蓉子、と確かに幽かな声が聴こえた。
でもそれは、決して私を受け入れては下さらない、そんなお声だった。確かめようと耳を澄ました時、別の場所から叫び声が届いた。
「蓉子さん、駄目だ!」
力強い声に意識を引き戻された私は、乗り出していた身を静かに下ろした。雨で霞む橋の上をゆっくりと振り向く。少し離れた場所にあったのは、傘を放り出して佇む直之様の姿だった。
「何故……ここに?」
近付いて来る彼に小さな声で呟く。
「後で説明しますから、今は俺と一緒に行きましょう」
一歩一歩慎重に私の元へ歩いてくる直之様から顔を逸らし、また川の方を向いた。大きくしなった柳の葉の枝先が、千切れて流れに呑み込まれていくのが見えた。
耳の奥に静寂が生まれ、物音は聴こえず、しんとしていた。
「私は、何の為に生きているのでしょう」
再び欄干に手を添えて川の流れを凝視する。
「お母様を喪って、薗田家の困窮の為にあなたの元へ来たのに、お父様はまた裏切りなさった……。隠しておけるなどと、どうしてそのように思われたのか、私にはわからない」
私が帰ってくることを知っていて、どうしてあのようなことをしたのだろう。サワも光一郎も皆知っていた。知らなかったのは私だけ。私さえ知らなければ済むことだと、そう、思われたの? やりきれない思いが私を支配する。
「私は……薗田家にとって何の価値も無い人間なのです。それでも、あなたの元へ行けばお母様の居場所が守れると、そう信じて来たのに……お父様にとって私など、取るに足らないちっぽけな存在、必要の無い人間だったのです」
彼に聴こえていようが聴こえていまいが関係なく、言葉を発し続けた。
「私も、お母様のお傍へ行ってしまいたい。何もわからなくなってしまいたい。これ以上何も知らなくていい。もう、消えてしまいたいのです」
お母様が今の私を見たら何とおっしゃるだろう。
「……あの人は、私を笑った」
すぐ傍で感じた直之様の気配を振り向き、声を張り上げた。
「あなただってそうでしょう? 何も知らない私を、華族などという張りぼてのお飾りに過ぎないものに縋って生きてきた私を……お金の為に何の躊躇いも無く差し出された私を、憐れだと思っている……!」
涙が溢れ出た。
「憐れで惨めで、それでも頑なな誇りだけを頼りに、生きてきた、私を」
お父様に頬を打たれても、あの人に笑われても、弟に慰められても、一滴も出なかった涙が……
「皆、笑っているのです……! 地味なお着物を、白いおリボンを、世間知らずで無知な私を……!」
直之様のお姿を、お声を聴いた途端に、胸に堪えて来たものが止め処なく醜く、涙と共に吐き出されていく。
「お母様のお着物を、あのように、あのように……!」
橋の欄干に置いた手が滑り、ゆらりと体が傾いた。
「蓉子さん!」
崩れ落ちそうになる私を抱きとめた彼は、膝を着いて私を腕の中に収めた。
「う……うう、うっう、うう」
雨の音も、川の音も聴こえない。何も聴きたくない。受け入れたくない。
「俺には、あなたが必要だ」
ただ、頬を伝う涙と私を抱き締める手が温かかった。
「あなたが必要なんです。蓉子さん」
彼は強くなる雨から守る様に、止まない激しい嗚咽ごと私を……包んでいた。
ここはどこだろう、と顔を上げると直之様の腕に抱かれながら、どこか狭い場所にいた。
目の前にあるのは電話。そういえば、橋に来る手前に自働電話のある白い六角形の建物があった。私と直之様の二人が入れば、それでいっぱいになってしまうくらいの。
ぼんやりとした頭で彼の電話口に語りかけている言葉を聴く。私の無事を知らせる為に、ここへ?
