いつもの年ならば青葉の美しい、心が浮き立つ筈の季節が、今年はただ悪戯に過ぎていくだけのものとなった。
もっと早くからお母様と打ち解けて、お話をしていれば良かった。もっと大切にしてさしあげれば良かった。もっともっと……。いくら後悔しても、お母様はもうどこにもいらっしゃらない。
最近は学校から帰ればすぐに、この誰もいない離れの部屋で時を過ごしていた。
梅雨に入る直前の、緑が匂い立つしっとりとした庭を見ながら、母が口にした言葉を反芻する。
「……私のようになっては、駄目」
お母様の幸せとは一体、何だったのだろう。
「蓉子様、御前様がおなりです。あ、御前様……!」
サワの声と大きな足音に振り向くと、部屋の襖を勢いよく開けた父は怒りの表情を見せていた。
「お帰りなさいませ、お父様」
その場に正座をし、手を揃えてお辞儀する。
「お前は……何故西島殿に会おうとはしないのだ、蓉子!」
「お母様の四十九日も終えていないのに、殿方にお会いすることなど出来ません」
「愚図愚図しておれば、纏まるものも纏まらなくなってしまうというに、全く……」
悲しみの癒えない私の元へ毎日のように届く、あの人からの豪華な贈り物。私を慰める為だと、ばあやは言っていたけれど、そのまま素直に受け取ることなどできない。
「一周忌の喪が明けるまで、私は誰とも結婚できない身ではありませんか」
「そんなものどうとでもなる。正式の婚儀でなくとも良いのだ」
父はサワが差し出した座布団へ、どすんと座った。
「花嫁修業という建前で、妻になるべく直之殿のところへ行きなさい。それならば喪中は関係ない。その後に正式の婚儀を執り行えば良い。既に直之殿とは話を付けてある」
お父様の言葉の端々から焦りの色が見え隠れした。母が亡くなり間もないのを押し切ってでも婚約をさせたいのだろうか。世間体を気にする父の行動とも思えなかった。
「直之殿は、いたくお前を気に入ったようでな。他の婚約者候補の存在を仄めかした途端、どんな条件も呑むなどと言ってきおった。普段は落ち着き払ったすまし顔をしている男が、傑作なこと、この上ないわ」
楽しそうに笑い、サワの淹れたお茶を啜っている。
「直之殿と正式な婚儀を行なえば、お前は華族ではなく平民の妻だ。今の内に暮らしぶりや、習慣の違いなどを学んで来るが良い。その間に直之殿をしっかり繋ぎ止めるのだぞ?」
お父様は湯呑から緩やかに立つ湯気を見つめ、独り言のように呟いた。
「愛される努力をしなさい。……淑子のようになっては、いかん」
父が出掛けた後、すぐに私は母屋の表(おもて)へ向かった。玄関から近い場所に、その部屋はある。
入口から家令を呼ぶ。
「柏木。こちらへ来て」
机で書き物をしていた家令の柏木が顔を上げて私を見た。途端に慌ててこちらへ駆け寄ってくる。
「蓉子様。このようなところへいらしてはなりません」
「聞きたいことがあるの。どうしても」
私の訴えに何かを察した柏木は、声を落として言った。
「……こちらへ」
廊下を歩き出した柏木は、白いシャツの襟を正しながら隣の和室へと入った。私に座布団を差し出し、自身は何も敷かずに畳へ正座する。
「いかがされたのです? 何かお困りごとでも?」
受け取った座布団に座り、正面から訊ねた。
「正直に答えて頂戴。ここは……この家は、どれだけ」
姿勢を正し、呼吸を整え、次の言葉を一気に吐きだした。
「薗田家はどれだけ困窮しているのか答えなさい。嘘や誤魔化しは許しません」
「蓉子様」
困惑した表情を見せた柏木が、私から顔を逸らした。お父様よりも少し年下の柏木は、私が生まれてすぐから、この家に仕えて来た人物で、皆の信用も厚かった。
「誰にも秘密にいたします。お父様はもちろん、ばあやにも、光一郎たちにも。教えてもらえなければ私、納得ができないの。西島様のことは知っているのでしょう?」
「存じ上げております」
「お願い柏木。結婚について、お父様のおっしゃることが絶対なのはわかっています。でも、あの方と結婚する意味を、自分によく、言い聞かせてから……それから結婚したいの」
