西島家の自動車に乗り、通りを眺める。道行く人たちがこちらを見ていた。自動車が増えてきたとはいえ、大通りは俥を利用している人の方が遥かに多い。自家用車が物珍しく思われるのにも頷けた。勿論、私の家にも無い。
同じ東京内にある西島様のご実家までは、私の家からさほど時間はかからないと言う。今日は婚約の御挨拶の為、迎えにいらした西島様と一緒にそちらのお宅へ向かっていた。
「蓉子さん気分はいかがですか? 揺れに慣れておられないと、つらい方もいらっしゃるようなので」
「私は平気です」
「そうですか」
後部座席で私の隣に座る彼は、紺色の三つ揃えに真っ白いシャツを着て、胸元は薄手のスカァフのようなものをネクタイ代わりに巻いていた。
「西島様、お伺いしたいのですが」
「何でしょう」
「西島様のお父様は、何をされていらっしゃる方なのでしょうか」
「あなたのお父上から聞いていないのですか?」
「ええ」
「まさかと思いますが、俺の仕事のことも?」
「ええ。何も存じません」
こちらを向いた彼は、しばらく私の顔を見つめ、呆れたような溜息を吐かれた。
「深窓の御令嬢というのは、皆そのようでいらっしゃるのか。知らなかったな」
「相手のことを根掘り葉掘り聞くものではないと教えられました。でもお伺いしておけば、そちらのお父様とお話をする時に失礼なことを申し上げずに済みます。その方が良いと自分で判断いたしました」
「それはそうでしょうね」
背もたれに寄り掛かった彼は、前を向いて話しはじめた。
「父の実家は商店でした。彼は様々な商法で財を作り、株で大きな利益を得、銀行を設立しました。今は銀行家の傍ら、百貨店の事業経営にも乗り出しています。銀行は兄が継ぐことに決まっています」
「……あなたは?」
「俺はいずれ、その百貨店経営を任される立場ですが、まだ現場周りの勉強をしていたいので、もう暫く待ってくれと父に頼んであります。ですから、今は横浜にある百貨店直営の出張所、貿易部に勤めています」
百貨店へは数回連れて行ってもらったことがある。最近は様々な会社から百貨店が建設され始めたと、お友達から聞いたことがある。その内のひとつに彼が関わっていたとは。
「もうすぐ到着しますよ。それから、俺のことは西島ではなく直之と呼んでいただきたい。実家は全員西島ですからね」
「そうですね。わかりました」
大きな黒い門の前に車が到着すると、傍にいた使用人が門を開けた。外壁はどこまで続いているのか見当も出来ないほど恐ろしく長い。
門の中を車で進む。小道の両側に木立が並び、しばらくすると大きな日本庭園が現れた。そこを回り込むようにして進み、二階建ての日本家屋の前で車が停まった。こんな立派なお屋敷は、お父様の親戚にもいらっしゃらなかったのではないかしら……
車から降りた私は、玄関から外へ出迎えた使用人たちの人数に圧倒された。ずらりと並んだ彼らは一斉にお辞儀をし、直之様にご挨拶をしている。あまり見てはいけないけれど、ざっと二、三十人は居たみたい。
彼と共に玄関の中へ入ると、三つ揃えに蝶ネクタイを付けた男性が待っていた。
「直之様、お帰りなさいませ」
「ああ」
「そちらは薗田家の蓉子様でいらっしゃいますね」
男性が私へ微笑みかけた。
「はい。お邪魔いたします」
「ようこそいらっしゃいました。西島家の家令を務めております、横山(よこやま)と申します。以後、お見知りおきを」
「横山さん、ですね」
「いえ横山、とお呼び捨て下さい。ではどうぞこちらへ」
直之様と共に、彼のあとをついて行く。広い広いお屋敷の廊下は美しい絨毯が敷かれ、そこを辿って行くと巨大な洋室の応接間の前に着いた。さらにその横を通り過ぎて、突き当りにある大きな木製のドア前で家令の横山が立ち止まった。ドアの持ち手に手を掛け、私たちを振り向いた。
「皆様アフターヌーンティをお召し上がりになりながら、お待ちでございます」