電話を終えた彼が、上着の内ポケットから取り出したハンケチで私の顔を拭った。
「とにかく、どこかへ入りましょう。そのままでは風邪を引いてしまう」
見上げると、直之様の髪も濡れて雫が滴っていた。形の良い輪郭から顎にまで流れ落ちている。
「あなたのお母様のお墓がある寺に行けばよいのですが、生憎法事の真っ最中でした。そこにいた小坊主にあなたの進んだ方角を教えて貰い、ここに辿り着いたのですが……しかしそこに戻るにしても結構な距離がある」
外を見渡した直之様は、どこか遠くに視線を定め、暫くそちらを見据えてから言った。
「本意ではないが、仕方がない。これ以上あなたを冷えさせる訳にもいきません。行きましょう」
直之様は傘を広げ、足取りの覚束ない私の肩を抱いて、雨の中を歩き始めた。
「いらっしゃい。おやまぁ、あんた方、ずぶ濡れじゃないか」
「申し訳ないがすぐに部屋を借りたい」
木造の建物の中に入ると、ひっつめ髪をしたふくよかな女性が私たちを出迎えて、直之様と言葉を交わした。土間特有の香りが湿気と共に強く立ち昇っている。奥に小窓があり、中庭のような場所の木々の葉が見えた。
上から下まで私のことを舐めるように見つめた女性は顔を歪め、面倒そうに言い捨てた。
「どこぞのいいお嬢さんだか何だか知らないが、そんなナリで部屋を濡らされちゃあ、こっちも迷惑なんでね」
私の横で大きく溜息を吐いた直之様は、おズボンの後ろポケットからお財布を出し、お金を女性に差し出した。
「これで文句はないだろう」
「ま、まぁ、旦那……! いいんですかい? えらい弾んでくださるんだねえ」
目を輝かせた女性は、私へも大袈裟なくらいの笑顔を向けた。
「ありったけの手拭いを持ってきてくれ。浴衣でいいから着替えと、あとは羽織を。着物を干したいのだが衣文掛けはあるか?」
「衣文掛けなら部屋に置いてあるよ。浴衣は一番綺麗なのを部屋にお持ちしますんでね、ちょいとお待ちくださいな」
いそいそと廊下の手前にある机に回り込み、その後ろの大きな棚の引き出しを開けたその人は、帳簿を出して捲り、何かを書き込んだ。籠に入った手拭いを数枚取り出して直之様に渡す。
「下足はそこに入れて。足袋も脱いで、一先ずこの手拭いで大方拭いてから上がってくださいよ。部屋は二階の角部屋。階段を上がってすぐ左にあります」
彼の後について、ぎしぎしと急な階段を上っていく。
「ここだな」
薄暗い廊下に出、すぐ左にあるお部屋の前で直之様が言った。階段を挟んで右側へ目を向けると、廊下の両側に襖が並び、そちらにもお部屋があるようだった。
六畳間のお部屋に入ると、古い……かび臭さのようなものが鼻をついた。直之様が窓を少し開けると部屋の空気が動いた。と同時に、廊下から先ほどの女性の声がした。
「手拭いと浴衣、お持ちしましたよ。温かいお茶もどうぞ」
「ああ、ありがとう。階段を濡らしてしまったな、すまない」
「あれだけ頂戴したんだから文句も言えませんよ。二、三日いて貰っても構わないくらいだよ。御用があったら呼んでくれれば……昼時だし、食べ物也なんなり買ってきますんでね。ではごゆっくり」
受け取ったものを一旦畳の上に置いた直之様は、再び窓辺へ行って障子を閉めた。ご自分の上着を脱ぎながら、無言で立ち尽くしている私の前にいらっしゃる。
「そのままでは風邪を引いてしまう。あなたが嫌がろうが何だろうが、脱がせますよ。いいですね」
「……」
返事も出来ずにいると、直之様は私に手を伸ばしてきた。
「ほら、こっちを向いて。腕を上げてください」
彼に言われるがまま、なすがままに、紐と帯を解かれ、着物を脱がされていく。しゃがんで腰紐に手をやった直之様が私を見上げた。
「襦袢も外しますよ。いいですか?」
「……」
「外します」
濡れて肌が透けている襦袢を丁寧に外していった。直接触れる空気に肌が粟立ったのがわかる。でも心は、羞恥も何も感じることがなかった。
直之様は私の濡れた体を、上半身から渇いた手拭いで手早く拭いていき、すぐに浴衣を上から掛けた。ご自分の濡れたシャツは構わず、私に浴衣を着せ、帯を締め、髪まで拭いてくださった。濡れた畳みを拭き、着物を衣文掛けに掛け、その下に手拭いを何枚か敷いている。