途切れてしまう言葉を何とか最後まで言い切った。
降り出したばかりの静かな雨音が部屋の中に響いている。柏木が溜息を吐いてから顔を上げた。
「噂話などで歪曲されて姫様に伝わるよりも、私の責任で正しくお教えした方がよろしいでしょう。他言なさらないとお約束ください」
「ありがとう柏木。感謝します」
私を連れて表の部屋へ戻った柏木は、仕事をしていたもう一人の男性に用事を言いつけ、そこから下がらせた。柏木と二人、壁際の大きな棚の前に行く。
「全てをお見せすることは出来ませんが、帳簿の一部です」
鍵付の扉を開けて取り出した一冊の帳簿。机の前の椅子に私を座らせた柏木が、帳簿を捲って中を見せた。そこには刀、壺や置物、屏風や装身具、お皿まで明記してあり、横に数字が並んでいる。
「これは?」
「御前様が手放された品物です。その中には代々受け継がれてきたものもございます」
「まさか、家宝を売っているというの……!?」
「左様でございます」
柏木が淡々と答えた。
「こんなことをなさっていたなんて……」
そこまで暮らしに困っているようには、とても思えなかった。いえ、正しくは気付かなかった。帳簿を持ち上げ、膝の上で捲りながら再び柏木に問う。
「他にも何かあるのなら教えて頂戴。隠さずに」
「……お名前を申し上げることは出来ませんが」
「ええ」
「御前様は、とある方の借金の保証人になられております。その方は既に返済能力がなく……御前様が全て被っていらっしゃいます」
「借金の、保証人……?」
見上げると、柏木は呆然としている私に向けて、済まなそうな表情をした。
「それほど大変なのに、どうしてお父様は今も……外の方のところへ通っていらっしゃるの?」
訊いても仕方のないことを訴えた。それでも言わずには、いられなかった。
「この先が、不安ではないというの?」
「いいえ、そうではございません。ございませんが……御前様の不安は、間もなく解消されるご予定なのです」
「どういうこと?」
柏木が口を噤んだ。
「言いなさい、柏木」
「……蓉子様が、西島様よりお受けになる予定の……結婚のお支度金が膨大なものだからです」
「え?」
一瞬、その意味が理解出来なかった。
「今お話した御前様の借金を全額返済し、手放された家宝を全て取り戻しても尚、有り余る額を西島様が提示されました」
「……」
「御前様は光一郎様、光二様の将来の為にもなるだろう、と」
「……だからなのね」
「蓉子様」
「お父様がこの結婚を急がせるのは、そういうこと……」
全身の力が抜け、膝の上にあった帳簿は床に落ちた。
「姫様……!」
「大丈夫よ。……柏木、伝えて欲しいの」
雨の音が強くなる。
「今度西島様からご連絡があったら、すぐにお会いしますと、ばあやに伝えて」
+
お母様の四十九日が過ぎた週末。夕食を終えてしばらくした後、その人が到着した。
心を落ち着かせる為に、応接間でもなく自室でもなく、お母様が使っていらした離れで彼を待つことにした。しばらくしてサワが声を掛けて来た。
「蓉子様。西島様がおみえになりました」
「お通しして」
静かに襖がひらいた。
「失礼します」
「……こんばんは」
以前お会いした時とは違う、春夏用の三つ揃えを着ていた彼は、部屋に一歩入ると正座をして頭を下げた。サワが部屋の向こう側から襖を閉める。途端に二人だけの空間が出来上がった。
「蓉子さん」
「はい」
「お母様のことは残念でした。あなたが酷くふさぎこんでいるとお父上から伺って、ずっと心配しておりました」
「……ありがとうございます」
離れたところに正座していた私は、目も合わせずに返事をした。
「ちょっと失礼」
突然立ち上がった男が部屋の電灯を消した。驚き、急いで私も立ち上がる。
「何をなさるの!?」
「静かにして下さい。何も取って食おうなどとは考えていませんよ。俺はここに座りますから、あなたもそちらに座って」
暗闇の中、男が畳に座る音がした。目が慣れてきた頃、言われた通り私も壁際に正座した。
