久しぶりの彼の休日を二人で過ごした、一日の終わり。
お風呂から上がると、平机へ置いておいたエアメールを柊史が手にした。
「誰からなの?」
「学生の時からの友人。今はフランスに住んでる」
「何してる人?」
「僕が唯一面白いと思ってた、小劇団の演出家。今は向こうで、勉強も含めて建築家をしてる。とっくに演劇はやめてるんだけどね」
彼の隣から覗き込むと、中身を見せてくれた。
「何でか手紙を寄越すんだよ。僕はメールでしか返さないけど」
「違う国の匂いがするみたい」
知らないスタンプに切手。珍しい鮮やかなラベンダー色の封筒から目が離せない。
「柊史も小さい頃住んでいたんでしょ?」
「住んでたって言っても8歳くらいまでだから、それほど覚えてもいないよ」
「何て書いてあったの?」
「こっちへ来て活動しろってさ。……簡単に言うなって」
呆れた声を出した柊史は、ひらりと便箋を机に置いた。
「引っ越したらしいんだけど、そこの写真も入ってる。後は最近仕事で関わった建物、かな。見ていいよ」
柊史に渡された封筒を手に持ち一枚ずつ取り出した。可愛らしい花が植えられた前に建つ、古い小さな家。雰囲気がなぜか、ここのアパートメントの周りと良く似ていた。
「……綺麗!」
画面いっぱいに咲いた白い薔薇のカードが一枚。アンティークなローズの柄が施された、濃いラズベリー色の美しい包装紙。どこかのパティスリーらしい名前が入っている。
「陶子にあげて欲しいって書いてあったよ。薔薇が好きだってメールしてたからかな」
「嬉しい。いいの?」
「もちろんだよ。今度は外側だけじゃなくて、中身も送らせようか」
渡されたカードと包装紙を何度も眺め、明日どこへ飾ろうと楽しみにしながら、窓際へ置いた鞄の中へ大事に入れた。
目の前のミルク色にペイントされた木枠の窓は少し歪みが出来ていて、カーテンを閉めても隙間風が入ってくる。青い炎が見えるレトロなストーブをつけていても、古い建物の中にあるこの部屋はまだ少し寒かった。
ベッドへ上がり、膝を抱えて自分の足先を見つめる私へ、今度は柊史が声を掛ける。
「陶子、足どうしたの?」
「先週から指が痛いの。全部じゃないんだけど、赤く腫れてるから何かに刺されたのかもしれない」
「見せて」
もう片方の靴下を脱がせた彼が呟いた。
「……霜焼けだ」
「これ、そうなの?」
「そうだよ。なったことない?」
苦笑した彼は頷く私の頭を撫で、お風呂場から持ち出した大きめの桶に少しの水を張った。ストーブの上で蒸気を吐き出しているケトルを持ち上げ、お湯を桶へ注ぐ。フリーマーケットで見つけた古いものを二人で白くペイントし、美しく生まれ変わった丸いスツールに私を座らせ、足下に敷いたバスタオルの上へ湯気の昇る桶を置いた。
彼の両手が私の足首をそっと持ち上げ、パジャマの裾を捲り上げた。されるがままにお湯の中へ指先から浸していく。初めは熱く感じたそれも、徐々に冷えた足へ馴染んでいった。
「ごめん。陶子の足をこんな風にさせて」
「どうして謝るの? 今年の冬は寒いから、柊史のせいじゃないわ」
「……陶子は優しいね」
目の前で跪く柊史は、手のひらと指を使って優しく私の足を揉み解している。指先、指の間、土踏まずから踵まで丁寧に。
「気持ちいい?」
「うん。気持ちいい」
「痛い?」
「少しだけ」
「……舐めてあげようか」
「ばか」
下を向いたままクスッと笑った柊史の濡れた髪が揺れた。肩には生成りのタオルを掛けている。パジャマの首元からは、私の好きな鎖骨が少しだけ見えた。
「ねえ、柊史ってこういうことするの好きなの?」
「こういうことって?」
「こんな風にしてくれたり、お風呂でも一緒に入ると洗ってくれるでしょう? 私の髪まで」
質問には答えないまま、足をさすり続ける柊史の指先を見つめる。
「お世話するの好きなの?」
「……別に好きってわけじゃないけど」
「じゃあ、どうして?」
「さあね」
右足が終わると左足。揉まれた後の足はじんじんとして、再び柊史に触れられるのを待ち望んでいる。
「今までもそうだったの?」
「何、今までって」
「彼女とか、いたでしょ?」
「……いたけど、陶子にしかしないよ、こんなこと」
「どんな人だったの? 私より年上?」
「まあ、そうなるね」
