「こんな感じかしら、ツネさん」
「左様でございますね。直之様のお好きなお紅茶はアッサムですので、覚えておいてください。ミルクをたっぷり入れます」
「あっさむ、ですね。あっさむ」
 ツネさんが教えた名前を繰り返して、ティーポットというものを見つめた。

 今朝は早くに起きて、ツネさんにお紅茶のことを教わっていた。
 台所の一部に専用の食器棚があり、お紅茶や珈琲用のカップなどが並んでいた。直之様は珈琲もお好きだけれど、お紅茶の方をよく好まれるらしい。
「直之様はもう食堂にいらっしゃいますので、これは私がお持ちいたします。蓉子様も食堂へどうぞ」
「いろいろ教えて下さってありがとう、ツネさん」
「いえ」
 相変わらず表情を変えないツネさんは、伺えば何でも丁寧に教えて下さる、案外怖くないお方だった。

 食堂の扉をノックして中へ入る。
 大きなテーブルの端に直之様が座っていらした。私の席は彼のすぐ傍に用意されている。
「おはようございます」
「おはよう、蓉子さん」
 直之さんは英字の新聞を読まれていた。ツネさんが現れ、彼の前にお紅茶のカップを置く。
「直之様、蓉子様がお淹れになった、アッサムティでございます」
「蓉子さんが?」
 淹れたと言っても茶葉を量ってお湯を入れただけなので、威張れるものではない。直之様はカップを持ち上げて香りを楽しんでから、お紅茶をひと口飲まれた。
「美味しいですよ。頑張りましたね」
「いえ、私は何も」
 ツネさんがほとんどしてくれたのだから、彼の言葉に恐縮してしまう。もうひと口飲まれた彼は、カップを置いて溜息を吐いた。
「あなたのそういう奥ゆかしいところは長所だと思いますし、俺も気に入っています。しかしね、蓉子さん」
「……はい」
 何となく苛ついた彼の口調に緊張が走る。いけないことを口走ってしまったのだろうか。
「昨夜は俺のところにまで来ておいて、言いたいことも言えずに出ていくなど、それはないでしょう」
「え?」
「ミツコから聞きましたよ。お友達に誘われているようで」
 心臓がどきんとした。ミツコさん、私に気を遣って直之様にお話したの?
 ……もしや、そのことで怒っていらっしゃる? 遊びに行きたいなどという思い上がりに、呆れていらっしゃる?
 彼はナイフとフォークで桃色をしたハム、という薄いお肉を切り、口へ運んだ。私は飾り切りされた胡瓜をフォークに刺し、口にも入れずに弄びながら返事に困っていた。
「あ、ええ。そうなんですが……あの」
 言い淀んでいると、直之様が顔を上げ、私を見た。
「行ってくるといい」
「……よろしいの?」
 訊き返した私に、直之様が頷きながら優しく微笑んだ。何故だろう、その表情に胸がぎゅっと狭くなった。怒っていらっしゃらなかったことに、ほっとしたからだろうか。
「いいですよ。ミツコにお金を渡しておきますから、それをお使いなさい。汁粉でもあんみつでも、アイスクリンでも何でも召し上がればいい。買いたいものがあればお好きなように。ただし」
 何か違うような気もしたけれど、彼の言葉を聞きながら、小さく生まれた感情を心の隅に追いやった。
「あなたはまだ、薗田家からお預かりしている大切な方ですから、ミツコを伴に付けさせます。いいですね?」
「はい」
「とはいえ、友人同士気兼ねなく話もしたいでしょうから、帰る時にどこかで待ち合わせをされるといい。学校から出る頃にミツコをそちらへ寄越します。どこへ行くのか、お友達からミツコへお話をしてもらって、待ち合わせの場所を決めてください」
 私の好いようにと、彼があれこれ考えて下さっていることに気付いた。
「危険な場所へ行ってはいけませんよ。外国の方や、その辺の男性にもついて行かないように」
「はい」
 初めて逢った時は、とても嫌な人だと思った。こんな方に嫁ぎたくない、二度と逢いたくはないと。私の気持ちなど一生この方には分かる筈がないと思っていた。
 でもこの家へ来て、直之様の行動や私へ接する態度に触れる度に、その考えが覆ってしまいそうな気がしていた。まだ、三日目だというのに……

