らせる。
「いえ、違います。今日は僕の仕事が休みなだけです」
お茶を淹れようとした自分へ、いらないという仕草をした陶子の母が話し始めた。
「陶子に、それだけはやめて欲しいと言われていたけれど、もう一年だもの。我慢できなくて……興信所を使いました」
「……」
「苦労したわ。陶子自身の住所は変わっていないし、保険証も前のまま。未成年でもないし、連絡もしてくるから行方不明で警察に届けるわけにはいかない。電話だってあの子、わざわざ毎回別の街からかけてきて……!」
震えた声で話す陶子の母、無表情で僕を見る彼女の父、二人と交互に視線を交わしてから口を開いた。
「許しては、もらえませんか。僕と陶子を」
「何を言っているの? あなたはこんな……こんな所でしか、陶子と一緒にはいられないのでしょう?」
初めて会った時と同じに、その瞳は僕を軽蔑していた。それはきっと、一生拭われる事はないんだろう。
「苦労するのが目に見えてわかっているのに、そんなことを許す親がいると思っているの!? 何度も言ったはずです。それをこんな誘拐まがいのことまでして」
「……僕は、彼女と結婚したいと思っています」
陶子には告げていないけれど、本気で考えていたことだ。ここへ来てからずっと。
一瞬の沈黙のあと、彼女の父が吐き捨てる様に言った。
「だったら今すぐこんな生活はやめるんだな。私が紹介してやってもいい。そこに落ち着いて、見込みがあれば、」
「僕は舞台をやめるつもりはありません。彼女もそれをわかってくれています」
「まともに就職すらままならないこんな時代に、何ができるって言うんだ!」
大声を出した陶子の父は、その手を床に叩き付けた。隣に座る母が言葉を続ける。
「あなたは、ご両親からも反対されているんでしょう?」
「!」
「とても良いところのお宅なのに、なぜ? 活動するのに名前まで変えて、そこに何の意味があるというの?」
「……調べたんですか」
「君が家の事業を継いできちんと働く、まずはそこからだろう」
「それはできません。僕がやるべきことは、違う場所にあります」
「高堂君、誤解してもらっては困る」
呆れ顔で大きな溜息を吐いた陶子の父は、膝に置いた拳を強く握り締めていた。
「陶子が家を出てから、君のことを憎くないと思わなかった日はない。これでも今、君に掴みかかってやりたいのを必死に抑えているんだ」
「……」
「陶子を本当に幸せにしたいと思うなら、君の考えは間違っていると何故わからない? この一年、君のしてきた事というのは、一体何の成果があったんだ」
「あと少しなんです。見ていてください。必ず次は、」
「君は私達を馬鹿にしているのか!? そんな甘い世界じゃないことくらい、私にだってわかる。君と離れれば陶子は幸せになれる。それだけは今、確実にわかっていることだ」
「あの子がパン屋でアルバイトをしているのは何故なの? 美容院には毎月行かせているの? 靴も洋服も新しいものを買っているの? あの子はまだたくさんおしゃれもしたい年頃なのよ? いいところへ嫁いでいけるように、精一杯育てて来たのに……!」
膝に乗せたバッグの持ち手を強く握り締めている彼女の母は、とても美しい人だった。陶子は母親に似ている。
「……この人、陶子が出て行ってから身体を壊して、」
「やめなさい」
「あなたは黙ってて。この人最近血圧も上がって、ずっと体調を崩していたの。興信所を使ったのも、早く陶子に戻って来て欲しいからなんです。わかるでしょう? 高堂さん、陶子を返して」
一瞬、全てを諦めようと思った。薦められた職へ就いて、僕が目指してきたものを何もかも捨てて、忘れて、そうすれば陶子との結婚を許してもらえるのかもしれない。彼女と、離れなくてすむのかもしれない。
けれど、そんなことをすれば陶子をここへ連れてきたこと自体、否定することになる。僕を支えてくれた彼女を、二人の生活を、僕の夢を一緒に追ってくれた彼女の思いを。
この一年は、陶子にとって何だったんだろう。
僕を励まして、傍にいて、一緒に過ごして、僕の邪魔にならないよう静かに頷いて、贅沢させてやることもなく働かせて……ただ、それだけだ。そして今、彼女の大切な人達をこんなにも傷つけている。
陶子を迎え入れた日、何もあげられずにいた自分と何ら変わりはない。彼女に甘えたままの、無力な自分。
その時、外からチェロの音色が流れてきた。昼過ぎ、陶子が部屋を出た後に聴こえてきたものと同じ、胸に刺さる切ない旋律。
「……わかりました」
僕の言葉に頷いた彼女の父親は、ジャケットの内ポケットから封筒を差し出した。
