「陶子、大丈夫? アンケート書いた?」
隣に座る友人が私の顔を覗きこんだ。
「……え、うん」
「面白かった?」
「面白いとか、そんな言葉じゃ表せないくらい……素敵だった」
まだ胸の奥が熱い。顔を上げ、薄暗い天井を見詰める。普通の劇場とはまるで違う、倉庫を改造した舞台。ついさっきまで、役者の人達は私のすぐ脇を通り、手が届くほどの近さで違う世界を創り上げていた。音楽はヴァイオリン奏者が一人いるだけ。照明は色もついていない裸電球が、あちこちに長さを変えて無造作にぶら下がり、下に置いてあるたった二つの器具が舞台を照らしていた。
それだけではない。物語自体も台詞も雰囲気も何もかもが、初めて触れる世界だった。私が今まで知っていたお芝居なんて、全て忘れて消し飛んでしまう程の衝撃。
アンケート用紙へ感想を書きながら、慌ててチラシに載っている名前を探す。
「脚本、演出……
「挨拶行ってみる? 友達に聞くから」
「いいの?」
「多分大丈夫。私も会ってみたいし」
客席を出てアンケートを差し出す。集めている人の横には役者さん達が並び、ありがとうございますと挨拶をしている。
「お疲れ様! 面白かったよ!」
友人が、数少ない女の役者さんへ声をかけた。
「ありがとう。お友達も連れて来てくれたんだ」
「すごく面白かったです」
「あ、ありがとうございます」
私へ向けて照れる仕草をした彼女に、友人が言った。
「ねえ、演出した人ってどこにいるの?」
「ああ、菅野さん? 挨拶する?」
「いい?」
「いいよ、喜ぶよ絶対」
笑顔で答えてくれた彼女についていくと、こちらへ背を向けた少し細身の人へ駆け寄った。
「もしかして、あの男の人? すごく若くない?」
「……うん」
友人の囁きに、私も目をみはる。
振り向いた彼の視線を捉えた瞬間、私の瞳も身体も呼吸すら、止まった。
「陶子、起きて。もうすぐ駅に着くよ」
顔を上げると、たった今振り向いた男の人と同じ顔が目の前にあった。ふらりと視界が揺れ、暖かいまどろみに眩暈がする。
「……柊史?」
掠れた声しか出せない私に、彼がクスッと笑った。
「寝惚けてる?」
彼に貸りたミリタリーのハーフコートを着て、ハンチング帽を目深に被っている私の顔を柊史が覗き込んだ。普段とは全く違う格好をすれば気付かれにくいかもしれないという、あまり役には立ちそうも無い私の自衛策。それでも今日は彼についていきたかった。
「夢を見てたの」
目を擦りながら、車窓の外へ目を向ける。夕暮れを過ぎた冬の暗闇には、街の灯りが電車の速さについてこれずに流れていた。
駅から直通の大きな建物。中へ入ると、しんと静まり返った天井の高い近代的なホールが目に飛び込み、独特の匂いに包まれた。
「私、随分前にここへ来た事あるわ。演劇ではないけど」
「自由度が高いからね。演劇だけじゃなくてクラシックの演奏とか、モダンバレエもやったりするみたいだ」
以前訪れた時の記憶が一気に蘇る。私の内に生まれた静かな興奮が、ほんの少しだけ身体を震わせた。
柊史は事務所へ顔を出してから、ロビーホールへと向かった。広々としたその一角にはクロークとドリンクカウンターがある。さらに向こう側には、こじんまりとした企画もののグッズを販売しているお店と花屋が並ぶ。客席へ入る扉の側には、中で行なわれている様子を映し出したモニターが設置されていた。
チラシが束で入っているラックが数箇所あり、柊史はひとつひとつをチェックしながら、減り具合や他に開催されるものを確かめている。そのどれもが聞いた事のある団体で、同じ場所へ並ぼうとしている柊史の背中を、私は見つめていることしかできない。
――三ヵ月後に、柊史はここでの舞台を控えていた。
「……すごいわ。ねえ、本当に今度はここでやるの?」
「少しは僕のこと見直してくれた?」
子どものように悪戯っぽく笑う彼の表情は私を困惑させた。いつも遠くを見ている彼が、そのままどこかへ行ってしまうような感覚に肩を掴まれる。