情けないことに私は体が動かず、ただ黙ってその一連の様子を見ているしかなかった。
「これを羽織って、ここにお坐りなさい」
羽織を私の肩に掛けると、入口から離れた窓に近い場所へ座布団を差し出し、そこへ座らせた。温かいお茶の入った湯呑を私の手のひらに置く。
「俺も着替えさせていただきます。見苦しくて申し訳ないが、我慢して下さい」
俯いていると、彼が脱いだおズボンが目に入った。ネクタイ、白いシャツ、全部ずぶ濡れになっている。……私の、為に。
ご自分の洋服を衣文掛けに掛けている直之様の後姿を見つめながら、静かに言葉を吐きだした。
「……酷いことを言って、ごめんなさい」
振り向いた直之様は、穏やかなお声で答えた。
「いや、今までよく我慢なさっていた。俺に心の内をぶつけてくださって嬉しいくらいですよ」
「……」
「そして、あれがあなたの本心ではないことくらい、わかっています」
浴衣姿の直之様は、渇いた手拭いでご自分の髪を拭きながら、窓辺へ行って障子を開けた。外の明るさが室内に入る。
「あなたの置手紙を見ました。一人で墓参りに行きたいから、俺に薗田家で待っているように伝えてくれと」
ガラス窓の外はまだ雨が降り続いていた。玄関奥の窓から見えたものと同じ木が、濃い緑の葉を茂らせている。
「文面通りに待たせていただこうとしたのですが、サワさんだけが、あなたを探しに行くと言って聞きませんでした。取り乱していた彼女を見て、昨夜何かがあったらしいことは察しました。俺が探しに行くから待つようにとサワさんに告げ、薗田家を出ました」
「……お父様、は」
「俺に気を遣ってらしたのか、わざわざ探しに行く必要はないと」
畳の上に腰を下ろした直之様は、窓に寄り掛かって外へ視線を置いた。
私は雨の音を聴き、直之様は外を眺めている。この部屋の匂いに慣れてきた頃、彼がぽつりと呟いた。
「寒くはありませんか?」
小さく頷いて返事をする。
「雨が止んだら、代わりに着られそうなものを買ってきます。まだしばらくは乾かないでしょうからね」
少しだけ気持ちが落ち着き、ようやくお部屋を見回してみる。隅にお布団が二組、畳んで置いてあった。押入れはあるようなのに何故わざわざ……?
「……ここは」
力なく呟いた私に、直之様が静かに答えた。
「待合茶屋、といいます。あなたには似つかわしくない場所に連れてきてしまい、大変申し訳ないが」
「待合、茶屋」
「男女が会合する場です。この時間では人も少ないでしょう」
「……こういう」
「ん?」
「こういう場所へは、よくいらっしゃるの」
私は、何を訊いているのだろう。
「そうですね。来たことはありますよ」
くすっと笑った直之様が言った。言葉の意味に傷つく間もなく、彼が続ける。
「尋常小学校に入った、七つの頃です。ある大人の女性に、ここと似たような待合へ連れてこられました。その女性と会ったのは学校帰りだったのか、遊びに出た場所でだったのかは、よく覚えていません」
湯呑を手にし、お茶を口に含んでいる。
「三日間、その女性と一緒でした。閉じ込められていたわけではありません。どこかの神社で祭りをしていて、縁日で蛍を買ってもらいました。俺は甘いものが食べたかったんですが、彼女が嬉しそうに蛍にしようと笑ったので、何となく言い出せなかった。その夜、待合の部屋に蛍を放しました。幻想的で美しかったのをよく覚えています。遅くまで起きていても叱られることなく、とても楽しかった。単純な俺は蛍にして良かったと思いました」
俯き加減で苦笑した直之様は、もう一口お茶を啜ると、静かな声で言った。
「四日目の朝、探しに来た俺の家の使用人に見つかり、彼女とはそこで別れました。それきり会っていません。それが……俺の本当の母親だったと知ったのは、ツネに俺の母のことを訊いた時です」
「その、お母様は」
「俺を連れ出したんですから、彼女にもそれなりの覚悟はあったんでしょう。その後、死んだと聞かされました」
「……そんな」