「そうか。蓉子さん、英吉利の紅茶はお好きでいらっしゃいますか?」
私の顔を直之様が覗き込む。
「飲んだことがありません。珈琲はいただくのですが……」
「どうしても飲めないようでしたら俺に言って下さい。別のものを出させますので」
「いえ、いただきます」
頷いた直之様を合図に、横山がドアをノックした。
「失礼いたします。直之様、薗田子爵家ご令嬢様がご到着です」
「良いぞ、入れ」
扉の向こうから張りのある男性の声が聴こえた。同時に横山が扉を引いて開け放ち、お部屋の中へ私たちを誘導した。
立派な長テーブルに着いている人々が一斉に私たちを見た。すぐに顔を伏せ、静々と直之様の斜め後ろに立った。
「ただいま戻りました。遅くなりまして申し訳ありません」
「よく来た直之。さぁ、そこにおられる華族のお姫様を紹介しておくれ」
さきほどの張りのある声の主だった。
「薗田子爵家ご長女の蓉子さんです」
「薗田蓉子と申します。初めまして」
直之様に紹介された私は、深々とその場でお辞儀をした。
「蓉子さん、その美しいお顔を早くこちらへ見せて下さい。そしてほれ、直之も一緒にテーブルに着いてお茶を飲みなさい」
「はい」
私の着物の腰に手を置いた彼が、空いている席へと促した。傍にいた使用人が椅子を引き、私が座るのを手伝う。
次に別の使用人が現れ、私の前にソーサーに載る白いカップを置いた。中に琥珀色よりも紅い、湯気の出る飲み物が注がれている。良い香りが鼻をくすぐった。これがお紅茶、よね?
直之様の真似をして、ひと口飲んでみる。想像していたよりも香りが強い。不味いとは感じなかったけれど不思議な味がした。
カップを置くと、それを見計らっていたかのように、先ほどの大きな声の主が話し始めた。
「私が直之の父、西島長太郎(にしじまちょうたろう)だ。これが妻の多枝子(たえこ)、直之の兄の長一郎(ちょういちろう)、その嫁の志津子(しづこ)、二人の子どもの多喜子(たきこ)に長二郎(ちょうじろう)だ。長一郎には、あと三人妹がいるが、皆嫁に出ていてここには居ない」
直之様のお父様が紹介をされると、皆、私に軽く会釈をした。私も微笑みながら会釈を返す。
お兄様のお子様は、お二人とも小学生くらいのお歳の姉弟。二人で私を見ながら秘密話をしている。
私と西島様の間に、他の方と同じ、銀色の枠に載せられた三段のお皿が運ばれた。使用人が説明を始める。
「お二人でお召し上がりくださいませ。上段はシュークリイムと季節のケェキの盛り合わせ、中段のスコーンにはクロテッドクリイムとスモモのジャムを添えました。下段のサンドウィッチはバタを塗り、茹で卵、茹で海老を挟んでおります」
このような形式のものをいただくのは初めてで、どうしたらよいのか困っていると、直之様がお取り皿に取り分けてくださり、いただきましょうと笑顔で言った。
幾分か安心して、スコーンというものを口にしてみる。外は歯触りが良く、中はもちもちとしていて、クロテッドクリイム、というのがとても合う。これも英吉利の食べ物なのかしら。
美味しいとは思うのに、緊張で胸がいっぱいになってしまい、食べ物が中々喉を通らなかった。
優雅で豪華な空間だった。
大きなシャンデリアが天井から三つもぶら下がっている。直之様のお父様、お母様は美しいお着物を着て、他の方はお洋服を召していた。食器類は全て舶来のものと思われる。銀のスプーンやフォークはどれも磨き込まれて、ぴかぴかに光っていた。
「それにしてもお美しい方だ。直之が、わしの持って来る縁談を全て蹴り飛ばすのも道理だわ。のう? 直之」
「おわかりいただけましたか、お父さん」
直之様のお返事に、ああわかったぞ、と笑いながら、今度は私に訊ねてきた。
「蓉子さん。あなたのお父上は今、何のお仕事をなさっておいでか」
「何もしてはおりません」
