門の傍には昨夜行われたのだろう、迎え火の跡があった。
「蓉子様、お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました。ばあやもサワも元気そうね」
「ありがとうございます。姫様も、お元気そうで何よりでございます」
 実家の玄関で出迎えてくれたばあやと柏木、そしてサワに挨拶をする。
「お帰りなさいませ」
「ただいま、柏木。こちらは西島家で私がお世話になっている、ミツコさんです」
 付き添いで玄関まで来てくれたミツコさんを紹介する。彼女は深々と頭を下げて挨拶をした。河合さんは外に停めた車の中でミツコさんを待っている。
「西島家で働いております、女中のミツコと申します。直之様よりお預かりしましたものでございます。お受け取りくださいませ」
「ありがとうございます。御前様へお伝えいたします」
 ミツコさんが差し出した風呂敷に包んだ物を、柏木が両手で受け取った。
「それでは私はこれにて、西島家へ戻らせていただきます。蓉子様、明日は直之様がこちらへいらっしゃいますので、そのおつもりでいらしてください」
「ミツコさん、ありがとうございました。河合さんにもよろしくお伝えください。直之様にも、無事に着いたと知らせてくださいね」
「ええ。それでは皆さま、失礼いたします」
 にっこりと笑ったミツコさんは薗田家を後にした。

 サワと一緒に自室へ向かう。
 仏間から漂うお線香の匂い。庭で鳴くひぐらしの声が響き渡り、時折吹く風が木々の葉を揺らしている。二か月ぶりの薗田家が、とても懐かしく感じた。
「お父様の腰の具合はいかがなの?」
 廊下を歩きながらサワに問いかける。
「一週間ほど横になられた状態が続きましたが、今は普通に家の中を歩いていらっしゃいます。再発しないように注意をされてはいらっしゃいますが、痛みは消えたとおっしゃっておりました」
「それなら良かったわ。サワは? 元気にしていた?」
「……ええ。元気に、しておりました」
 顔を伏せたサワの声が涙ぐんでいたように感じられた。
「サワ? 何かあったの?」
「いえ、何でもございません。蓉子様がお帰りになられて……嬉しいのでございます」
「本当に? それだけ?」
「はい」
 奥にある私の部屋に入り、用意されていた紋付きの絽に着替える。時計を見ると、午後三時を回ったところだった。

「ただいま戻りました」
 仏間から続く和室に集まっていた、お父様と弟たち、親戚の方に声を掛けた。
 お母様方の祖父母は亡くなっており、お母様には兄弟もいらっしゃらないから、お母様の従妹がおひとりだけいらしていた。あとはお父様の御兄弟が御夫婦でいらしている。
「西島家でよくやっているようだな、蓉子」
「皆様とても親切にしてくださいます。今後も精進して参りたいと思います」
「良い心掛けだ」
 満足そうに笑ったお父様は、私と直之様のことを親戚の方に話し始めた。
 その後すぐに、お母様のお墓のある、お寺のご住職を招いた初盆の法事が執り行われた。
 お経を聴いている最中、私はとても静かな気持ちでいられた。直之様のお家で大切にされ、いろいろな方と出逢い、自分の受けた悲しみは癒されていたことに気付く。
 お父様のことも……いつまでも拘らずに少しずつ許せていけるような、そんな心持になっていた。

「蓉子様、少しよろしいでしょうか」
 皆さんでの夕食が始まる前に、柏木が声を掛けて来た。開いているお部屋に入り、話を聞く。
「どうしたの?」
「西島様からお預かりした提灯代について、ご相談があります」
「何かおかしいことでもあったの?」
「通常の金額を遥かに超えたものを頂戴しまして、いかがされたものかと」
 扱いに困ったふうに柏木が話を続けた。
「初盆のお返しとは別に、お礼をさせていただこうと思っております。しかし、頂戴した金額をそのまま御前様へお伝えしても良いものか……」
「まさか、お父様はまだ浪費をされているというの?」
「蓉子様が西島様の元へいらしてからしばらくは、お控えになっておりました。しかし最近はまた、そのようなことが少々ございまして……」
 直之様のお気遣いが、お父様の浪費に使われてしまうのは、とても嫌な事に感じられた。
「わかりました。お父様へはまだ正確な金額をお伝えしないようにして。明日の朝、直之様がいらしたら正直に伝えます。多すぎる分をその時にお返ししましょう」
「ありがとうございます」
「……最近は足りているの?」
 声を潜めて柏木に問いかける。私が家を出る頃は、相当に切羽詰った状態だったのだから。
「西島様と、そして何より蓉子様のお陰でございます。なるべくこれ以上ご負担をお掛けしないようにと、私の方でも注意しておりますので十分足りてございます」
「それなら良いけれど、また前のようなことになる前に話して頂戴ね?」
「ありがとうございます、蓉子様」
 柏木は何度も私に頭を下げ、礼の言葉を繰り返した。

