黒い森

2 よこしま




 学校帰りに家の最寄駅から二つ手前のホームで降りる。
 目が痛いほどの日差しが照りつけ、制服の半そでシャツから覗く腕がじりじりと焼けるのを感じた。

 駅前のファーストフード店の前を通り過ぎ、ケータイショップとゲームセンターの間の路地へ入る。のれんを出し始めた飲み屋が並ぶ道を歩き、二つ目の角で曲がると、ビルの間に控え目に立つ二階建ての建物が数メートル先に見えてくる。

 一階は女物の服や雑貨、輸入物の家具まで扱うセレクトショップ。
「おはようございます」
「お疲れ様でーす」
 普段あまり面識のない、そこの店員に挨拶をしてから、入口のすぐ脇にある階段を上る。屋外で何年も風に晒されたような色の分厚い板を一歩ずつ踏みしめていくと、二階から漏れた音楽が僕の耳に届く。
 階段と同じ分厚い木枠の内側に透明な一枚ガラスが貼ってあるドアに手を掛けた。客の入りは、まだたいしたことないようだ。丸い真鍮の取っ手をぐるりと回し、押して店に入る。同時にコーヒーの香りが僕を包んだ。
 僕は、このバイト先が結構気に入っていた。
「おはようございます」
「おう。お疲れ」
 ここのフロアも無骨な風合いの床板。
 大きな明るい木目のテーブルが店の中央に、二人から四人用のテーブルは窓際や壁際に配置されている。椅子は小学校で使われていた座面が木製で足が鉄パイプのや、スタッキングできるシンプルなもの、背もたれに聖書入れが付いているチャーチチェアなんかがある。バラバラなのに不思議と統一感があった。
 このカフェで一番好きな場所は、東の壁際にどっしりと構える黒い革張りのイームズラウンジチェア。客が少ない時にマスターの許可をもらって座る。オットマンを引っ張り出して、そこに足を投げ出すのが最高だった。

 更衣室でロッカーに入っているグレーのTシャツに、こなれたデニムを穿き、黒の丈の短いカフェエプロンを腰に巻き付け、紐で固く締める。
 手洗いなどの準備を終え、フロアに出てカウンターの内側にいるマスターに声をかけた。
「今日、どうですか?」
「まあ、比較的空いてるな。これからだろ」
 こじんまりとした隠れ家的な場所もあって口コミで徐々に人は増えていた。先月、何かの雑誌に載ってからは余計に。
 新規のテーブルに水を持っていく。
 グラスを置いてオーダーを取り終わった途端、待ってましたと言わんばかりの勢いでそのテーブルの女たちが僕に話しかけてきた。大学生、かな。
「あのー雑誌見ました。ていうか買いました。載ってましたよね?」
「ありがとうございます。そうです」
「これ、ここのお店のですよね? 私フォローしてるんです」
 一人が慌てた様子で、スマホの画面を見せてきた。
「ああ、それはありがとうございます。マスターに伝えておきますね」
「あのそれで……個人的にしてるんだったら、」
「たまに店のを僕がリプするんで、良かったら店の感想とかください」
 誰が教えるか。
「あ、はい。今、今すぐにします。私これですから!」
 必死にアイコンを見せてきた女に、落ち着きなよー、と周りの女が笑って言った。
 よくこんなの、知らない僕に晒せるな。頷きながら営業笑いをして、その場を離れた。

「椿樹くん、気を付けなよ?」
 カウンターの向こう側で月兎印のポットを持ち上げたマスターが静かな声で言った。
「ああ、はい。大丈夫です」
「若い女の子が来てくれるのは俺も助かるけど、最近は変なのもいるからね」
 店に来る客には、絶対に手を出さないようにしていた。一応これでも、マスターには感謝してるから。
「夏休みはいつからだっけ?」
「来週の火曜から。月曜に終業式です」
「どう? 入れる?」
「入らせて下さい。出来る限り」
「ありがとな、助かる。でも勉強もしないと駄目だぞ?」
 マスターの言葉に大丈夫ですよ、と笑って返した。スピーカーから流れている音楽が、耳に残った。


