「どうぞ」
 やはり直之様のお部屋だった。彼の声を聴いて、重たい木製の扉を開ける。他の場所とは違う、独特の良い香りがした。
「お邪魔します」
「蓉子さん……?」
 お部屋の奥にある、こちらへ正面を向けた大きな机で、何か書き物をされていた直之様は、私を見て驚いた。彼の後ろの壁に大きな本棚が並んでいる。

「御挨拶に参りました」
「ああ、そうでしたか。お休みなさい」
「……」
「どうされました? 御気分でもお悪いか?」
 無言の私を不審に思われたのか、直之様が離れた場所からこちらをじっと見つめた。
 彼は寝巻用の浴衣に羽織を羽織っている。上げている前髪は湯上りの為に濡れて、はらりと額に落ち、いつもと雰囲気が違った。彼の洋装しか見たことの無かった私は、そのくつろいだ様子に新鮮さを覚えた。普段の見目の良さに加えて、大人の男性の妖艶さみたいなものも漂わせている。
「……私」
 消えそうな呟きに直之様が首を傾げた。お腹に力を入れて、彼に届くよう少し声量を上げる。
「父から、あなたに愛される努力をするようにと言われました。どのようにしたらよいのか、教えていただけますでしょうか」
 私の足元は、すぐ傍の小さなテーブルに置かれたステンドグラスのランプに照らされていた。絨毯に届いた灯りが印象的な色を作り出している。
「蓉子さん」
「はい」
「声が震えていらっしゃいますよ」
「!」
 顔を上げると、こちらを見ていた直之様は笑みを浮かべてペンを机に置いてから立ち上がった。絨毯を踏む足音がこちらへ近付く。空気が薄くなったのではと思うくらいに息苦しく、貧血が起きてしまいそうだった。倒れないようにと足に力を入れ、気を強く持つ。
 私の役目を果たそうと自分で判断し、ここへ来たのだ。何も、怖いことなどない。
 再び俯いて訪れを待つ。
「まだ婚約を交わしただけですから、そういうものは、ずっと先にと思っておりましたが」
 手を伸ばしてきた彼は、その指で私の顎を持ち上げた。すぐ傍で視線が絡み合う。
「あなたにそんなことを言わせた俺の責任でもありますね。いいでしょう。お教えしますよ」
 逸らしたくとも、私を真っ直ぐに見つめる彼の瞳に囚われて、石のように動けない。
「こちらへいらっしゃい」
 彼の指から解放されたと同時に、腕を取られて連れて行かれた。

 直之様は書斎の奥、本棚の横にある、もうひとつの扉を開けた。
「どうぞ。俺の寝室です」
 書斎から続く彼の場所。入口の小さな灯りを点けた直之さんが、私の背中をそっと押した。
「……失礼します」
 大きなベッドに載った、真っ白なシーツと包布に包まれたお布団と羽根枕。
 その横に背の低い小さな棚とランプ。カーテンの引かれた窓際に、ゆったりとした大きな椅子がひとつ。そして壁際に木製の洋服箪笥が置かれただけのお部屋。余計なものはなく、落ち着いた印象だった。
 手を取られ、ベッドの前まで連れて行かれる。そこに座った直之様が私を見上げた。
「俺に愛される努力、というのはつまり、どういうことだと思われますか?」
「え……?」
「お父上の言葉ではなく、あなたの気持ちを知りたいんです。答えてください」
「それは」
 彼に愛されるようにとはどういうことか。問いかけられて返事に迷う。
 お母様の元に、お父様はいらっしゃらなかった。ここ何年も、お二人が親しげにお話しているところなど見たこともない。私が直之様との結婚のお話をお父様にされた夜、光二の母は父に呼ばれ同じ部屋に入った。二人きりで朝まで過ごしていたんだろう。
 それが、愛されるということなのでは……?
「同じお部屋で、ひと晩を過ごすことだと、思うのですが」
「なるほど。ひと晩過ごせば、それでよろしいと?」
「一緒に寝るのです」
「このように、ですか?」
「あ!」
 腕を取られ、天地がひっくり返ったような視界と共にベッドへ横たわっていた。
 羽織を脱いだ直之様は、自身も横になり、私を腕の中へ閉じ込めた。書斎に入った時と同じ香りが一気に近付いた。

