長いこと車に揺られながら、外の風景を眺め続けた。
東京の街は遠ざかり、長閑な田園地帯の中を進んで行く。途中、車を停め、運転手が魔法瓶に用意したお茶を皆でいただき、また出発して山手へ向かう。
車が小高い丘を上る。道の両脇は小さな森、林、時に公園があり、別荘地にあるような大きな邸宅が点在していた。坂を上りきったそこは、平地のひらけた場所。大通りの並木道沿いに学校や商店、食事を出来そうな店などもあった。そこを過ぎてしばらく行き、十字路を曲がってさらに少しの坂道を上ったところに、立派な門構えの黒い門が見えた。
「少々お待ちを」
車を停めた運転手が降り、門を開けに行く。戻って来た運転手が再び車を発進させるとすぐに、二階建ての美しい洋館が現れた。搭屋の付いた洋館の外壁は、先日いただいたクロテッドクリイムのような生成り色。格子窓の窓枠は周りの木々と同じ、美しく鮮やかな緑色。家の前には花の咲き乱れたお庭が広がっている。
ここが、直之様が住んでいらっしゃるというお邸。私の花嫁修業の場所。
玄関前で車が停まった。
「ご到着です。お疲れ様でございました」
運転手がドアを開けてくれ、私は車を降りた。東京の匂いとは明らかに違う、爽やかな緑の薫りに包まれる。様々な鳥の鳴き声が、あちらこちらから聴こえた。
ドアは厚い木製の造りで、その上の小窓にはステンドグラスが張られていた。何の文様かしら、とチラリと眺めつつ、運転手が開けた玄関ドアから、直之様に続いて中に入った。
「お帰りなさいませ。直之様」
「ああ、ただいま」
黒いワンピィスに身を包んだ年配の女性が、直之様にお辞儀をする。
「これは女中のツネ。わからないことは何でも彼女に訊いて下さい」
「どうぞよろしくお願いいたします」
この方が、ツネさん。ばあやと同じ雰囲気を纏っている。
「こちらが、今日からここで花嫁修業をすることになった、薗田子爵家御令嬢の蓉子さんだ」
「薗田蓉子と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
お辞儀をして顔を上げると、もう一人、ツネさんの後ろにいた女性も頭を下げた。
「女中のミツコと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくお願いいたします」
玄関からすぐの広いホールは吹き抜けになっていた。二階へ繋がる大きな階段が目を引く。
「蓉子さんの荷物は届いている?」
「はい。お二階のお部屋に、磯五郎(いそごろう)が運びましてございます」
そうか、と返事をした直之様が言った。
「では蓉子さん。あなたのお部屋にご案内しますので、こちらへどうぞ」
「はい」
ホールを歩き出す彼について行く。
階段前で立ち止まった直之さんが、私に左手を差し出した。その大きな手のひらへ、私は自分の右手を乗せた。
彼はゆっくりと階段を上り始め、時折私を振り返る。まるでこれから夜会の会場へでも行くような、優雅な仕草で。
ホールから繋がる木製の階段は、真紅の絨毯が敷かれている。重厚な造りの手摺り。踊り場の窓の立派なステンドクラス。シャンデリアは小振りのものが数個、天井から下がり、嫌味の無い光を放っていた。先日連れて行っていただいた西島家よりも、全体的に落ち着いた装飾が施されていた。
吹き抜けを回遊する廊下に洗練された調度品が並ぶ。大きな窓から明るい光が差し込んでいた。
直之様は廊下の突き当りの横にあるドアの、真鍮の取っ手を回し開けた。
「さあ、どうぞ。蓉子姫」
東南に位置するお部屋は明るく、足を踏み入れるとそこは外国の雰囲気で溢れかえっていた。思わず感嘆の溜息を漏らす。
窓の端に寄せられているビロードのカーテンは葡萄色。
天蓋付の大きなベッドに、ふかふかとした掛布団と大きな羽枕が三つも載っている。それらの包布は全て、白地に薄い桃色や藤色の大小の薔薇が散りばめられていた。お布団も枕も、四方は幅広の白いレェスで縁取られている。
ベッドとは反対の壁際に行く。白色に塗られた鏡台と文机、それらの椅子も外国製のもの。それぞれの引き出しの持ち手はお揃いで、花の形をしたガラスで出来ている。
「これは?」
