校長室から廊下に出たところで、直之様が恭しくご挨拶をした。
「それでは校長先生。彼女をよろしくお願いいたします」
「お預かりいたします」
学校長である英吉利人のブライアン先生と、日本人の黒松(くろまつ)というお名前の先生が直之様にお返事をした。お二人ともご年配の女性でいらっしゃる。東京の女学校の先生はおっとりとした雰囲気をお持ちだったけれど、こちらは厳粛なご様子でおられた。
直之様が私に微笑む。
「お迎えはミツコと俥夫の磯五郎が参りますので、それに乗って帰られるといい。ああ、お昼もミツコが届けに来るようですよ」
「わかりました」
「ではね。頑張ってください」
「ありがとうございました。行ってらっしゃいませ」
お仕事に行かれるという直之様の背中を見送ってから、私は先生方と共に教室へ向かって歩き始めた。
昨夜直之様がおっしゃった通り、彼のお家から近いミッション系の女学校に私は編入した。
渡された数冊の教科書が重い。先生方の靴音が廊下に響いていた。
既に授業は始まっているようで、教壇をとる先生のお声が、あちこちの教室から聴こえてきた。廊下の窓ガラスの向こうは梅雨に入ったばかりの曇り空が広がり、弱い雨が降ったり止んだりしていた。
「蓉子さん」
「はい」
あるお教室の前で立ち止まったブライアン校長先生が、たどたどしい日本語でおっしゃった。
「お勉強、頑張りなさい。たくさん友人を、作りなさい」
「はい。頑張ります」
私の返事ににっこりと笑った校長先生は、その場で踵を返して行ってしまわれた。残った黒松先生が、お教室の引き戸を開ける。
「失礼いたします、佐々木(ささき)先生」
「あら、黒松先生」
教壇にいた若い先生がこちらを見た。
「授業中に申し訳ありません。新しい生徒が入りましたので、中断してもよろしいかしら?」
「ええ、かまいません。どうぞ」
黒松先生が私を振り返った。
「では薗田さん、どうぞ入って」
「はい」
彼女に続いて教室に入る。生徒たちが一斉に私の方へ視線を向けたのがわかった。ああ、この独特の香り。ついこの間まで通っていた女学校の匂いに似ている。
黒松先生が黒板に私の名を書いた。
「東京の女学校から編入された薗田蓉子さんです。皆様、仲良くなさるように。学校内のことを教えて差し上げなさい。薗田さん、御挨拶を」
「薗田蓉子と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
まぁ、とか、ようこさんですって、などというお声が飛び交い、私は忽ち恥ずかしくなって俯いた。
「お静かに。そうね、一番後ろのお席が空いていますから、そちらに座って」
「はい」
くすくすと笑ったり、目配せをしている彼女たちの間を通り、席に着いて教科書を広げた。
午前の授業が終わった、お昼休み。ミツコさんが届けてくれたお弁当の蓋を開けようとした時、私の席の周りを五人ほどの女生徒が取り囲んだ。
「ご一緒してもよろしくて?」
その中の一人がお弁当を持って近くの机を寄せた。
「ええ。どうぞ」
私が頷くと、他の女生徒も椅子や机を移動させて私の周りに集まって来た。それぞれ食事を始めながら私の方を見ている。
「蓉子さん、とおっしゃったわよね」
「はい」
「それ、美味しそうなお重ね。お弁当を、わざわざ運んできてもらう方を見たのは久しぶりだわ」
「東京からいらして編入なんて珍しいわよ、あなた」
「ひょっとして華族の方? なんてね」
「え、ええ」
矢継ぎ早に質問をされて戸惑いながら、何とか合間を縫って頷いた。
「あら、本当に!? 華族の方でいらっしゃるの?」
「はい」
彼女たちの視線が再び私に集まった。
「華族の方ってほとんど東京にいらっしゃるでしょう? 何か事情があって、お引っ越しされたの?」
「実家は東京にあります。今は、こちらで違うお宅にいるのですが」
「お近いの?」
「そこの前の通りを少し行って、十字路を曲がって坂を上がった所です」
道を思い出しながら説明をする。お食事中におしゃべりなんて、はしたなくはないのかしら。
「ねえ、もしかして……西島様のお邸じゃない?」
「その通りです。ご存知でいらっしゃるの?」
彼女たちから悲鳴が上がった。甲高く大きな声に驚いてお箸を落としそうになる。持ち直していると、先ほどよりも猛烈な速さと勢いで、さらにお話や質問を浴びせられた。
「わたくし先ほどね、授業中に窓の外を見ていたら、殿方が歩いていらっしゃるのが目に入ったのよ! あれはやはり直之様でしたのね。相変わらず凛々しくていらしたわ」