「こうすれば俺に愛されることになる、そうお考えなのですね」
 直之様は私が着ている羽織に手を掛け、ご自身と同じようにそれを脱がせた。眠る時に羽織を脱ぐのは当然なのだけれど、心細さが増す。
「ええ」
「それは間違いですよ」
「……間違い?」
 私の額へかかる髪をかき分けた彼は、そこへ唇を押し当てた。たまらず瞼を強く閉じて全身に力を入れる。
「俺の為にそのような努力など、なさらなくてよい」
 硬くした身をほぐすように、移動した手のひらを私の肩から腕へ滑らせている。触れられた場所が熱を持ち始めた。
 この人は、何を言っているのだろう。
 彼の温かい手が往復する度、私は知らず知らずのうちに溜息を漏らしていた。
「あなたのような高貴なお方に、このように触れるのは……少々躊躇われます」
 耳元で彼が吐息混じりに囁いた。くすぐったさとも違う、味わったことの無い感覚に翻弄される。
「嘘を、お言いにならないで。蛍をいただいた時、躊躇いも無く……触れたではないですか」
「あれでも、精一杯自分を制御していたのです。あの場で、あなたの唇を奪わなかった俺を褒めていただきたいくらいだ」
「!」
 囁かれていた耳朶が何かに包まれた。耳を接吻されている……? 
「いや……何……?」
 顔を背けようとしても力が入らない。耳に触れられているのに、体の方が熱い。背筋や下腹、腰の辺りまでもが、見えない何かに囚われているようだった。
 突然耳の内側が温かくなった。直之様の息も同時に耳の中へ押し入ってくる。彼の舌に舐められているのだと気付いた時、羞恥で呼吸が大きく乱れた。
「我慢なさらずに、その息を聴かせてください」
 先ほどから何も考えられなくなっていた。考えようとしても、その隙を与えてくださらない。
「声を出してもいいんですよ、ほら」
 首筋に強く接吻された。その拍子に体がびくんと跳ねる。私の意志ではないのに、これは……何?
「ん……!」
 咄嗟に右手で口を押さえ、何とか堪えた。
 しかしすぐさまその手を掴まれて口元から外されてしまった。直之様は私の浴衣の襟元を引き、そこから肌を露出させた。すぐに隠そうとしたけれど、彼に顔を埋められ、どうにもできない。体をよじらせて抵抗しようとしても、直之様は構わず私の肩や鎖骨に口付けている。唇が肌に触れる度に、大きな音を立てて。
「ん、く……ふ」
 それは優しい時や、強く激しい時もあった。私の体は自分のものではないように、その度に揺れて、堪えようとしても自然に声が漏れていた。

 このようなこと、知らない。
 ばあやは、全て直之様の教えに従いなさいと言った。けれど、どういったことを、どんなふうにされるのかは教えなかった。ひと晩を一緒のお布団に入って寝る。愛するというのは、抱き合って口に接吻をする、それだけではないの? 晒した肌の、このような部分にまで口付けをするものなの?
「乙女らしい反応に、どうにかなりそうだ」
 彼は肩を露わにさせたままの私に乗り、強く抱き締めながら、頬へ接吻をした。何度も、何度も。頬に浮かぶ熱を確かめるかのように、何度も。
 ふいに体を起こした直之様は、大きく深呼吸をしてから静かな声で言った。
「名残惜しいのですが、今日はこの辺で終わりにしましょう」
「……まだ、続きがあるのですか」
 まだ呼吸の整わない私の、寝巻の襟元を直す彼に訊ねる。
「ええ、ありますよ。心も体も愛されるということは、どういういうことなのか……」
 私の腕を取り、背中へ手を回した直之様は、ベッドからゆっくりと私を起こしてくださった。
「俺が全部教えて差し上げます。少しずつ」
 目を細めて私を見つめた直之様の言葉に、胸が痛くなった。
 名誉の為に私を手に入れる。だから私へ優しくするのは、この人にとって当たり前のこと。そうではないの?
「その内、そのように硬くならずに、ご自分から俺のことを欲しがるようにさせてみせますよ」
 直之様を欲しい? どういうこと?
「……はしたないことを、おっしゃらないで」
 よくわからないけれど、そうお返事をしておいた方がいいような気がした。
「お顔が赤いですよ」
「今日は暑いのです」
「そうですか? 夕刻から曇り空になって少々肌寒いくらいですが。あなたも羽織を着ていらっしゃったし」
 楽しそうにからかう言葉に我慢ができなくなり、脱がされた羽織を持ってベッドから立ち上がった。