 登校して、その後は毎朝行われるという礼拝に参加した。
 美しい礼拝堂でお祈りを捧げる。讃美歌はあまりわからないから、何となく合わせて歌った。清らかな皆さんの歌声と歌詞は、とても心に響くものだった。
 お教室へ移動する廊下で、美代子さんが私に話しかけてきた。
「蓉子さん。直之様に昨日のこと、お話しされた?」
「ええ。行ってもよろしいって」
「まぁ良かったわね!」
「楽しみだわ」
「今日は土曜で午後は授業が無いから、ゆっくり楽しめるわね」
 いつの間にか横に並んだ佳の子さんと勝子さんも、嬉しそうな笑顔を見せた。

 行き先は元町。学校から歩いて行ける場所だという。
 元町を散策した後は、佳の子さんと勝子さんはそこから鉄道に乗って家に帰り、美代子さんのお住まいはこの近辺だから、私と一緒に学校前まで戻ることになった。
 放課後、門の前に来たミツコさんに、夕方またここへ迎えに来てもらいたいと告げ、そこで別れた。
 四人で、おしゃべりをしながら学校の裏の長い坂道を下りて元町へ向かった。美代子さんは自転車を引っ張っている。これで坂を一気に下りると気持ちが良いのよ、とおっしゃったけれど、他の二人に止められていた。
 坂を下りきって少し行くと、急に辺りがひらけ、人の多い場所に出た。綺麗に整備された広い道の両脇に商店が並んでいる。
 渡来物の家具屋さんをいくつか見かけた。靴、鞄、お洋服のお店、理容店なども外国人向けのところが多い。英文字の看板が掲げてあったり、歩く人の中に外国の方が混じっていたり、元町は異国情緒ある場所だった。

 ここよ、と佳の子さんがおっしゃったお店に入る。
 店内の装飾は洋風だけれど、メニュウは親しみのある和食や和菓子。ひとつのテーブルに着いて、皆で相談を始めた。
「お昼を食べていないから、あんみつだけではお腹がいっぱいにならないわね。ジャミパンでも買おうかしら」
「私はお稲荷さんにしましょうっと。勿論あんみつも食べるわよ」
「新作はアイスクリンが載ったあんみつ、ですって」
「あら、それにしよう」
 彼女らのお喋りを聞きながら、私も同じものに決めて頼んだ。お稲荷さんとお漬物。別に変わりはないものなのに、今まで食べて来たお稲荷さんよりも数倍美味しく感じられた。
 温かいお茶を飲んでいると、人数分のあんみつが運ばれた。器の中で四角い寒天が輝いている。ふっくらとしたお豆が散らばり、大きな求肥がふたつも。真ん中の大きな丸いアイスクリンに黒蜜がかかっていた。
「美味しいわね」
「ええ」
 おさじで掬い、口に入れて微笑みあう。黒蜜とアイスクリンが冷たくて甘くて、舌が蕩けてしまいそう。
「今度皆さんでソーダ・ファウンテンへ行かない?」
「ちょっと勝子さん、あなたいつから不良になられて?」
 美代子さんが眉をしかめた。
「カフェーとは少し違うから大丈夫よ。お父様に連れて行っていただいたのだけれど、そこのレモン味のソーダ水がね、とても美味しいの。お口の中で弾けるというのかしら。あんなところで殿方とソーダ水を飲んでみたいものだわ〜」
「勝子さんは、そればっかりね」
 うふふと皆で笑った。
「ねえ、夢二(ゆめじ)の新作の柄、ご覧になった? とても欲しい半襟と浴衣があったのよ」
「どんなの?」
「桜草の洒落たものでね、地の色は若草で……何といったらいいのかしら。今度雑誌をお見せするわね」
 夢二、というのは竹久夢二のことかしら? そういえば前の女学校でも話題になっていたような。
「呉服橋(ごふくばし)のお店が横浜にも来ないかしら。そうすれば夢二の新作がすぐ手に取れるのに」
「港屋(みなとや)でしょう? 雑誌で眺めているだけではつまらないわよね。こちらに入荷するのはずいぶん後になるし」
 最後の一口を食べた時、佳の子さんが私に言った。
「直之様なら、すぐに手配して下さるかもよ」
「そうなの?」
「東京の百貨店は流行のものが一番早く手に入るはずだもの。ね、お願いしてみたら? 蓉子さん、あなた、もう少し派手なお色も絶対似合うと思うのよ。夢二の柄はあなたにぴったりじゃないかしら」
 佳の子さんが私の頭に着いた、白いおリボンを触って言った。彼女たちは大柄の花や、格子、水玉などの可愛らしい柄のおリボンを着けている。着物も、色や柄がとても鮮やかで眩しいくらい。
「今日はお時間があるし、この後、雑貨店に行かない? 夢二の新しい絵葉書が見つかるかもよ」
「私はハンケチが見たいわ」
「便箋も買わなくてはね」
 思い立ったら吉日よ、と美代子さんが立ち上がり、私たちも続いてお店を出た。