 夕食を終えて皆様を玄関でお送りした後、ふいにお母様のいらした離れが気になり、御不浄へ行くついでにと足を向けた。
 夜の渡り廊下へ出る。ぎしぎしと板を踏む音。生温い風が頬を撫でる。真っ暗な辺りの様子に、さすがに心細くなり、引き返そうかと迷ったその時、先の方に薄ぼんやりとした明かりが見えた。誰かが離れのお部屋にいる……?
「蓉子姉さん」
 声に驚いて振り向くと、少し離れた所に弟がいた。
「そちらへは行かない方が宜しいかと」
「光一郎? どうしたの急に」
 いつの間にか私の背を追い越した弟が、口を引き結び、真剣な表情で私を見ながらこちらへ近付いてくる。
「ねえ、あの明かりは何? どなたかいらっしゃるの?」
「……」
「返事をしなさい、光一郎。……何を隠しているの?」
 口を閉ざす弟を不審に感じた私は、彼に背を向けて足早に離れの部屋に向かった。
「姉さん、駄目だ……!」
 追いかけてくる弟を振り切り、お母様の部屋の前に辿り着く。閉まっている襖の隙間から光が漏れていた。
「失礼します。入っても宜しい?」
 お返事が無い。けれど拒否された訳ではない。
「入ります。いいですね?」
 襖を一気に開けると、そこには……私の知らない女性がいた。
 お母様よりはずっとお若く、私よりはずっと年上の、女性。私が来たことにも驚かず、こちらを見もせずに、島田に結った髪を手で撫でつけていた。
「どなた……?」
 私が問いかけると、畳の上に足を投げ出して座っていた女性は、気怠そうに正座に座り直し、両手をついて頭を下げた。
「御前様にお世話になっております、梓乃(しの)と申します」
「お父様、に?」
「そうでございます」
 顔を上げたその人の、真っ赤な紅をつけた唇から発せられた言葉に悪寒が走った。
 まさか、そんな。
「もしや、芸妓のお方……?」
「もうやめておりますので、元芸妓ですが」
 元、という言葉を強く言ったその人は、不満げな表情をあからさまにして私を見上げた。
「どうして、こちらに……?」
「今日は奥様の法事とかで、ここにいるよう言われたのです。普段は母屋にいるのですけれど」
「……普段というのは、いつから」
 声が、体が、震える。
「六月の下旬でしょうか」
 私が薗田家を出て、一か月もしないうちに……?
「母屋の、母屋の、どこに」
 自分の声が遠くに聴こえるくらい、頭がずきずきと痛んだ。
「え? ああ、以前奥様が使われていたという、お部屋だと伺っておりますか」
 澄まして答えた彼女は、私から目を逸らし、正座の足を崩した。
「お母様のお部屋、ですって……?」
「ずっとお使いになっていないのでしょ? でしたら有効に使わせていただいた方が、お部屋も喜ぶのでは?」
 私のお腹の底に、どろどろとした黒い塊が渦を巻き始め、全身を呑み込もうとしていた。よく見れば、この人が身に着けているものは、お母様のお着物。お母様が生前大切にしていらした、美しい織の……
「ここを出ていきなさい! 出て行って……!」
「あれ怖い。では母屋に戻ります」
「何を言うの! 母屋のお母様のお部屋にも行かないで!」
 喉が痛くなるほどの、こんなにも大きな声を出したのは生まれて初めてだった。
「蓉子様、落ち着いてくださいませ。ここはどうかご容赦を……!」
 光一郎に呼ばれたのだろうサワが入ってきて私の前に座った。サワの声を聴いてもこの感情は止められない。光一郎はサワの後ろに立って私を見つめているようだった。
 唇を噛み締めて梓乃という人を睨んでいると、突然彼女は立ち上がり、縁側の窓を全開にして夜の闇に向かって叫んだ。
「御前様〜! お助け下さいませ! 娘様が御乱心ですわよ〜!!」
 呆気にとられている私をちらりと振り向いた女性は、再び大声で叫んだ。
「御前様!! お助けを〜!! 御前様〜!!」
「なんという下賤な物言いをなさるの。何という……!」
 体がわなわなと震えた。生まれて初めて味わう酷い屈辱が、私の口からさらに大きな声を出させていた。
「そのお着物も、お母様のものよ……! お脱ぎになって! あなたのような者が勝手に着ないで、穢らわしい……!」
 彼女に近付き、お母様の着物へ触れようとした時、後ろから肩を掴まれた。
「蓉子!!」
「あ……っ!」
 私と彼女の間に入った父が、私の頬を打った。その衝撃で畳の上に投げ出され、父の怒声を上から浴びる。
「何をしているのだ、お前は!」
「御前様! お止め下さいませ!」
「サワ、あれほど蓉子を見ていろと言っただろう! 何をしておったのだお前は!!」
「申し訳、ございません……」
 すすり泣くサワの声を聴きながら体を起こし、打たれた頬を手で押さえた。
「姉さん!」
 私に駆け寄った光一郎が背中をさすった。ゆっくりと顔を上げ、お父様を下から見つめる。
「お父様……なぜ? 何故、このようなことを、このような、」
「淑子はもういない」
 お父様の低いお声が、お部屋に響いた。
「わしにも慰めが必要なのだ」
「……」
「わかるな? 蓉子」
 その時、父の後ろに隠れていたその人が、私の顔を見てくすりと笑った。
 ……私の顔を見て、笑った。
 打たれた頬の痛みなど、どうでもいい。心を抉られた痛みに比べたら、そんなもの、どうだって、いい。