鏡台に載った真ん丸いガラスの器。色とりどりのお花が丸ごと入っている。
「乾燥させた花です。蓋を開けてごらんなさい」
ふんわりとした匂いが鼻をくすぐる。乾燥させたものだというのに、とても色鮮やかで生花のようだった。
「とても良い香りがします」
「英吉利から仕入れたものですが、まだ日本では発売していません」
鏡台に私と直之さんの姿が映っている。お部屋に二人きりだということを今さらながら自覚した私は、鏡の中の彼と目が合いそうになって、すぐさま逸らした。
「そこの洋服箪笥の扉を開けてごらんなさい」
言われた通り、鏡台の向こうにある箪笥の扉を開けた。この箪笥も机と鏡台とお揃いのようだった。
「あ……!」
「俺が適当に頼んで急いで誂えさせたので、まだ数枚にしかなりません。明後日にでも呉服屋に採寸に来てもらって、もっと作りましょう」
衣文掛けが並び、それぞれボタンやレエス、フリルやリボン、花飾りまで付いた、綺麗な色のワンピイスが掛かっている。最先端のものなのか、形は私の知らないものばかりだった。
「今昼食を作らせていますので、好きなワンピイスに着替えていらしてください」
「……」
「どうされました? お気に召しませんか?」
箪笥の前で茫然としている私の顔を、直之様が覗き込んだ。
「いえ、とても可愛らしいのですが……。私、最近はお洋服をほとんど着たことがないので、こちらにあるワンピイスの着方がわからないのです」
「ならば俺が着せましょうか?」
「!」
どうしてこの方は、澄ました顔でこのようなことをおっしゃるのだろう。直之様の言葉に絶句していると、彼が小さく吹きだした。
「な、何が可笑しいのです」
「いえ、ずいぶんお可愛らしい反応をされるのでね。冗談ですよ。ツネを寄越しましょう。洋服用の下着もありますので、それもツネに教わってください。靴も何足かご用意しました。大きさが合えばよろしいが」
「ありがとうございます」
「あと、こちらに」
彼が鏡台の引き出しを開けた。
「髪飾りやリボン、ネックレスも入っておりますから、これもお好きな物をお使い下さい」
「はい」
「良い天気ですので、昼食はテラスで取りましょう。場所がわからないでしょうから、そのままツネに連れてくるよう言っておきます。では」
「ありがとうございました」
すぐに部屋へ来たツネさんに手伝ってもらい、準備を終えて、二階にあるテラスという場所に行った。暖炉や椅子が置いてあるお部屋の、大きな窓の付いた扉をいっぱいに開け、そこから繋がる外の空間のことだった。
真っ白いクロスのかかったテーブル。椅子に座っていた直之さんが、私に気付いて手招きをした。
「似合うじゃありませんか。きつくはありませんか?」
「ええ。ちょうど良いです」
ふっくらとした肘までの袖には小さなリボンが並ぶ。裾は膝とくるぶしの間くらいの長さで風通しが良く、何だか落ち着かない。胸元は鎖骨が見えるくらいに四角く開き、淵に小花の飾り。腰のリボンは後ろで蝶々結び。髪はツネさんがガバレットにして下さった。
「それは良かった」
嬉しそうに笑う彼の表情は、心からのものに見えて……どういうお返事をしたらよいのかわからなくなってしまった。
椅子に座って周りを見渡す。降り注ぐ陽の光がまるで東京と違う。空気は澄んで、空の青さが濃い。
お二階のここからは今上って来た坂道、その脇に続く美しい林や小さな森が見えた。ずっと先にきらきらと光る場所がある。
「海……?」
「ええ。横浜の港です」
船が海面を滑っていく。上空には鳥がたくさん飛んでいた。
ミツコさんが私の前にスウプとパン、ソースのかかったオムレットのお皿を置いた。
「葉山を思い出します」
「……葉山、ですか?」
「ええ。葉山に別荘がありました。夏は避暑の為にそちらで過ごしておりました。幼い頃ですけれど」
まだ十歳になる前のこと。外国のご本をいただいた時。
今思えば葉山に行く時は母も嬉しそうだった。父も楽しそうに笑っていた記憶がある。
「今はその別荘は?」
「手放しております。それより前からずっと、訪れてはおりません」
「そうですか」
長袖のシャツを腕まくりした彼は、椅子の背もたれに寄り掛かり、珈琲を口にした。その端正な横顔をちらりと見る。