「何も? 貴族院議員などは?」
「一度務めていたようですが、今はどこかしらの協会長のようなものをしております。私にはよくわからなくて……。趣味で芸事を少々嗜んでおりますが」
なるほど、と頷いたお父様は紅茶をひと口飲まれてから、話の続きをされた。
「我々のような爵位も名誉もない者は働くしかないのですよ。かといって財を成せば軽蔑され、何をしても卑しいと貶される。いや羨ましいものですな、貴族という方々は」
直之様のお父様は大きな声で笑った。
何かとても失礼な物言いをされたような気がしたけれど、表情には出さず、目を伏せてお紅茶をもうひと口いただいた。
「華族のお姫様、なんていうから、もっと豪華なお着物かと思っていたのに、ずいぶん地味なのね。多喜子がっかりしたわ」
直之様の姪にあたるお嬢さんが、シュークリームを手にしながら口を尖らせた。おませな口調とは反対の子どもらしい仕草が何だか可愛らしい。
「これ多喜子!」
「失礼なことをお言いでないの! 申し訳ありません」
お兄様とその奥さまが交互にお嬢さんを叱り、私に謝った。
「いえ、本当のことですもの。失礼などではありません」
私の言葉に驚いたのか、多喜子お嬢さんは大きなお口を開けて私の方を向いた。
「蓉子さんは喪中なので、派手な格好など出来ないのですよ」
直之さんが多喜子さんに向けて優しく諭すような声を出した。お父様が大きく頷いている。
「大変なことでしたな。あなたのお母上ならば、まだお若いでしょうに」
「痛み入ります」
「喪中ですから、婚儀は来年にしますよ。それまでは花嫁修業という名目で、蓉子さんをこちらでお預かりすることにしました」
「まぁ、何ですって……!?」
ずっとお黙りになっていらしたお母様が、直之様の言葉に反応して突然声を上げた。小さなスプーンをお皿へ置き、私の方へ顔を向ける。
「田舎者の私たちが、華族のお姫様へお教えすることなど何もございませんわ。こちらが教えていただきたいくらいですのに」
ほほほと高笑いをしたお母様は、すぐに真顔に戻って私に厳しい視線を投げかけた。あからさまな敵意を向けられ、目線を落とす。
お紅茶のカップを手に持とうとしたけれど、震えて上手く掴めない。すると、右側に座っていた直之様が私の震える右手を掴み、さっと下ろしてテーブルクロスの中で握った。温かく大きな手に、私の右手が包まれる。彼の意図がわからず緊張していると、直之様がはっきりとした声で言った。
「そうおっしゃると思いましたので、ご心配なく。蓉子さんはここではなく、横浜の家に来てもらいますから」
「直之さんのところへ?」
「ええ、そうです」
直之様は、もう一度私の手を強く握った。震えはいつの間にか治まっている。僅かだけれど緊張から解放されたように感じた。
「そう、ね。それが良いわ。ツネはそちらでまだ、元気でいるのでしょう?」
「ぴんぴんしてますよ。西島家のことを蓉子さんに知ってもらうには、彼女に教えてもらうのが一番かと」
「うふふ。それもそうね」
急に機嫌の良くなったお母様は、ケェキに載ったフルーツをフォークで刺して口へ運んだ。
「いつからなのだ? その花嫁修業と言うのは」
「三日後には来ていただきます」
「そうか」
手を放した直之さんは突然立ち上がり、皆さんにお辞儀をした。
「では、蓉子さんに支度をしていただかなければなりませんので、これで失礼します。お父さん、仕事の件はまたご連絡しますので」
「ああ。上手くやっているようだな。頼んだぞ」
「はい」
続いて私も立ち上がり、皆さんに御挨拶をした。
家を出て、再び自動車に乗り込む。
とても慌ただしかったように思うのだけれど、失礼ではなかったかしら? 西島家を後にし、横に座る直之様を見ていると、気付いた彼が私へ顔を傾けた。
「嫌な思いをさせて、すみませんでした」
「いえ、そんなことはありません」