 一睡もできずに朝を迎えた。薄暗く、鳥の鳴き声はまだ聴こえない。
 布団から起き上がり、着物に着替える。音を立てないように、サワに気付かれないように、慎重に。
 ツネさんたちよりも薗田家の女中たちの朝は遅い。小鳥が鳴き始めた頃に裏口から抜け出し、静かに家を出た。
 曇り空の朝は日が昇っても尚、薄暗いままだった。
 直之様が私に持たせて下さったお金はなるべく使いたくないから、乗り合いタクシーなどには乗らず、駅まで歩こうと決めた。
 雨が降るのかもしれない。そんな匂いがする。傘は持っていない。

 鉄道に乗り、目的の駅で降りた。少し進んだ場所に小さな商店が並んでいる。朝早くから開いている店には仏花や駄菓子が売っていた。小さな黄色い箱が目に映る。仏花とその箱を買って先を急いだ。
 昨夜お世話になったご住職のおられるお寺の手前で、ご住職が出掛けられる様子が見えた。何となく気まずくて、道沿いの木の陰に隠れる。お盆の最中だからお忙しいのだろう。俥に乗って行かれるのを離れた場所から見送り、しばらくしてお寺へ近付いた。
 入口にいた小坊主さんからお線香を買い、お母様のお墓へ向かった。夏着物が蒸し暑く感じられる。灰色の雲が垂れさがった空は、今にも雨粒を落としそうだった。

 柄杓で何度も何度も、お母様にお水を掛けた。
 火の付いたお線香を置いて花を飾り、手を合わせる。
 お母様を薗田家に迎えているのだから、ここにはいらっしゃらないというのはわかっている。でも……あんな状況で、お母様の帰る場所などあったとは思えない。だとしたら今、お母様はどこにいらっしゃるというの……?

 しとしと、という音が耳に入ってはいたけれど、身動きできずに佇んだまま、母のお墓を見つめ続けていた。何も考えられずにただ、じっと。
 どれくらいの時間、そうしていただろう。
 ふと気付けば、お寺の小坊主さんが隣にいて、私に傘を差しかけてくれていた。光二くらいの年頃だろうか。
「どうぞ」
「ありがとう。でももう、いらないの」
 お墓に刻まれた母の名を再び見つめて答えた。
「え、あの」
「私、行かなくては……」
 会釈をして歩き出す。確か、この近くに川があった筈。
 お寺を出て、拙い記憶を頼りに歩いた。雨に濡れた草履と足袋が、ぐずぐずと聴いたことの無いような音を立てている。
 ぐず、ぐず。変な音。
「ふふ」
 可笑しくもないのに笑いが零れた。弱い雨の中を歩きながら、一人くすくすと笑い続ける。
 さあさあと水音のする方へ歩いていくと、雨に霞む川が現れた。それほど大きくはない川に小さな橋が架かっている。向こうからこちらへ橋を渡る人が足早に横を通り過ぎて行った。私も橋の真ん中まで進んでみる。
 橋の欄干に手を置き、下を流れる川を覗き込んだ。濁った黒い水。雨粒の無数の波紋。
「お母様、そこにいらっしゃる?」
 川べりの柳の枝が垂れ下がり、今にも川面に葉の先を落としそうになっている。
「お母様」
 強くなる雨と共に黒い水は流れを増し、ごうごうと音を立て始めた。
「……いらっしゃるわけがない」
 自分に言い聞かせるように呟く。
「いらっしゃるわけがない。そんな美しくもない場所に、お母様が……いらっしゃるわけがない……!」
 ――お母様を、穢された。
 それは私の誇りも穢されたと同じこと。
 あの家を守りたいが為に直之様の元へ入ったというのに。お母様の誇りを守るお手伝いが出来たと自負していた私は、何と愚かだったのだろう。お父様の行いの前では私のちっぽけな誇りなど、簡単に粉々にされてしまうのだ。
 もうあの家に、お母様の居場所はない。もちろん私の居場所も。

 黒い水をもう一度覗き込む。少し背伸びをして、もう少し向こうまで。水かさの増した川は、ますます大きな音を立てて流れていた。
 お母様、お母様。お返事をして。
 そこにいらっしゃらないのなら、どこにいるの? この流れに乗れば、お母様のいらっしゃる場所へ私も連れて行っていただけるの……?

 欄干に掛けた手に力を入れ、大きく身を乗り出して答えを探す。
 その時、どこからともなく、私の名を呼ぶ声が聴こえた。