「ようやくここまで来たんだ。今回は無理をしてでも成功させたい。どんなことがあっても」
高い天井を仰ぐ彼の声が静かに響いた。
「どんなことがあっても?」
「そうだよ。そうすれば、」
「菅野くん」
言いかけたその時、柊史の名を呼ぶ人が現れた。両親から禁じられ、舞台関係で本名を使えない柊史は、高堂ではなく母方の祖母の旧姓、菅野を名乗っている。彼の活動に血縁関係で唯一理解を示してくれた人だ。
「ご無沙汰してます」
「なに、今日は観ていかないの?」
声を掛けて来たのは、柊史よりずっと年上のラフな格好をした男の人。四十代半ばくらいに見えるその人は、たった今客席のドアからホールへ出てきたようだった。
「ええ。寺田さんは? もういいんですか?」
「半分も観りゃ、大体わかるよ。面白いか面白くないか」
その人は何も言わずに柊史の手元からチラシを一枚ひったくり、一瞥した。
「チラシの折込なんか、協賛者の方へさせればいいじゃないか」
「そういうわけじゃないんですよ。事務所に用があったんで、ちょっと様子見で」
初めて見る柊史の作り笑い。私の知らない顔に、胸が重苦しくなる。
「余裕だねえ。俺なんかここで初めて演るって決まった時は、そんな顔してられなかったけど」
「余裕なんかないですよ。僕だっていっぱいいっぱいです」
「そういう風には見えないけどね。やっぱり違うよな、最年少演出家さんは」
寺田と呼ばれた男の人は、さらに畳み掛ける。
「ここで演る最年少演出家、なんだろ? もう一度確認するけど」
柊史へわざと顔を近づけた寺田さんは、すぐに上を向き楽しそうに高笑いをした。全然噛み合ってはいないこの会話に、気分が悪くなる。
「……この作品で演劇祭に参加か。当然賞を狙ってるってわけか」
左手に持っているチラシを、右の手のひらで叩きながら寺田さんは鼻で笑った。
「はい」
「もっとコネ効かせないと。君みたいに若いのが賞を取りたいなら、話題性だけじゃまず無理だろ」
「そうですね。寺田さん、お願いしますよ」
「俺の力なんて何もない」
「そんなことないじゃないですか」
「審査員だっていい加減なもんだよ。協会に入ってたって名前なんか覚えちゃいない。菅野くんのとこは有名どころの役者もいないんだから、甘い考えは捨てた方が身の為だと思うけどね」
頷く柊史に眉を上げた寺田さんは、今思い出したと言わんばかりに大きな声を出した。
「そうそう、確か戯曲も投稿してるって噂だけど」
「ええ、一応」
「あれも、選考員たちの知った名前じゃなきゃ掠りもしないからな。はっきり言って時間の無駄だよ。若いってのはいいねえ、勢いがあって。羨ましいわ、ほんと」
「……」
「君、あちこちで叩かれてるんだって? 随分と目立ってて、素人にしちゃある意味すごいじゃないか」
素人という言葉をわざと強調して、その人は柊史の肩を大げさに叩いた。
「そうなんですか。光栄ですね、それは」
「変わり者ってことで少しは名も知れてるなら、奇抜なのでもやれば目に掛けてもらえるんじゃない? いくら金を掛けないったって、ただ地味なもんやるだけじゃダメだろうけどね」
「ダメですかね」
「ダメダメ。どうせやるなら……」
突然機嫌を良くした寺田さんは自分の考えを雄弁に語り始めた。しばらく聞き入っていた柊史が、やんわりと口を挟む。
「参考にさせてください。また飲みに誘ってくださいよ」
「ああ、そうだな。それもいいか」
「お忙しそうなのに、お引止めしてすみませんでした」
普段と同じ口調で終始穏やかな表情を変えない柊史の言葉に、寺田さんは二三度頷くと、私をチラリと見ただけで何も言わずにさっさと出口へ向かった。
胃の奥が痛い。柊史の顔を見るのが怖い。何も言葉が出てこない。
「……」
「僕たちも行こうか」
何事もなかったかのように呟いた柊史を振り向く。
「……あの人、誰なの?」
もうほとんど見えなくなった寺田さんの背中へ一瞬だけ視線を投げた後、柊史は下を向き苦笑した。