この人は平民であって華族ではない。なのに、どこか優美で紳士的な男性に見えた。
「……」
慌てて小さく首を横に振る。何を言っているの。あんなにも失礼な事ばかり言う人を、紳士的だなどと。
しばらくお食事をしてから、彼が言った。
「俺はこのあと仕事に行きます。荷物は、ほどかれましたか?」
「いえ、まだです」
「では、午後はそれをゆっくりなさればいい。お疲れでしょうから、片付いたら昼寝でもしていてください。俺は夕飯に間に合いそうもありませんので、先に召し上がってくださって結構です。ツネにも言っておきます」
直之様をお見送りしようと、彼と共に急いで席を立った。
「ああ、いらっしゃらなくて結構ですよ。ここで十分です。ゆっくり召し上がっていて下さい」
彼に制され、私はその場でお辞儀をした。
「行ってらっしゃいませ」
「行ってきます」
直之様がお出かけになり、しばらく一人で珈琲を飲んでいた。テラスのお隣のお部屋で待機しているツネさんに声を掛ける。
「あの、ごちそうさま。美味しゅうございました」
「もう宜しいのですか?」
「ええ」
片づけを始めたツネさんに伺ってみる。
「私にお手伝いすることは、何かございませんか?」
「今日は、さきほど直之様がおっしゃった通り、お荷物の整理をされて、その後はお休みになっていてください。途中、お茶をお持ちいたしますので、どうぞごゆっくり」
「ありがとう。それから、家の中を案内して下さると助かるのですが」
私の言葉に手を止めたツネさんは、表情を変えずに言った。
「今でもよろしゅうございますか?」
「そうね」
「かしこまりました。では一階から、ご案内させていただきます」
ホールの横の応接間は暖炉があり、隅にピアノが置いてあった。その奥は広い食堂。ツネさんについていき、食堂の奥の扉から台所に入った。良い匂いが充満した厨房に人がいる。
「お二人ともよろしい?」
ツネさんの声掛けに、白い服に前掛けを付けた二人が、お鍋やお皿から顔を上げた。
「料理人の依田(よりた)と三枝(さえぐさ)です」
二人は帽子を取り、お辞儀をした。
「こちらは薗田子爵家ご令嬢の蓉子様。直之様の御婚約者様です」
「薗田蓉子です。どうぞよろしくお願いいたします。お昼食、とても美味でございました」
二人は私を見て、またすぐに深々とお辞儀をした。
台所を出て、本のたくさん置いてあるお部屋を通り過ぎ、ホールの少し奥に入った。
「こちらが御不浄。お隣がお風呂でございます」
「まぁ……!」
どちらも洋風で、仕組みも使い方も全くわからない。
お風呂は楕円形の真っ白な陶器製。底は猫の足のような造りで支えられている。御不浄は椅子に似ているけれど、こちらもどこをどうしたら良いのか見当が付かなかった。
ツネさんがその場で簡単に使い方を教えてくださった。実際使う時には、また傍に付いていてくれるという。
そこから一旦ホールへ出て、隅にあるドアから小さな廊下へ入り、そのまた奥のドア前でツネさんが振り向いた。
「使用人の部屋は、この扉から出ていただいた別棟にあります」
「ツネさんも、そちらで過ごしていらっしゃるの?」
「昼間はお掃除や、その他のご用事でこちらの本館におりますが、寝起きは別棟でしております」
「そうなの」
「夜は男性の使用人が順番で一人ずつ、先ほどの本が並んだお部屋に待機しております。何か緊急の御用がございましたらお言いつけください。昼間は基本的に私とミツコ、そして運転手兼家令を務めている河合(かわい)が、蓉子様のお話をお伺いいたしますので」
「わかりました」
「二階のお部屋は直之様の御寝室、書斎、客室、先ほどのテラス前のお部屋、そして蓉子様のお部屋になります。直之様のお部屋は私どもではご案内できませんので、直接お聞きになるのがよろしいかと」
「そうね。ありがとうツネさん」
「いえ。それではお部屋にお戻りくださいませ」
姿勢も表情も変えないツネさんは、さっさと歩いて行ってしまった。
用意された私の部屋へ戻り、ベッドに座る。底に高さのある慣れない靴を脱いで裸足になった。解放感から、独りごちる。
「これくらい、はしたなくないわよね」
