A birdcage〜トリカゴノナカデ〜

BACK NEXT TOP


(7)かわいいひと




 今夜も柊史は遅い。
 顔を見るのを諦めて、冷たいベッドへ一人もぐりこむ。二人で寝ると狭いのに、一人だと広く感じてしまうことが身勝手に思えて、毛布の影でクスリと笑った。

 暗闇の中、目を閉じるといろいろなことが思い出された。
 柊史と初めて逢った時のこと、彼を好きになって毎日のように連絡を取り合ったこと、何度私の両親へ反対されてもこの気持ちを抑えることは出来なくて、家を出る決心をした日のこと。
 布団が暖まるまでには時間がかかる。もぞもぞと足先をすり合わせて身を縮ませた。

 ふと、仕事仲間の顔が思い浮かんだ。皆とても気さくで優しいから、自分のことを語りたくなってしまう瞬間がある。柊史と私のこと。二人だけでこの土地へやってきたこと。たまに、何もかも誰かに聞いて欲しくなるけれど、それを堪えて口を閉ざす私へ、彼らはそれ以上……ここの管理人さんのように、何も問わずにいてくれた。
 昼間、早い時間にバイトを終えた私は電車を乗り継ぎ、駅の構内にある公衆電話から二度目の連絡を母へ入れた。私の話を受け入れようとしない母からは、同じ答えが返ってくるだけ。父のことは、知らない。薄情な娘だと未だに軽蔑しているのかもしれない。

 冷たい毛布と暗闇が一層私を心細くさせた。柊史、と呟いてみる。毛布の中で自分の息が暖かく戻ってくる気配に少しだけ切なくなって、もう一度名前を吐き出すと、今度は胸が痛んだ。

 いつの間にかうとうとし、眠りに誘われようとしたその時。
 静かなアパートメントに、覚束ない足取りの靴音が響いた。途中つまづいたらしく、何かがカラカラとうるさく遠くへ転がって行った。足音はだんだんとこちらへ近付いて来る。
 ……柊史かもしれない。何となくそう思った私はベッドから起き上がり、灯りを点けた。時計は夜中の2時半を指している。眩しさに目が慣れようとした時、玄関のドアノブが音を立てた。

 開いたドアからは思った通り、ふらつく柊史が入って来た。
「お帰りなさい。……大丈夫?」
「……」
 両手を差し出した私へ返事もせずに寄りかかった彼は、下を向いたまましばらくすると何かを呟いた。
「どうしたの?」
「あいつら……何もわかっちゃいないんだ」
「?」
 倒れそうになる柊史を支えた。こんなに酔っている彼を初めて見た私は、少しだけ動揺していたのかもしれない。
「柊史、靴脱ごう?」
 私に促された彼は、上手く脱げない靴のせいでその場に膝を着いた。私に触れた彼の頬が熱い。
「ありがと、陶子」
「ううん」
 私の名前を呼ぶ声がしっかりしていたことに安堵し、彼を支えながらベッドまで連れて行く。スリッパを履いていても、ストーブを消した部屋の寒さが床から足へと冷たく伝わった。

「卑屈になることなんて、ひとつもないのに」
 ベッドへ座った柊史に、コップに入れたお水を渡す。ひとくち飲んだ彼はそのまま仰向けに寝転がり、顔の上へ自分の右腕を押し付けた。
「なのにあいつら、全然わかっちゃいないんだ」
「……」
「……わかってないんだよ、陶子」
「うん」
「……陶子、どこ?」
 虚ろな目で手を伸ばした柊史の隣へ寝そべり、彼がいつもしてくれるようにその手を取った。
「大丈夫、ここにいる」
「大好きだよ、陶子」
 痛いくらいに強く握ってくる柊史の手の甲へそっと口付けてから、身体を寄せ腕の中へ彼を収めた。
「私も、好きよ」
「もっと言って陶子。……陶子」
 私へすがりつく柔らかい髪をそっと撫でる。指の隙間からこぼれる髪を何度もすくって、柊史の頭を胸に抱き締めた。

 男の人は、私たちにはわからない何かをいつも抱えているように見える。そんな彼をゆったりとした気持ちで受け止めると、さっきまで私の周りを囲んでいた不安がどこかへ消えていく気がして、何度も何度も優しく彼の頭を撫でた。
 私のされるがまま大人しくしていた柊史は、気持ち良さそうに目を閉じ、いつの間にか寝息を立てている。
 この気持ちは何だろう。私の方が年下なのに、彼がそれを望んでいるわけでもないのに生まれる、この気持ち。
 ――何もかもが許せてしまう、かわいいひと。


