外へ出ると、ひんやりとした空気と群青色の闇。バス通りを走る車のライトが、眩しく目の前を通り過ぎていった。パン屋のシャッターを下ろし、鍵をかけ、挨拶を交わす。
「お疲れ様でした」
「あら? 今日も帰り、バスなのよね?」
私よりもずっと年上のパートさんが、首をひねった。
「はい」
「もしかしてあの人、奥澤さんの彼?」
「え?」
パートさんの指差した方を振り向くと、離れた場所にあるガードレールの前に立つ彼が、こちらを見ていた。
「柊史」
私の呟きに目配せをした彼女は自分の自転車へ乗り、私たちとは反対方向の住宅街へ消えていった。
「迎えに来てくれたの?」
「ああ。お疲れ様」
駆け寄ると、自転車の側で柊史が微笑んだ。珍しく迎えに来てくれたことに、嬉しくて舞い上がってしまう。
「今日、稽古あったんじゃないの?」
「……いや、僕が勘違いしてただけ。陶子、お腹空いてない?」
「遅番だったから夕方に食べちゃったの。柊史は?」
「僕も減ってないから大丈夫」
暗闇の中を、二人乗りの自転車で走る。冬の手前のこの空気は、初めてアパートメントへ連れて来てくれた、あの季節を思い出させた。セーターを着ている柊史の腰へ手を回し、大好きな背中へ額を当てると彼の匂いが伝わった。
「……今日、一緒に風呂入ろうか」
「うん。久しぶりね」
「……」
ふと、彼が何かを呟いた気がした。
「柊史、風邪引いた?」
「いや」
「鼻声みたい。お風呂入れるの?」
柊史は大丈夫と答える代わりに、私の右手へそっと自分の右手を重ね、強く握った。
いくつかの緩い坂を越えると、古いコンクリート造りのアパートメントの前へ到着した。あの時と同じように、たくさんの黄金色が私たちを迎えてくれる。一枚拾ってくるりと回し、部屋へ連れ帰った。
相変わらず柊史は、私の身体と髪を丁寧に洗ってくれる。夢のような心地にうっとりしながら、熱いお湯の中で彼の優しさに浸った。
「ここへ来てから、もう一年になるのね」
灯りを落とし一緒にベッドへ入り、彼の腕枕の中で呟く。天井を見つめていた柊史が、静かに答えた。
「僕はね、一生他人とは暮らさないって、ずっと決めていたんだ」
「……そう、なの?」
「自分の領域に他人を入れること自体、絶対に有り得なかった」
「……」
「そんな僕が、君に出逢ってからは、毎日君のことを考えて何も手につかなくなった。一時は戯曲も書けない、芝居を観ても楽しくない、演出のことも舞台のことも、何もかもがどうでも良くなるほどで、参ったよ」
柊史は苦笑した。そんな彼の話を面映い思いで聞く。
「陶子に夢中になって、心が通じてからは何でもできると思った。自分でも不思議なくらいに」
窓の外を、ぎーこぎーこと錆び付いた自転車が走り去っていく。
「だから、いくら反対されても君を失うことは到底できなかった。君の両親から無理やり奪ってでも、自分の元に陶子を置いておきたかったんだ。それが……」
言いかけた彼は息を吸い込み、小さく溜息を吐いた。一瞬の沈黙に、私の心臓がどくんといやな音を立てる。
「柊史?」
「それが……君の為にはならないなんて、そんなこと本当は十分わかっていたけれど」
「……」
「……」
突然胸の奥にある小瓶が私の前に現れ、何かによって無理やり蓋をこじ開けられるのを、上から咄嗟に押さえようとした。
――柊史は何を、言おうとしてるの?