足を伸ばしてベッドの上に寝転がった。包布の大きな薔薇の柄が目の前に迫る。綺麗な色に包まれながら目を閉じた。
新しい生活が始まる。これからの私に、薗田家の運命がかかっていると言っても過言ではない。直之様に婚約解消をされないよう、花嫁修業に精を出さなければ。それが私の役目なのだから。
お夕食を呼ばれた後、直之様が何時頃にお帰りになるかわからないので、先に入って下さいとツネさんにお風呂を勧められた。
ツネさんが傍にいてくれたけれど、慣れないせいか勝手がわからず戸惑った。そうこうする内に、いつの間にかツネさんはどこかへ行ってしまい、結局早めに上がることにした。
体を拭いて浴衣に着替えたところで、はたと気づく。この姿のまま、うろうろして良いものだろうか。もう一度お洋服を着た方が良いのかしら……
脱衣所を出てホールを覗くと、ちょうど誰もいなかった。今の内に階段を上がってしまおうと、足音を忍ばせて大きな柱の前まで歩いた時、玄関外で車の停まる音がした。よくよく見ると、玄関ドアの前に待機しているツネさんがいる。
このままでは戻るに戻れない。かといって、堂々と階段を上がるわけにもいかない。迷っているうちにドアが開き、直之様が入ってこられた。
「お帰りなさいませ」
「ああ、ただいま」
「お疲れ様でございました。お夕飯をすぐにご用意いたしますので」
「いや、軽く食べて来たのでいらないよ。蓉子さんはどうなさってる?」
「ただいま、お風呂へ入っていただいております」
「そうか。……おや?」
急にこちらへ視線を投げた直之さんと、目が合ってしまった。その場で頭を下げ、ご挨拶をする。
「……お帰りなさいませ」
「どうされたんです? お姫様が柱の陰に隠れたりなどして」
近付いた直之さんが私の前で足を止めた。
「今、お湯をいただいたばかりで、みっともない格好ですから」
羽織を羽織っているとはいえ、浴衣姿を殿方になど見せられない。
「何もみっともないところなんてありませんよ。そうか……まだお湯は残っていますか?」
「ええ。流し方がわからなくて、そのままに」
「じゃあ俺がそこを使います。ツネ、浴衣を出しておいてくれ」
ツネさんは両手を胸の前で握りしめ、口を大きく開けて、驚いたような呆れたようなお顔で彼を見上げていた。
「な、直之様、そのような……」
「何だ?」
「新しいお湯をご用意いたしますので、今しばらくお待ちを」
「いいんだよ。まだ温かいのなら使えるだろう」
「……かしこまりました」
「蓉子さん、今はこのホールに俺とツネしかいませんから大丈夫ですよ。一緒に上の部屋へ行きましょう」
「……はい」
直之様は鞄をツネさんに渡すと、私の腰に軽く手を添えて前に進むよう促した。歩きながら、彼は顔だけ振り返った。
「ツネ。二階のバスルウムも使えるようにしようか。これでは、お姫様がお可哀相だ」
「では明日、業者に頼んでみましょう」
「ああ、よろしく頼んだよ」
二人の会話を聞きながら、私に触れる彼の手の温もりを、一人意識していた。
蛍の晩の時のように、自分から差し出すことができるだろうか。
お部屋の中を整理し、髪を整えてから、本棚に並べたあの外国のご本を取り出した。
日本語訳の文字を見つめると安心できる。目で追いながら、祈るように文字に縋った。どうか私に勇気を与えて……
二階のどこかのお部屋で、ドアの閉まる音がした。お風呂から戻っていらしたんだろう。
机の上に本を置いて決意する。そろそろとお部屋の出口まで歩き、そっとドアを開けて廊下に出る。
誰もいない廊下は、まだ小さな明かりが点いていた。天井近くにあるステンドグラスから月明かりが入り込み、辺りが余計に明るく感じる。けれど吹き抜けの廊下に立ってホールを見下ろせば、ただ闇が広がるばかりで、少し怖かった。
静かに絨毯の上を進んでいく。ドアの隙間から、中の灯りが漏れているお部屋があった。そこが多分、直之様のお部屋。
私のようになっては駄目、という母の呟き。直之様に愛されるよう努力なさいという、父のお言い付け。これは薗田家を守る為なのだから、決して恥ずかしいことではないと自分に言い聞かせる。
深く息を吸い込み吐き出してから、目の前にあるドアを叩いた。