 翌朝、キッチンに立って洗い物をしていると、眠気覚ましにシャワーを浴びた柊史が、後ろから声をかけてきた。
「あのさ、陶子」
「うん?」
「僕……昨夜、何時頃ここに帰ったか、わかる?」
 振り向くと、恥ずかしそうに目を逸らしている彼が可笑しかった。
「2時半くらいだったかな。電車は間に合ったとして、駅からどうやって帰って来たの? タクシー?」
「わからないんだけど、確かに財布が寂しいことになってるんだ」
「お金、大丈夫?」
「それは平気」
「そう」
 洗ったコップが窓から入る朝日に照らされ、ぴかぴかと輝いている。
「……陶子」
「なあに?」
「あと、僕変なこと口走らなかったかな」
「変なことって?」
「いや、その……昨日、ちょっといろいろあったから」
「言ってたわ」
「……なんて?」
 私に悟られまいとしていても、彼の声が一瞬だけ強張ったのがわかった。

「陶子、大好きだーって、大声で」
「え」
「そばにいて抱っこしてくれないと眠れないって」
「……本当に?」
「あとは裸でそのまま外に出ようとしたりして、止めるのが大変だったの」
「え!」
「柊史、全然言う事聞いてくれなかったし……」
 わざと知らん顔をして水道を止め、ゴム手袋を外し、置いてあったタオルで手を拭く。
「そ、そうだったんだ。ごめん迷惑かけて。おかしいな、そんなこと今までなかった筈なんだけど」
 珍しくうろたえた彼は、顔を赤くしながら頭を下げた。その姿に堪えきれなくなって、思わず吹き出す。
「嘘よ。そんなことしたら、一緒に寝てなんかあげないもの」
「なんだよ、本気にしたじゃないか!」
 彼も笑って私を後ろから抱き締めた。

「……抱っこは、本当よ」
「僕、そんなこと言ったの?」
「陶子、どこ? って」
「……」
「だからベッドの上で腕の中にあなたを抱いたの。そしたら子どもみたいにすぐ寝ちゃった」
「どういう風に?」
「え?」
「陶子が僕にどういう風にしてくれたのか、教えて」
「……うん」
 彼の手を引っ張り、ベッドの上へ連れて行く。昨夜したように寝転がり、彼を腕の中へ収め、頭を抱きかかえた。
「たまにはいいね。こういうのも」
 柊史の声が、私の胸に直接響いた。
「うん。安心する?」
「するよ。すごく安心する」

 私も柊史もしばらく黙っていた。鳥の鳴き声と、練習を始めたばかりのヴァイオリンの音、冬の柔らかな光が私たちの上に降り注いでいる。
「……安心しすぎて、もう何もかもどうでもよくなるな」
「……」
「意地張って、僕がやりたいことって何だろうってさ。本当は全部、どうだっていいことなのかもしれない」
 私の腰へ回している彼の両手の暖かさが、カーディガンの上から伝わる。その手は私の心も一緒に包み込んでいた。
「君のことだけ考えて、君の為に生きて、君の両親に気に入られる様な職に就いて、本当はそれが一番いいのかもしれない」
「そんなこと……言わないで」
 なぜか胸が詰まって泣きたくなる。彼の髪に顔を埋めて言った。
「私、そんな風に思ってもらえるような価値のある人間じゃないもの。柊史が選んでいることはとても価値があって大切なものだってわかってる」
「……」
「だから、そんなふうに言わないで」
「……わかってないよ、陶子は」
「え?」
「僕が、どんなに君を思っているか……全然わかっちゃいないんだ」
 その言葉は、昨夜酔いながら彼が小さく呟いていたものと重なる。
 困ったように私を見つめて微笑んだ柊史は体勢を変え、今度は私をその胸に抱き、長い髪を優しく撫でた。

 その後の私たちの暮らしは、贅沢とは程遠いものになった。
 今回の舞台へ力を入れている彼は、普段の仕事をどうしても削らなければならない。お給料日前には二人でお腹を空かせたこともある。そんな日は眠気が私たちを誘うまで、たくさんのおしゃべりをして紛らわせ、二人で笑い転げ、慰めあい、抱き合って眠った。

 春が過ぎた夏の初め、彼の舞台は公演の日を迎えた。
 成功と共に終えた舞台は、今年の演劇祭大賞獲得を有望視された。寺田さんから聞いたように、最年少演出家として受賞するかもしれないと注目された柊史は、公演前よりもずっとずっと忙しくなっていた。
 すれ違う生活や、貧しい日々が続いても、私たちはそれを埋めるかのように、二人でいる時は一層強く愛を深めた。

 柊史と二人、窓から移り変わる景色を眺め、流れてくる美しい音楽を聴く。私はいつだって、この鳥籠の中で幸せと喜びを噛み締めていた。

 ここへ来てから二度目の秋。
 ひっそりと静かに佇むアパートメント。そこに寄り添う、黄金色の葉を茂らせた美しい銀杏の樹。ヴァイオリンとチェロが奏でる曲は、アパートメントの間を優雅に通り抜けていく。そこにある風景は一年前に見たものと同じだった。

 こうして、何も変わらずに過ぎていくと信じて疑わなかった私たちに、別れは突然訪れた。




BACK NEXT TOP


Copyright(c) 2010 nanoha all rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-