「受け取りなさい。一応娘が世話になったんだ」
中身を見なくてもわかる厚みのあるそれは、自分がこの人達にどれだけ否定されているのか、十分すぎるほど悲しく伝わった。
「……受け取れません」
「まあ、この金でまた逃げ出されても困るがね」
「そんなことはしません……!」
「陶子を連れて帰る時に置いていく。早く呼びなさい」
「待ってください。彼女には僕からきちんと話します。明日の朝、もう一度迎えに来ていただけませんか」
「信用できないわ。どうせまた二人で出て行くのでしょう?」
「逃げません。もう他に、行く場所はありませんから」
「どこへ逃げても無駄よ。今度はすぐに調べさせます」
机にあったメモ帳を掴み、ボールペンでなぐり書き、陶子の母へ差し出した。
「僕の携帯電話の番号です。明日の朝、必ず僕が連絡を入れますから、陶子を迎えに来てください。お願いします」
床へ両手を着き、頭を下げた。自分を見詰めているであろう無言の二人へ、祈る気持ちで声を絞り出す。
「……手紙を、書きます。舞台を創る時はチケットも送ります。お二人で観にいらしてください」
「そんなもの受け取る気はない」
「それでも書きます。二年後、僕が認めてもらえるように、目指しているものがあります。必ずその時にはお伺いします。陶子と一緒になることを、許していただけるように」
「無駄だ。それまでに、陶子は君以外の男と結婚させる」
目の前に差し出された封筒を掴む手の形が、陶子のそれに少し似ていた。
「……謝らないんだな、ひとことも」
「間違ったことをしたとは思っていません。彼女を、愛していますから」
「生活していく為には金がなきゃ始まらないんだよ。君がしていることもそうだろう。所詮この国においては、そうして身を削って費やしている時間も金も全てが無駄になる」
「……」
「若い時はいい。だが、気付けばあっという間に歳を取っている」
「……」
「一刻も早く夢から覚めて、現実を見ることだな」
言い終わると同時に立ち上がった気配へ顔を上げると、こちらを見下ろす陶子の母の視線が自分を捕らえた。
「高堂さん。お願いだから、陶子に待っていてくれ、だなんて口が裂けても言わないでちょうだいね」
押し潰されそうな心に唇を噛み締めた。少しの望みへ縋りつき、繋げようとしていた自分を全て見透かされたようで、いたたまれない。
「家に来たり、もちろん電話もしないで下さい。陶子があなたの携帯電話へかけても、絶対に出ないで」
「……」
「約束してくれますね?」
何も、言い返せなかった。先に視線を外したのは僕の方だ。それだけでもう、今は陶子の傍にいる資格はないのだと、無理やり自分に言い聞かせる。
「……はい」
返事をしてしばらくすると、空を見詰めたままの自分の耳へ、重たいドアの閉まる音が届いた。
暗い道を自転車で走り、パン屋でアルバイトをしている陶子を迎えに行く。店の側のガードレールで待ちながら見上げると、しんとした空には星が輝いていた。
僕を見つけて駆け寄って来た彼女の手に触れる。二人乗りをした途端、後ろからしがみついてくる陶子の温もりが、哀しかった。もう今夜でお別れだと告げたら、彼女はどんな顔をするだろう。どんな声で僕に問いかけるだろう。
僕を一人にしないと言ってくれた陶子へ、最後の夜に僕がしてやれることは……。
バス通りの緩い坂道をいくつか上りながら、初めて陶子と逢った時のことを思い出していた。公演後、僕に会いたいという人がいると声を掛けられ振り向くと、そこには陶子がいた。友人と二人連れで来たのだろう。なのに僕の目には彼女しか映らなかった。
さっきパン屋の側で触れた陶子の手は冷たかった。一年前、彼女を連れて来たあの時と同じ様に、頬を撫でる風は冬に近い。寒がりの陶子を早く温めてあげたい。彼女の綺麗な足をまた、霜焼けにさせるわけにはいかない。
「……今日、一緒に風呂入ろうか」
「うん。久しぶりね」
何も知らない嬉しそうな声に胸が詰まる。多分この言葉は彼女に届かない。届かなくていい。
「……恋に、落ちたんだ」
出逢ってすぐに。僕を見詰める瞳に。綺麗な長い髪に。その甘い声に。柔らかく笑う表情に。いけないのだと知ってからも、求めずにはいられなかった。
「柊史、風邪引いた?」
「いや」
「鼻声みたい。お風呂入れるの?」
優しい気遣いに、涙ぐむ自分の声を悟られないよう、大丈夫だと答える代わりに、陶子の右手へそっと自分の右手を重ねて強く、強く握った。
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