彼がたまに見せる優しげな表情や声に、何故だかいつも戸惑ってしまう。
「しかし、見ることができて幸せです」
「何のお話?」
「あなたと初めてお会いした時にお伝えしたことです。俺の周りの人間が見せた、羨望の眼差し。あなたという名誉を手に入れた俺を見る、父と兄の顔です」
「……それがあなたの幸せなの?」
私の問い掛けに、彼は口元に僅かな笑みを浮かべ、頷くだけだった。
急に道が悪くなったのか、車体がガタコトと小刻みに揺れた。
「横浜の家、とは?」
西島家ではない横浜の家で花嫁修業をすると言っていた。てっきり先ほどの家で過ごすのだと思い込んでいた私には意外な展開だった。
「祖母が生前住んでいた家です。祖父が亡くなったあと、一人でそこにいたんですよ。祖母が亡くなり、その後から俺が住んでいます。勤め先が近いのでね」
「お一人で?」
「ええ。一人、と言ってもツネとミツコという女中、そこの運転手、俥夫、料理人を雇っておりますが」
日が傾きかけ、夕日が車の中まで入り込んだ。眩しさに目を伏せて彼の話を聞く。
「ツネ、というのは祖母のお付きの者でした。祖母は西島家から出る時にツネを連れました。ツネは西島家を裏で取り仕切っていたんです。あなたの家にもいらしたでしょう」
「ばあやのことね」
「そうです。ツネの方が歳は上でしょうね。わからないことがあれば彼女に何でも聞いて下さればいい。ミツコはツネよりもう少し年下でツネの補佐役をしています」
上手くやって行けるだろうかと不安になったその時。遠くへ目を向けた彼が独り言のように、感情を抑えた声で言った。
「西島の家には滅多にあなたを連れて行きませんので、ご安心を。俺も近寄ることは少ないので」
「そうなのですか?」
「……ええ」
直之様は複雑な表情を横顔に乗せていた。ついさきほど私に、それがあなたの幸せなのと訊かれ、頷いた時と同じように。
この人は自分を正妻の子ではないと私に教えた。芸妓の子だと、卑しい生まれだと自嘲していた。
もしかしてそのことで、何か悩まれることが、おありなのかもしれない。
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翌日、女学校の友人たちと最後のご挨拶をした。
お別れのしるしにと、お花の刺繍されたハンケチや、押し花、そして楽しくおしゃべりした大人の恋愛小説などをいただき、私からは一人ずつにお手紙を書いてお渡しした。きっともう二度と会うことはないのだろう。そんな寂しい思いが胸を掠めた。
その二日後。梅雨の合間の晴れた朝、直之様がお迎えにいらした。門まで皆が私を送り出してくれる。
「姫様、お元気で」
「ばあやも体にお気をつけてね。行ってまいります」
深々と頭を下げたばあやの隣で、サワが目を潤ませながら私の顔を見ていた。彼女は私よりも五つほど年上なのに、家の中で唯一親近感を覚える存在だった。
「サワ、今までありがとう」
「蓉子様……! 私は、姫様のお傍にいたいのです。ついていくことを、お許しいただけませんか? お願いいたします」
「駄目よ。お盆には一度帰ってくるから、それまで待っていなさい。その時は光一郎たちも帰って来るでしょうし、お父様にもきっとお会いできるわね」
「……姫様」
「そんなに心配しないで。大丈夫だから。ね? 泣いちゃいやよ、サワ」
彼女の手を握り、小さく微笑みながら自分の涙は胸にしまった。
「よろしいですか?」
「ええ」
直之様と共に、運転手が開けてくれたドアから車に乗り込む。門の前に並ぶ皆に向かって手を振った。車が発進しても尚、振り続けた。
一生の別れでもないというのに、しまっておいたばかりの涙が浮かぶ。サワに泣くなと言っておきながら情けないことに……涙が止まらなかった。
私たちは直之様が住んでいらっしゃるという横浜、山手のお家へと向かった。