「前に言った、耳に入れたくないことを直接言ってくる奴の一人」
「一人って、他にもいるの?」
「いるさ。あの人はまだいい方だよ。あることないこと陰で撒き散らす奴よりはね。もちろんいい人だってたくさんいるけど」
チラシの束を鞄に入れると、彼は私に笑いかけた。
「陶子が何も言わないでくれて助かったよ。あの人ああいう人だからさ、うちの奴らはすぐカッとしちゃって」
柊史は私の腰にそっと手を掛け、歩き出すよう促した。
「寺田さんだって、すごい人なんだ。到底僕が追いつかないくらい活躍してる」
「つらくない?」
「え?」
「ごめんなさい。でも……どうしてなのって思ったの。あんな嫌な思いまでして」
「こう見えて僕、負けず嫌いなんだよ。ああいう風に挑発されると余計這い上がりたくなる。そう思わせてくれる寺田さんには、逆に感謝してるさ」
ホールを出て一瞬寒さを感じる地下道を寄り添いながら、柊史は私の疑問にゆっくりと答え始めた。
「演出してるとさ、舞台の中では僕の指示通りに人が動いて、時間も、音も、光も、人の生き死にも全て思うがままなんだ」
何度も目にした子どものような横顔が、緊張していた私を解きほぐし始めた。
「過去も未来も、国も、文化も、観客でさえ拘束することが可能だ。それも僕の目の前で。こんなに楽しいことが他にあるのなら教えて欲しいくらいだよ」
地下に連なる個々の店からは、暖房の生温い風が吹き込んだり、時には美味しそうな甘い匂いを振りまきながら私たちを誘ってくる。
「彼が言うように、芸能人を使うところが賞を取るのに有利だとは言われてる」
「……」
「僕には無理だけどね。別に有名人を使うことに反対してるわけじゃないけど、金がかかりすぎるし、芝居自体がつまらなくなる」
「それは、何となくわかるわ。作品っていうよりも、その芸能人目当てで観に行く人が多いもの」
「利益をあげる為にはそれも仕方ないけどさ。でも他の役者も萎縮するし、あれも駄目、これも駄目って製作側にもストップがかかる。話題を集めるにはいいかもしれないけど、ただそれだけのものになってしまうことが多いんだ」
「有名な人がいないと賞は取れないの?」
「いや、そんなことはないよ。数年に一回くらいの割合だけど、全くそういうのがなくても賞を取る団体もある。僕はそれを狙いたいんだ」
カードを取り出し改札を通る。ホームへ上がると冷気が身体へ纏わり付いた。しっかりと肩を抱いてくれる柊史の腰にしがみつき、滑り込んで来た各駅停車の電車へ乗り込む。空いていた車内の座席へ並んで座った。
「柊史」
「ん?」
「初めて逢った時、どうして私の腕を掴んで引き留めたの?」
「え……」
「柊史の舞台を観終わった私と、挨拶した後すぐに」
「どうしたの、急に」
「……知りたいの」
「なんで?」
「……」
黙りこんだ私を安心させるように、彼は私の手を取り自分のポケットへ入れて強く握り、顔を近づけて低い声で囁いた。
「……絶対後悔するって思ったから」
「後悔?」
「君のことを知らないで、あのまま別れることに」
「そういうこと、柊史はよくあるの?」
「あるわけないよ。こんなこと一生に一度、あるかないかのことだって思ったから引き留めたんだ」
「……」
「陶子は、違うの?」
「違わないわ。だからすぐに応えたの。柊史の気持ちに」
ポケットの中は暖かい。きっと今頃まだ、アパートメントの周りには弦の音が鳴り響いている。今夜は、二人の帰る場所がいつにも増して恋しくてたまらない。
「これからもっと忙しくなるから、少し仕事を減らさないといけないんだ」
「うん」
「しばらく陶子には苦労させるかもしれない」
「全然かまわない。……嬉しいくらいよ」
柊史の肩にもたれかかり電車の揺れに身を任せる。記憶の中からゆったりと流れ出るヴァイオリンの曲が、私の心を満たしていった。
Copyright(c) 2010 ナノハ all rights reserved.