「お部屋に戻ります。ご教示……ありがとうございました」
「ああ、大切なことをお伝えするのを忘れていました」
 直之様もベッドから立ち上がり、私と共に扉へ向かった。
「明日、あなたを学校へ連れて行きますので、遅い時間には起きないよう、お願いします」
「学校?」
「早いうちに慣れた方が良いと思いましてね。編入の手続きは済んでいます。ここへ来る途中に見えたと思うのですが、そちらのミッション系女学校へ通っていただきます」
「え……」
 ミッション系の女学校。……私が?
 結婚の為に一度学校を辞めた方が、再び学校へ通うなど聞いたことがない。
 灯りの点けっぱなしになっていた書斎に戻り、廊下へ出るドアの前に来た所で彼に訊ねた。
「ここに私が来たのは花嫁修業の為、なのでは?」
「そうですよ。俺の妻になってもらう為にはまず、勉強をしていただきたい。そしてなるべく外に出られるのが望ましい。お茶だ、お花だ、琴だとそういうのもよろしいが、卒業までは学校の勉学を優先させてください」
 ドアを開けた直之様は私と一緒に廊下へ出た。薄暗がりの中を二人で歩き出す。夜は深まり、しんとしていた。
「外国人教師もいるようですし、見聞が広がって良いでしょう」
 二度と行くことの叶わないと思っていた女学校へ、再び通うことが出来る。嬉しさで胸がいっぱいになり、なかなかお返事が出来ない。
「どうしました? お嫌ならやめますが」
「いいえ。いいえ……! 行かせていただけるのなら、ぜひ」
 私のお部屋の前で立ち止まった直之様は、こちらに向き直った。
「でしたら早くおやすみなさい」
「はい」
「先ほどの続きは、また後日ゆっくりとお教えしますので」
 かがんで私の顔を覗き込んだ彼が、悪戯っぽく笑った。
「あれも、あなたの花嫁修業の一環だと受け取らせていただいて、よろしいんですね?」
「……よしなに、とお伝えしたはずです」
「そうでした。では遠慮なく、俺の好きにさせていただきますよ」
 そう言いながら、私に右手の小指を差し出した。
「なんでしょう?」
「指切りげんまんをしましょう。あなたにお約束します」
「何を、ですか?」
「前にもお話しましたが、俺は必ずあなたを幸せにします。その誓いです。さあ早く」
 言われた通り、おずおずと右手の小指を差し出した。絡んだ小指同志が上下に三回揺さぶられた。
「あなたも誓って下さいね。また俺の部屋に来ることを」
「!」
「ははっ、素直な反応をされる。ではまた、明日。蓉子姫」
「おやすみなさい」

 お部屋に入り小さな灯りだけを点け、窓辺まで歩いた。手触りの良いビロードのカーテンの隙間から外を眺め、私の瞳に暗闇の中を散歩させる。
 直之様に触れられて、その間は何も考えられなかった。悲しいことも、苦しいことも……何もわからなくなった。彼のお部屋に行く前の不安は、今の私には残っていない。屈辱すらもない。それが何故かとても、怖かった。
 遠くの海は月明かりに照らされ、まるで無数の真珠が浮かんでいるよう。こちらまで波の音が聴こえて来そうな、静かな夜だった。