「そんなことよりも、どうして西島様のお宅に!?」
「御親戚? ということはないわよね。あなたは華族でいらっしゃるし、西島様は財閥の方……」
「もしや、あなたが西島様のご結婚相手なの!?」
皆、手を止めて私を見ている。ごくんと喉を鳴らしてから、静かに答えた。
「まだ……婚約中ですが、いずれは。今は花嫁修業にお邪魔していて、」
話の途中で再び悲鳴が上がった。耳を塞ぎたくなるほどの声に、目がちかちかしてしまう。
「どこの財閥や富豪のご令嬢が、直之様のお相手なのかと思ったら、華族のお姫様だったなんて……!」
「ああ、今までご縁談をお断りしていたのは、あなたの為だったのね。溜息が出ちゃう」
「私のお姉さまは、きっとがっかりなさるわ。直之様に憧れて何度も夜会服を作ったのだもの」
「憧れの君とご一緒に生活していらっしゃるなんて……」
「最近夜会にいらっしゃらないというから、とうとうご結婚が決まったのではと、大変なお噂だったのよ?」
何が何だか訳がわからず、黙って皆さんの顔を見つめ続けていると、一人の生徒が立ち上がった。
「こんなにも見目麗しいお姫様ならば、西島様のご結婚相手としても申し分ないのではなくて? とにかくこのままではお昼のお休みが終わってしまうわよ。蓉子さんもお困りじゃないの」
一瞬黙った彼女らは、すぐに私へ謝罪の言葉を口々に述べた。
「そうね。ごめんなさいね、蓉子さん」
「つい聞きたくなってしまって、ごめんなさい」
「いいえ」
一旦お話は終えて昼食を食べましょう、と立ち上がっていた人、美代子(みよこ)さんの言葉に皆従って、その場はひととき静かになった。
お食事の澄んだお弁当の箱を仕舞っていると、三人の方がまた私の周りに集まった。さきほどの美代子さんと佳の子(かのこ)さん、勝子(かつこ)さんと名乗られた。
「蓉子さんて、華族の方が多くいらっしゃる女学校にいらしたの?」
「ええ」
「宮様や徳川家の方も、ご一緒って本当?」
「はい。ご一緒させていただいておりました」
頷くと、勝子さんに溜息を吐かれた。
「わたくし、そんな場所にいたら緊張して英文も読めないわ」
「あら、別にここでも英文は苦手じゃないの」
「まぁ、失礼しちゃう!」
そのやり取りが何だかおかしくて、彼女らと一緒に笑みを浮かべた。
「蓉子さんて、テニスはなさるの?」
「いいえ」
「御乗馬は?」
「いいえ」
「自転車はお乗りになる?」
「……いいえ」
皆、そういうものを当たり前に経験済みなのだろうか。
「んもう、あなた方はわかっていないわね。華族の方はお怪我をされたら困るでしょ。だからお転婆なことはなさらないのよね?」
美代子さんが私の顔を覗き込んで笑った。
「いえ、機会があれば、私もしてみたいです」
「あら話せるのね! だったら私の自転車に乗せてさし上げるわ。放課後に練習いたしましょう」
目を輝かせた美代子さんを、佳の子さんが遮った。
「それよりも帰りに汁粉屋へ寄りましょうよ。蓉子さんの歓迎会ということで。ね? どうかしら」
いいわね、と皆さんが同意している。
「あの、学校の帰りに行かれるのですか?」
「そうよ。どうされたの?」
佳の子さんが私に訊ねた。
学校の帰りにお友達とどこかへ、なんて一度も経験したことがない。
「お迎えの方も、ご一緒に行かれるのでしょうか?」
「いやだ、お迎えなんてありませんわよ。お小さい子どもじゃあるまいし」
ふふ、と悪気なしに笑って、三人は顔を見合わせている。前の女学校では当たり前のことが、ここでは全く違うみたい。
「私は女中が迎えに来ることになっているのです」
まぁと三人が小さく呟き、私を見た。
「すぐ帰っておしまいになるの?」
「ええ」
皆さんがとても残念そうなお顔をしたから、何だか気が咎めてしまう。
「華族の方って、大変なのねえ」
「どうしても駄目なのかしら? お女中に伺ったら?」
「ねえ行きましょうよ、蓉子さん」
行ってみたいけれど、勝手な行動は許されない。薗田のお家から持って来た僅かなお金は、お部屋に置いて来てしまったし……
「あの、今日は初日ですから家に帰ります。それで直之様に伺ってみます。行っても良いかどうかを」
「直之様ならきっと、ご理解がおありよ」
「私たちの勝手な想像ですけどね」
彼女たちは楽しそうに笑った。
午後は外国人教師による語学のお時間。このように毎日どこかしらで外国語の教科が入っているという。