「髪は? 長かったの? 短かった?」
「陶子」
「怒らないから教えて」
私の我侭に溜息を吐いた柊史は、仕方無さそうに答えた。
「長い子も短い子もいたけど、陶子みたいに綺麗な髪じゃないよ」
「女優さんもいた?」
「あんまり、いい思い出じゃないけどね」
「……」
「ほら怒った」
「怒ってない。もっと教えて」
「じゃあ陶子は?」
「……いたけど、もうそんなこと忘れたわ」
突然切り返されて口ごもる私へ、柊史は容赦なく続けた。
「嘘だね。聞きたくもないけど」
「でも……こんなこと、柊史が全部初めてだもの。こんなに好きになったこともないし、」
「それでも聞きたくない。君に少しでも気にかけてもらえたっていうだけで、見たこと無い男でも嫉妬に狂いそうだ」
「……ほんと?」
「……」
「ねえ、柊史」
「……」
「怒ったの?」
珍しく、何も答えてはくれない柊史のつむじを見詰めた。彼の見えない表情にますます声が震えてしまう。
「……ごめんなさい。余計なこと聞いて」
「……」
「……柊史」
「駄目だ」
「え?」
「陶子が可愛いから、もっと怒ってやろうと思ったのに全然怒れない」
上を向いた柊史が困ったように笑った。
ストーブを消火した柊史がケトルの蓋を開けると、ふわりと蒸気が昇るのが見えた。
清潔なタオルで私の足を丁寧に拭いた彼は、そのまま私を抱きかかえてベッドへ横たえ、灯りを落とした。ひとりぼっちになることを拒む、宙へ伸ばした手を捉えて指を合わせてくれる。訪れた二人分の重みにベッドが軋んだ。
「陶子の全部、舐めてあげる」
「柊……」
彼に優しく唇を塞がれた私は、言葉の続きにくぐもった声をあげる。
薄く開いた瞼の間から、私の瞳は彼に媚を売る。はしたないだなんて思わない。彼が嬉しがるなら、どんなことでもそれは二人の間で甘い空気へと変わっていくだけ。
彼の舌の上で簡単に溶けてしまう私は、自分が上質なアイスクリームにでもなったかのような錯覚を起こした。わずかな体温にも敏感に反応して、硬いスプーンを押しつけられると、みるみる形を失ったそれは、我慢できずに零れ落ちてしまう。
そんな私を柊史は穏やかな口調で縛り付ける。囚われたまま行き場の無くなった私は、許してくれた彼の簡単なひとことで、あっと言う間に解放された。
彼ごと私をくるんでいた柔らかな毛布は、身体を起こした柊史の背中から腰へと滑り落ちた。
「……見せて、陶子の顔」
隙間の出来た二人の身体は、虚ろな瞳を彷徨わせ、呼吸を乱している私を少しだけ心細くさせる。
「寒い?」
「……」
柊史の問いかけにただ首を横に振り、彼の瞳を見詰めたまま、腰で留まる毛布を追いかけて背中へ回していた私の指先も同じ道を辿らせた。両手でその腰を包み私の内へ引き寄せると、切なく眉を寄せ項垂れた柊史は、耳元で低く溜息を吐いた。息がかかった場所から、彼がいる私の足の間、同時に足の爪先まで、さっきよりも強い痺れが走った。
彼の頭を抱え込み、湿った髪に指先を入れ確かめる。
柊史が、ここにいること。私へのしかかる、彼の焦った動きに悦びを感じること。それがとてつもなく私を……優しい気持ちにさせること。
これだけ愛し合っているというのに、私たちは照れくさくてどうしてもその言葉を口にすることが出来なかった。
愛しているの代わりに、好きという言葉を数え切れないほどお互いへ降らせた。額、唇、耳朶、首筋、手のひら、胸元へ……。それが二人を覆い隠すほどに積もった時、名前を呼ぶ溜息と共に全てが満たされたことを知る。
カーテンを通り抜けた月明かりは、静まり返った部屋の全ての物へ影を落としていた。
幸せな疲れの中で彼の胸に額を擦りつけ、そっと瞼を閉じると、鮮やかな封筒と包装紙の色が浮かんだ。
「初めて見たの。あんな綺麗な色」
「いつか、一緒に行ってみる?」
「……うん。柊史と一緒に行ってみたい」
「行こうよ。何年先になるかわからないけど……一緒に行こう」
柊史の言葉は、なぜか私の視界を滲ませた。気付かれないよう頷いて彼の首へ両手を回す。
毛布にくるまりぴったりと身体を押し付けあった私たちは、この温もりを熱に変えながら、お互いを再び味わい始めた。
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