黒い森

4 砂時計(2)




 一定の量の砂がさらさらと落ちていく音が、記憶の片隅から引き上げられ、鼓動と共に波打っている。見ているはずのリビングを視覚で認識できない。全神経が母の視線を受ける右半身に集中している。
 こんなの、久しぶりだ。
 何が今、母をそうさせたんだろう。僕が飲んでいるもの? 勝手に冷蔵庫の中身を確認したから? 恵人の帰りの時間について口を出したから? それとも……

「あんた、眼鏡変えたの?」

 放たれた低い声に、背中から首筋へと一気に悪寒が走り、全身に鳥肌が立った。手のひらに汗が噴き出す。炭酸の味が残った唾液を慎重に飲み込んだ。
「あ、うん。ちょっと気分転換に」
 ゆっくりとそちらへ向き、恐る恐る目線を母に送った。
「手作りのサークルって、今度いつ行くの?」
 気付かれないよう呼吸を整え、極力平静を装って話題を変える。
「来週の木曜日よ。月二だから」
 母は何事も無かったかのように、シンクに向かった。
「続いてるね。もう一年くらいになる?」
 慎重に。変化が訪れないように。崩しちゃいけない。
「これでも私、後輩に慕われてるのよ。緒形(おがた)さんがいないと困るわ、なんて言われるし」
 シーッシーッと規則的に動かされるピーラーが、人参の赤い皮を薄く剥いてシンクへ落としていく。
「そうなんだ。頼られてるんだね」
 砂の音が、かき消された。
「上の人たちからは苫子(とまこ)ちゃんって、下の名前で呼ばれてるの。私だけなのよ、そんなの」
 こめかみが痛い。
「先月のサークルの時に、見た目がすごく若いって褒められたの。三十歳くらいにしか見えないって。隣に座ってた人も同じこと言ってたわ」
 機嫌の良くなった母は鼻歌をうたいながら、つるりとした人参をまな板に載せた。
「じゃあ僕、部屋に行くね」
「今日はずっと待ってるって、恵人にメールしとかないと駄目よね」

 キッチンを出る時も、廊下を歩く時も、自分の部屋に入ってドアを閉めるその時まで、背中に全神経を張り巡らせ、その状態を保つことだけに集中した。
 自室に入りドアに鍵を掛け眼鏡を外した。エアコンのスイッチを入れる。涼しい風を受けながらベッドに倒れ込んで枕に顔を押し付けた。自分の匂いを吸い込んで大きく吐き出して、また吸い込んだ。しばらくそうしてから、仰向けになり両手を見た。手のひらの湿り気は、もうほとんど残っていない。
 数年ぶりに聴こえた砂の音。僕を刺してくる母の視線。
 起き上がってベッドを下りた。
 机の横にある引き出しの一番下を開けた。奥に追いやられているはずものを手探りで見付け、ひんやりとした感触を掴んだ。もっと大きかったような気がしていたけど、今では手のひらにすっぽりと収まっている。
 木枠など余計なものは一切付属していない、ガラス製の砂時計。時間は五分の時を刻むものだ。逆さにして机に置き、零れ落ちる砂を見つめる。
 何回ひっくり返したのか、正の字を紙に書いていくんだ。一文字で二十五分が経過する。二文字書き込むだけで済む時もあれば、二十文字近くに及ぶ日もあった。
 早く帰ってきて恵人。
 幼い僕が声にならない声で何度も呟いている。
 早く。いいから早く。母さんのところに。


 いつの間にかベッドで眠ってしまった僕の耳に玄関扉の鍵を回す音が届いた。時計を見ると、まだ夕方の六時だ。部屋のドアを開けてすぐの玄関へ出迎える。
「おかえり、恵人。早かったね」
「ああ、今日はなんか皆忙しくてさ。サークルも無かったし、暇んなった」
 靴を脱いだ恵人は鞄を肩から下ろした。僕は手にしていた財布をデニムの後ろポケットに入れる。
「母さん待ってるよ」
「さっきメールあったな」
「僕、夕飯買ってくるね」
 横を通り過ぎようとした兄が立ち止まった。
「椿樹」
「ん?」
「今さらだけど無理するなよ? 父さんに言えば済むことなんだから」
「それだけはやめてよ、お願いだから」
「椿樹がそう言うなら仕方ないけどさ。でも……言えよな?」
「平気だよ。って、ほんと今さらだよ。どうしたの」
 明るく言い返すと、兄は申し訳なさそうに苦笑いした。

 恵人がリビングへ入ったのを見届けて、ポケットから取り出した砂時計を玄関の三和土に放り投げた。
 足で学校の革靴を隅に寄せ、スニーカーを履いて転がった砂時計を上から踏み潰す。割れない。アクリルじゃないガラス製なのに意外と丈夫だな。
 踵をガラス部分に叩きつける。同じ動きをして三度目に割れた。粉々になったガラスの間から黄色い砂が溢れ出す。もう一度、今度は軽く踏んでガラスを軽く蹴散らし、ドアを開けた。振り返ると、入り込んだ風で砂が舞い、母と恵人の靴の中に入り込んでいった。
 今の僕にはもう必要ない。何でこんなくだらないもの、いつまでもとっておいたんだろう。

 先月できたばかりの新しいコンビニもそろそろ飽きた。今夜は少し遠くまで行ってみようか。生温い空気とは反対の、清々しい気持ちで夜道を歩く。スマホに繋いだイヤホンから僕の好きな曲が流れている。
 信号で立ち止まる。二台のバイクが、けたたましい音と共に僕の前を走り去った。

 片足立ちになり靴の裏を見ると黄色い砂が付着していて……吐き気がした。




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