「通りがかりの神社で縁日をしていたので買って参りました」
顔を上げると、彼のいる方がぼんやりと緑色に光っている。それらはゆったりとした点滅を繰り返していた。
「もしや、蛍?」
「そうです。今夜は、あなたの良い返事をいただくまでは、ここを動きません。それまでは明かりも点けさせたくない。一緒に蛍を眺める時間をください」
小さな虫かごらしきものの蓋を開けた彼は、数匹の蛍を部屋に放った。小さな光が部屋のあちらこちらへと移動し、幻想的な雰囲気を醸し出している。
「どうやら送らせていただいた品はお気に召さないようでしたから、趣向を変えてみたんですよ」
ゆらゆらと頼りなげに飛ぶ蛍を見つめた。
部屋の隅に、本棚の角に、畳の上に、散らばっている緑の光。
「あなたは」
しばらく続いた静寂に、自分から声を落とした。
「何でしょう」
「私以外にも、たくさんの縁談があると父から聞きました。その中に、私ではない他の華族の方もいらしたのでは? 何故私と結婚なさるおつもりなの?」
名誉が欲しい故の結婚だとしたら、他の華族令嬢ではなく、私を選ぶことの理由がわからない。
「愚問ですね」
彼の微かに笑った気配がした。
「他の誰でもない、あなたがいいと思ったからですよ、蓉子さん」
「何故?」
「大変に困窮している子爵令嬢はあなただけだ。結婚後、華族という身分を振りかざして尊大な態度を取られることのない……取引しやすい家の方だからです」
「!!」
「それだけではありません。あなたは非常に美しい。聡明だとも聞いている。何より、一筋縄でいかなそうなところがいい。俺にはっきりした意思表示をするのは、あなたくらいのものです。それに……」
「それに?」
「いえ、何でもありません。とにかく俺は、あなたがいい。そう思うからこそ、今ここにいる」
私の着物に留まった蛍が妖艶な光を放っていた。
取引しやすい相手。こんなことを正面から告げられて、屈辱を感じないとでも思っているのだろうか。私の中の奥の奥。触れられたくない場所へ躊躇いもせず入って来るのは、この西島という男が初めてだった。以前会った時も同じ。よりによって何故、このような人が婚約者なの?
お父様の借金や、お遊びの為に嫁ぐのは納得がいかない。けれど……
お母様は、つらい思いをされながらも最期までこの家を離れることはしなかった。その誇りを、この場所を、私が守れるというのなら。お金と引き替えにこの身を投げ出し、目の前にいる男に嫁ぐことなど他愛も無い。
袂から飛び立った蛍を目で追った。
「綺麗」
「こういう土産も良いでしょう」
穏やかな声に返事もせず立ち上がり、薄暗い中を障子に向かって歩き出す。木枠に留まる蛍を放してやろうと手を伸ばした。
「蓉子さん」
真後ろに立ったのだろう彼が言った。私の両側から障子へ着いた手に、この身を閉じ込められてしまう。
「他に候補がいるとしても、あなたは俺の妻になりますよ。断ることが不可能なのは、ご存知でしょうから」
「……まるで、人質のようね」
彼の言う通りなのだ。
どんなに強がっても、それ以外の道がないのは、よくわかっている。
「大切にしますよ。誰よりも、どんな男よりも、あなたを幸せにします」
彼が耳元で囁いた。大きな手で後ろからそっと私を抱き締める。意外な優しさに戸惑いながら俯くと、首筋に彼の息がかかった。
哀しみのような諦めを持って、密かに瞳を潤ませる。戻ることは叶わない。だったらいっそ無理やり押さえ付けられるのではなく、自分から飛び込んだ方が屈辱を味わわずにいられるのではないか。
ひとつ息を吸い込み、胸の奥に小さな覚悟を決めた。
近づいた男の為に顔を少し傾け、首筋を差し出す。私の行動に驚いたのか、彼は抱き締めていた手の力を弱め、躊躇った。微かに頷くと、私の同意を感じ取った彼が首筋に顔を埋めた。
――心の中まで穢れるわけではない。
「西島様……。どうぞ、よしなに」
その呟きに応えるように、強くきつく、抱き締めてくる。
何度も押し付けられる唇の感触を許した私の瞳から、涙が一筋流れ落ちた。