放課後、美代子さんたちと一緒に門まで歩いた。雨は止んでいて空が明るくなっている。門を出ると、ミツコさんと俥夫が私を見てお辞儀した。急いで歩み寄っていく。
「お帰りなさいませ、蓉子様。俥夫の磯五郎です。以後、お見知りおきを」
磯五郎は想像していたよりもずっと若い男性で、体つきが良く、陽に焼けた肌をしていた。人の良さそうな笑顔をこちらへ向けている。
「蓉子です。お願いしますね」
「では参りましょう」
ミツコさんに促され、俥に乗り込む。傍にいた美代子さんたちに会釈をした。
「今日はありがとうございました。ごきげんよう」
「きっとよ、蓉子さん。明日ね」
「さようなら」
磯五郎が俥を引き始めた。薗田家の俥よりも早さがある。その時、後ろから友人たちの大きな声が届いた。
「蓉子さん、きっとよーー!」
慌てて振り向くと、美代子さん、佳の子さん、勝子さんが手を振っている。私も小さく手を振り返した。
「西島様におっしゃるのよー!」
「直之様によろしくお伝えしてね〜!」
大きく手を振るお友達に、胸が熱くなった。
「元気の良いお嬢さん方ですな!」
「そうね」
磯五郎も隣に座るミツコさんも朗らかに笑っていた。雲の切れ間から陽の光が差し込んでいる。雨上りの丘の上は、全てのものが瑞々しく輝いていた。
「直之様に何をおっしゃるのですか?」
「さきほど、学校帰りに汁粉屋へ誘われたのです。でも」
「蓉子様は興味がおありにないと?」
「いえ。ただ、学校帰りにそのようなことを、したことがないものですから。……行ってはみたいですけれど」
「旦那様に訊いて御覧になるとよろしいですわよ」
ミツコさんが私に優しく笑いかけた。
女学校の皆さんは元気で明るく、溌剌としていた。声を出して笑ったり、拗ねて見せたり、感情表現が豊かだった。
私が自転車に? 汁粉屋へお友達同士で……? 考えるだけで胸が躍ってしまう。
夕飯後にお部屋で勉強をしていると、外で車の停まる音がした。今夜も遅くなるとおっしゃっていた直之様が、お帰りになったのだろうか。
しばらく時間を置いてから階下へ降りた。広いホールでミツコさんに出くわす。
「ミツコさん。直之様はお帰りになりました?」
「ええ。今、舶来のウィスキーをお持ちするところなのですよ。そちらのお部屋にいらっしゃいますのでご一緒しましょう」
グラスを載せたお盆を持っていたミツコさんは私に笑いかけた。
「あのお話のこと、ですね?」
「……ええ」
お友達から誘われたこと。上手にお話しできるだろうか。
ドアをノックして、ミツコさんと共に本棚がたくさん並ぶ、一階にあるお部屋に入った。
着物姿で揺り椅子に座り、本を読んでいた直之様が顔を上げた。私から先にご挨拶をする。
「お帰りなさい」
「ああ、まだ起きてらしたんですか」
「今日の分の復習と明日の予習をしておりました」
「良い心掛けですね。いかがでしたか? 学校は」
「皆さん、とても良くして下さいました」
直之様から離れた所で、ミツコさんが私に目配せをしている。
「あそこはわりに自由な校風だと聞いていますから、あなたも楽しめるでしょう」
本を閉じて琥珀色の飲み物を口にした彼が、私を見つめた。
「どうしました?」
「……あの、お友達ができたんです。数人」
「そうですか。安心しました」
「それで、その」
「ん?」
直之様の表情を見て言葉が詰まった。
彼女たちはこの人を憧れの君だと言っていた。あの無邪気さを思い出すと胸が苦しくなる。
私は彼女らのように、素直に彼を見ることができない。彼もまた、彼女らと私に見せる姿は違うのだろう。
「いえ、何でもありません。おやすみなさい」
「おやすみなさい、蓉子さん」
お辞儀をしてお部屋を出る。ホールを歩き、階段へ向かった。
花嫁修業に来た身で……たった一日の出来事でお調子に乗って、甘えたことを言うつもりだった自分が恥ずかしい。
直之様が私に望んでいるのはしっかり勉強をすること。この辺りは外国の方が多くいると聞いている。直之様のお仕事関係で誰かをお家にお招きする時、彼が恥を掻くことの無いよう私もしっかり語学を学ばなければいけない。私を女学校に通わせたのも、そういう理由がおありなのだ、きっと。
余計なことは考えずに、勉強だけに集中した方が良いに決まっている。せっかくだけれど、明日お友達の皆さんにはごめんなさい、と謝ろう。
お部屋へ戻った私は英文の教科書をひらき、予習した少し先までのお勉強に取り掛かった。