 外は蒸し暑さを感じさせるような陽気に変わっていた。
「明日は雨かしらねぇ」
「せっかくの日曜日なのに残念ね」
 通りを歩いて行き、店構えの立派な雑貨店へ入る。
「素敵……」
 店内を見て思わず溜息を吐いた。
 綺麗に配列されたハンケチ、おリボン、小さなバッグ。ノオトに付けペン、インク、絵葉書と便箋。それぞれ種類が豊富で目移りしてしまう。
「うちの学校は、お友達同士のお手紙交換が盛んなのよ。蓉子さんも買っていきましょう」
「ええ、そうね。……これ、とても可愛い」
 縁に小薔薇の模様が描かれた便箋とお揃いの封筒。
 私が持っていた便箋と封筒は、ばあやが御用聞きにお願いしていたものだから、ここにあるもののような愛らしさはなかった。
 陳列された商品を見て楽しんだ後、皆さんと一緒に会計へ並んだ。
「それだけでよろしいの? 蓉子さん」
 勝子さんが横から訊ねた。
「ええ、よろしいの」
 今の私には十分過ぎるくらい。嬉しくてたまらなくて、便箋と封筒を入れてもらった紙袋を胸に抱きしめた。

 まだ時間があるからと、広い公園に立ち寄った。いつの間にか、私へ自転車を教えることになっている。
「大丈夫かしら……」
「大丈夫、大丈夫。気をしっかり持ってね、蓉子さん」
 袴を穿いているとはいえ、こんなにも足を広げて何かに座るのは初めてだし、自転車がこれほど安定感のないものだと知って不安に襲われた。後ろで美代子さんが押さえて下さっているけれど……
「さぁ蓉子さん、行くわよ〜。しっかり掴まっていらしてね。ご自分で頑張ってペダルを漕ぐのよ」
「は、はい」
「押しますよ、それ!」
 押された分だけ前に進み、風が私の顔にびゅうと当たった。と思ったのも束の間、ふらふらとし始めた自転車を上手く操縦できず、体を持って行かれて怖くなる。
「あ、あ、あ……! あの、美代子さん! 私、これ、ちょっと……! きゃ!」
 ぐらりと体が横になり、すごい音がしたと思ったら、お顔の前に地面があった。急いで起き上がろうとすると、膝がひりひり痛んだ。
「蓉子さん! 大丈夫!?」
「ごめんなさいね、痛かったかしら!?」
「どうしましょう……!」
 倒れた自転車の車輪がくるくる回っていた。傍に来た皆さんが、呆然としている私の顔を心配そうに覗き込む。その時、ふいに何かが込み上げた。
「ふっ……ふくく、ふふ」
「蓉子さん?」
「だって、だって可笑しいのだもの。私こんな格好をして、自転車がぐらぐらして、ふふ、あはは……!」
 私が顔を上げて笑うと、三人も釣られて笑い出した。
「いやあねぇ、あはは!」
「すごかったわねぇ……!」
「蓉子さん、素敵だったわよ!」
 皆で大きな声で笑った。頭に着けた、おリボンが揺れる。海老茶袴が土で汚れている。そんなことまで全部が可笑しくて、笑って笑って、お腹が痛くなるほど笑って……お膝の怪我なんてすっかり忘れてしまった。


 学校の前まで美代子さんが送って下さり、迎えに来ていたミツコさんと磯五郎で、直之様のお家へ帰った。とてもくたびれてしまい、お夕飯を食べてお風呂で汗を流した後、直之様を待たずにベッドへ潜り込んだ。
 夢のような一日だった。
 異国の香りのする通りのお店で美味しいものを食べ、おしゃべりをして、可愛い便箋を買って。お付きなんていない、自由な時間をお友達と過ごして。
 ふと、自転車に乗って転んだことを思い出し、顔が綻んだ。
 大きな声を出して笑ったのは生まれて初めて。はしたないから微笑むだけにしなさいと言われてきたけれど、笑うと言うことはあんなにも、心がいっぺんに晴れてしまうような気持ちの良いことだとは知らなかった。
 枕元に便箋を置き、楽しかった今日の日を胸にしまって、眠りについた。