黒い森
3 砂時計(1)
夏休みが終わった八月下旬。
登校日早々に休み明けのテストを受け、昼過ぎにエアコンの効いた教室を出た。帰り支度を終えた生徒で混み合う下駄箱。独特の匂いと蒸し暑さに辟易しながら革靴に履き替える。
すぐ横で、下駄箱の扉を乱暴に閉めた荒木(あらき)が僕の肩を叩いた。
「椿樹、今日ヒマ?」
「ヒマじゃない」
「じゃあ明日は?」
「明日はバイト」
歩き始めた僕の隣に荒木が並ぶ。僕よりも背が高くガタイのいい荒木を見上げると、暑い暑いと言いながら、ボタンを外したワイシャツの襟元を掴み、バタバタと空気を送り込んでいた
「そんじゃあ明日バイト先に行こうかなー」
「なんでだよ」
木陰を選びながら歩いて校門を出た。大きな桜の樹から蝉の声が降ってくる。
「あのカフェ、可愛い女の子いっぱい来るじゃん。椿樹目当ての子もいるんだったら、ちょっと分けてくれよ」
自由な校風とはいえ、やはり進学校には真面目な奴が大半だ。荒木や僕みたいなのは珍しい部類に入る。
「客は困るけど、一緒にバイトしてた子ならいいよ。もう辞めたけど」
「辞めた? もしかして俺が前に見たことある子? 年上の」
「そう、それ」
「それ、ってお前のお下がりじゃん。つかもう別れたのかよ」
「付き合ってないし」
「そうなん? ……でもやるんだ?」
「やってない。途中で逃げられた」
「おっまえ逃げられたって、何したんだよー」
前かがみになってゲラゲラ笑っている荒木に構わず、話しを続けた。
「あの女の部屋で、女の手縛って猿轡して、服着たまま後ろからやろうとしたんだけど蹴飛ばされた。ちょうど向こうの家族が帰ってきたから、そこで終了」
「……マジ?」
スマホを弄っていた荒木が足を止めて僕を見た。僕も足を止めて荒木を見る。馬鹿みたいに口を開けているのが間抜けで笑えた。
たぶん、荒木はいいやつなんだろう、と思う。周りに思われているよりもずっと。
「嘘に決まってんだろ」
「あ、ああそう。何だよ引いたろうが〜。お前が言うと冗談に聞こえないんだよ、何となく」
後ろから自転車通学の生徒がベルを鳴らす。荒木はかったるそうに道をあけた。
「そうだ荒木、この歌知ってる? マスターに聞いたんだけど曲名がわからなくてさ」
思い出せるとこだけ口ずさんでみる。この明るさの中じゃ浮いてしまう雰囲気の気怠い曲。もう一度聴きたい。
「椿樹、お前」
「ん?」
再び口を開けた荒木は、しばらく僕の顔を見詰めてから言った。
「歌、ヘッタクソだなー。アプリで曲探すのも無理レベル」
「……うるさい」
「それじゃマスターだってわからないって。今からカラオケいこーぜ。下手なの誰にも言わないから」
「いやだよ。今日は駄目だって言っただろ」
「最近遊んでくれないよねえ、椿樹くんは」
僕が何を言おうが、どういう態度を取ろうが、荒木はそんなこと気にしないし、僕が言った以上のことを訊こうとはしない。普段人と距離を取りたい自分にとって、荒木だけは友人と呼んでもいい存在だった。
「僕と遊んでて大学落ちた、なんて荒木の親に知られたら困る」
「落ちるのは俺のせい。誰のせいでもない。親は関係ない」
「わかってるけど、でも嫌なんだよ、そういうの」
荒木の家は僕でも知っている大きな会社を経営している。口には出さないけど、いずれはそこに納まるんだろう。この学校にはそんなのがごろごろいたから、いちいち反応して驚く奴は少なかった。
「椿樹は大学どうすんの?」
「別にどこでもいい。どっか入れれば」
「お前頭いいからどこでも入れるよ」
「そんなことないよ」
「真面目なのか不真面目なのかわからんよね、椿樹は」
荒木は溜息を吐いてポケットにスマホを突っ込んだ。
「今日は、ほんとごめん。家にいないとならないんだ。母親が具合悪くて」
「え、大丈夫かよ?」
「ああ、病院も行ってるから平気」
視界の隅に黒いものが見えた。熱を反射するアスファルトの道端に、仰向けにひっくり返った蝉が転がっている。蹴飛ばすと、仰向けのまま、じじじじと鳴きながらくるくる回った。僕がたまらず声を上げて笑うと、荒木も苦笑いした。
だってもう飛べないのに生きていることを僕に教えてるんだ。死んでるも同然なのに。
僕が笑い続けている横で、荒木がぽつりと言った。
「だから冗談に聞えなかったんだよ、さっき」
玄関に母の黒い革靴が出ていた。
部屋のエアコンをつけ、制服から私服に着替えて眼鏡を掛ける。変化のない視界を連れて部屋を出、リビングからキッチンへ行く。冷蔵庫の中身を確かめた。食材が増えている。日付が全て新しいのを確認して、一息ついた。ドアポケットに入れておいた飲み掛けのペットボトルを手にして、喉を通る炭酸の冷たさを楽しみながら横目でリビングのソファを見る。西日が当たって暑そうだ。
「恵人?」
この声にはいつも、ぎょっとさせられる。ゆらりとキッチンの入口に現われたその人に返事をした。
「違うよ、椿樹だよ」
返事をせずに僕の横を通り過ぎた母は、シンクの水道で手を洗った。髪をきっちりと一つに結わき、普段より濃いめの化粧をしている。母の年代だから仕方がないのだろうけど、口紅の色が古臭く感じた。年齢よりも老けて見える。
「典子(のりこ)叔母さんと病院行った?」
「行ったわよ」
言いながら母は冷蔵庫を開けて、あれこれと食材を取り出し始めた。
「どうしたの?」
「恵人のご飯を作らないと。あの子ハンバーグ食べたいって言ってたから。人参のグラッセとナポリタンも」
「今日は恵人、遅い日だよ。帰らないかもしれないし。それに夕飯作るの早すぎない?」
狭いキッチンが異様に暑い。エアコンをつけようかとキッチンカウンターから再びリビングに目をやり、炭酸をもうひとくち飲んだところで、手が止まった。
振り向かなくてもわかる。
母が、こちらを見ている。
音にならない音が僕の鼓膜をすり抜ける。
それは何度も逆さにして時が流れていくのを待ち続けた、砂が零れ落ちる音だった。
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