 バイトを終えて外に出る。すっかり暗くなった屋外は、まだ昼間の蒸し暑さを残していた。騒がしい場所から少し奥まったこの路地は、会社帰りのサラリーマンやOLに近道として使われていた。早足で僕の前を何人も通り過ぎていく。
 学校の鞄を肩に掛け直して顔を上げると、さっきまで一緒にバイトをしていた女がいた。
「お疲れ様でした」
「あ、椿樹くん。お疲れ様」
 僕の他にも四人バイトがいる。その内の一人がこれ。
 二つか、三つ年上の専門学生……だったかな? 多分。よく覚えてない。
 彼女は茶色のカラコンで大きくした瞳をこちらに向けてから、すぐに顔を逸らした。いかにも偶然ですって済ました顔をしてる。
 待ってたくせに。
 期待に応えてやるために隣に並ぶと、彼女は当然のように僕と一緒に歩き始めた。しばらくして彼女が口をひらく。
「あの、椿樹くんて、大学受けるの?」
「そのつもりだけど」
「バイトは続けるの? 予備校とかは?」
「行ってないよ。バイトはずっと続けるつもり」
「……そう」
 僕が答えてやっても、上の空な彼女の前に立ち、足を止めた。
「ねえ」
「な、なに?」
「もう誘ってくれないの? この前みたいにさ」
 僕の言葉に彼女は黙って顔を伏せた。近くにあるパチンコ屋の自動ドアが開け閉めする度に、大音量の騒がしい音楽が鳴り響く。
「……だって椿樹くん、怖い」
「何が?」
「変なこと、するし……」
「ふうん、そうなんだ。じゃあ、バイバイ」
 急に馬鹿馬鹿しくなって、彼女に背を向けて歩き出すと、すぐに後ろから急ぎ足でついて来た。もう来なくていいのに。
「あのね、違うの。あたし椿樹くんのこと、すごく好きなんだよ? ほんとに好きなの。でも」
 甘えたような舌足らずな口調に、うすら寒くなった。
「そういうのは、どうでもいいんだよ、僕」
「……どういうこと?」
「好きとか嫌いとか、ほんとどうでもいい」
 エアコンの室外機が熱い空気を吐き出し続ける前を通る。この女と同じくらい不快な温度が、僕の体に纏わりついた。
「あたしのこと、好きなんじゃないの?」
「ふつう。好きでも嫌いでもない」
「好きだから、ああいうことしたんじゃないの? じゃあ、あたし、椿樹くんの何なの?」
「あ、今嫌いになった」
「え?」
 明日の一限てなんだっけ? ああ、明日は休みだった。
「面倒なんだ、そういうの。勝手に彼女面されても困るよ。好きだなんて言った覚えもないし」
「何よそれ、ひどい……!」
「そっちから誘って来たくせに? ぎゃーぎゃー言って結局最後までヤラせてくれなかったくせに? 酷いのはどっち?」
 唇を噛みしめた彼女は、今まで見たことのない形相で僕を見た。
「あたしもう、バイトやめる!」
 ……もう少し頭使えよ。僕の気を引く最後の手段がそれなんて、同情する気にもなれない。
「本当にやめちゃうよ? いいの?」
 何かと思ったら、裏の家で飼ってる小型犬だ。
「どうぞ。代わりに僕がマスターに言っておいてあげるよ。僕は明日もシフト入ってるから」
 役にも立たない癖にきゃんきゃんと喚き立てる、あの犬に似てる。家の中でも飼い主を追いかけ回して、客には威嚇して、可愛くないんだ、ほんと。
「最低……!」
「最低って、僕のこと?」
「当たり前でしょ、他に誰が」
「楽しいな、それ。もっと言って」
 噴き出した僕の顔を軽蔑したような目で睨み付けてから、彼女は黙ってそこを走り去った。
 僕にとって居心地良い場所じゃないけど、退屈しのぎにはなると思ったのに。

 入口を開けっ放しの飲み屋から、騒がしい酔っぱらいの喚き声が聞こえた。皆、何がそんなに面白くて大声で笑っているんだろう。
 派手な看板に付いている赤や黄色の電球の光が、僕の革靴にちかちかと反射した。
 バイト先でかかっていた曲が、頭の中でずっとリピートされている。マスターはいろんな曲をかけてくれるんだ。あれ、ジャズじゃなくてブルースっていったかな。眠たくなるようなボーカルの歌声。

 それは最近どこかで聴いたような、少し掠れた声。
 低めで耳触りの良い、僕の心をくすぐる声。

 明日、曲名を訊いてみよう。あの女がバイトを辞めるってこともその時に伝えればいい。
 また? って困った顔されるのかな、マスターに。客じゃないからいいよね?
 笑いが込み上げた。こういうのが、面白いってことじゃないの? 早く家に帰って、自分の部屋でさっきの酔っぱらいみたいに大声で笑いたい。
 明日は土曜日で、昼にまかないが食べられる日だ。

 歌詞なんてまるでわからないあの曲を、僕は喉の奥で歌った。




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