幼い彼とその母を思い、胸が押し潰されそうになった私の顔を見て、直之様は慌てて否定した。
「まだ続きがありますから、ご安心を。俺が西島家を離れた後、山手の家でツネが教えてくれました。母は田舎に帰り、ひっそり暮らしていると。死んだということにしなければ、どのような目に遭ったかしれませんからね。俺の家族の知らないところで父が密かに援助を続けているそうです」
「お会いにはならないの?」
「もし、そのようなことが表沙汰になれば、俺の今の地位も危ぶまれ兼ねません。西島の母が徹底的に俺を叩いて来るでしょうから、それも面倒なことですしね。ですからこの先、多分一生、会うことも無いでしょう」
お茶を飲み干した彼の湯呑を見つめる。
「私は……芸妓は卑しい身分の者だと、ばあやから教わってきました。ですが、お母様が生きていらした頃からずっと、お父様はある芸妓に夢中になっておられました。あなたに初めてお逢いした時、絵葉書のお話で嫌悪したのも、その芸妓のことが頭に浮かんだからです」
話し始めたら止まることなく、黙って聞いて下さる直之様に向けて、言葉を続けた。
「父はその人を、私が家を出て直之様の元へ行った途端に連れ込み、住まわせていたのです。今回実家に帰って初めてそれを知りました」
「……何ということを」
「その方は、私のお母様のお着物を着て、お部屋まで使っておられると言っていました。心の狭い私は……それが許せなかったのです。お母様は彼女のことで、長い間苦しんでおられたから」
庭を見つめていた母の横顔。頼りなげな肩とほっそりとした指を思い出す。
私には何も言わなかったけれど、お母様の苦しみはあの離れのお部屋で、痛いほど伝わって来たから。
「その芸妓の方と対峙し、私は生まれて初めて逆上というものを経験しました。今まで生きてきて、あのような醜い感情を持つことはなかった。そしてその方は父の後ろから、そんな私を見て笑っていました。そのことにどうしようもなく、傷ついたのです」
顔を上げると、私を見つめる直之様と目が合った。眉根を寄せ、悲しいお顔で私を見つめる直之様と。
「でも、だからといって、あなたのことを卑しいなどとは思っておりません。直之様は直之様です。芸妓の方を母に持とうと、それは変わらない。個人のお人柄に身分など関係ない。……あなたと暮らしてみて、それがわかったのです」
傍に置いてあった私の小さなバッグの中に手を入れて探った。畳んだ風呂敷に挟んであった黄色い箱は少し湿ったくらいで無事だった。
立ち上がり、座っている彼の前で膝を着く。黄色い箱をそっと開け、キャラメルの粒を取り出した。
「甘いもの、です。お母様の代わりには、到底ならないでしょうが……」
「これは」
「さっき、駅を出た時に買いました。心は死んだようになっていたのに、この黄色い箱だけは目についたんです。横浜の港で買ってくれたあなたを思い出して、手に取りました」
「……蓉子さん」
包み紙を剥し、私の顔を見つめる直之様の口の中へ入れてさしあげた。
「一緒に舐めましょう」
「え?」
言うと同時に私の腕を引き、ご自分の腕の中で私を仰向けにさせた彼は、口付けをした。半開きになった私の唇に、彼の口からキャラメルを落とされる。
「蓉子さん、ありがとう」
囁いた彼の息が私の唇にかかる。
「俺の母のことも、身分のことも、理解しようとしてくださったあなたの思いに感謝します」
「直之様」
「あなたの悲しみを分けてください。俺がその悲しみを二度と……あなたに味わわせないように、約束しますから」
キャラメルの香りを漂わせた私の口に、直之様が再び唇を合わせた。私の甘い唾液を丁寧に啜り取りながら、口の中を舐め取っていく。どこまでも優しい彼の唇と舌の動きに胸が締め付けられるほど切なくなり、再び涙が滲んだ。
窓辺に寄り掛かる直之様の腕の中で浴衣越しの体温を感じ取り、彼の呼吸に自分のそれを合わせた。硬いキャラメルが舌の上でゆっくりと融けていくように、体の奥に留まっていた悲しみの塊がじんわりと温められて消えていく。
弱くなった雨の音にじっと耳を澄ませ、しばらくそのまま……抱き合っていた。