「陶子、よく聞いて」
「……」
「僕は生涯、君以外の人と結婚するつもりはない」
嬉しいはずなのに、柊史の声が胸に苦しい。何か、音があれば良かったのに。さっきの自転車でも車でもラジオでも、何でもいい。二人の言葉や吐息だけではなくて、何か。私は必死に、昼間出がけに外で聞いたチェロの曲を思い出していた。
「僕は君と、結婚したいと思ってる」
「……柊、」
「でも、それを実現させる可能性は、限りなくゼロに近いんだ」
彼の私を抱く右手に力が加わった。
「最終選考には落ちたよ」
「!」
「どんなことがあっても、この賞を取りたかった。また、何もかも一からやり直しだ。次はもう何年かかるかわからない」
「柊史、私だったら平気よ? 結婚なんかしなくたって、こうしていられればいいの。何年でもずっと」
「そうはいかないんだよ」
「どうして? 大丈夫よ、私」
「陶子」
「私ずっとここにいる。柊史の傍に、一緒にいたいの。邪魔したりしないから、」
「陶子。……今夜でもう、お別れなんだ」
信じられない言葉に、私の身体が震えた。勝手に涙が溢れてくる。突然そんなことを言われても、何も見えない。何を言ったらいいか、わからない。……わからない。何も、わからない。
「……追い出さないって、言ったのに。置いてくれるって、傍に」
「……」
「お金が足りないなら、私もっと働くから。お願い」
「そんなことさせられないよ」
「じゃあどうして……私をここに呼んだの?」
私の声に彼が一瞬だけ眉を寄せた。
「……どうして?」
すがりつく私を、柊史は振り向かない。
「好きだからだよ。さっき言った様に、好きで、大好きで、どうしても陶子と一緒にいたかった」
「だったら、」
「でもあの時とはもう、違うんだ」
理解できない彼の気持ちに、静かな怒りと悲しみが込み上げてくる。
「それほど好きじゃなくなったの? もう嫌いになったの?」
「そんなんじゃない」
「好きな人ができたの?」
「違う」
その時、何かが私の頭を掠めた。彼と別れたくないから、そこへただ縋りつきたいだけの、幼稚な考えかもしれない。でも。
「……もしかして、私の両親に何か言われたの?」
「僕が決めたことだ」
淡々と答える柊史の横顔からは、何も見えなかった。薄っすらと部屋に入る外灯の灯りで、彼の顔は見えるのに何も読み取ることができない。
「ねえ、お願い。本当のこと教えて?」
「……」
「だって急にこんなのおかしい。言ってよ、柊史」
「明日の朝にはここを出て欲しい。家に帰るんだ」
「いやよ! 私絶対にいや! あなたと一緒にいる!」
彼は何も言わずにただ天井を見つめ続けている。何かを、決して悟られてはいけない何かを、言わないで我慢しているように見えるのは、私が自分の為に都合よく、そう願っているから?
「帰ったら、私もう二度と柊史に逢えない」
「……」
「そんなのいや、い、や……」
いや。ひどい。どうして? 言いたくないのに、こんな言葉しか出てこない。涙を零し、彼の胸を叩くその手を掴み、息が止まるほど強く唇を重ねて、柊史は私の言葉を塞いだ。
壊れそうになるほどきつく私を抱きながら、柊史は何を言っても、愛してるとしか応えてくれなかった。今まで一度も聞いた事のなかった言葉。本当はずっと、あなたの口から聞いてみたかった言葉。……どうして、今なの?
私は応えられない。
愛してるのに、言えない
愛してるなんて言ってあげられない。
シーツの中で泣きじゃくり、置いてかないでとしがみつく事しか出来ない。彼を困らせれば困らせるほど、きっと遠くへ行ってしまうのに。
ひとつも受け入れられない私はみっともなくて、可愛げがなくて、惨めだった。
哀しい響きのシシリエンヌが、一度思い出してしまった頭から離れない。
夢ならいいと、ミルク色の窓枠から入り込む朝日をぼんやりと見つめた。床に落ちた光は、磨いたばかりの床を一部だけ、眩しく照り返している。
迎えに来た両親と共に、私はアパートメントを後にした。
柊史の思いに、何ひとつ気付こうとはしないまま。
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