日が落ちた頃に家を出発した。
 夜会のある東城家へ、自動車で直之様と向かう。
 いつもと違う形が気になり、何度も髪へ手をやってしまう。大人っぽい装いが落ち着かない。
 夜会巻に纏めた髪には、昨夜直之様から贈られたプラチナの髪飾り。胸元の広く開いた絹のドレスはワイン色。腰に一つ大輪の薔薇の飾りがあり、連なるひだが美しく裾を広げている。輝きを放つダイヤのネックレスは、私の肌へ吸い付くように胸に添えられていた。
「綺麗ですよ、蓉子さん。よくお似合いだ」
 彼の視線が私の体を上から下まで滑っていくと、まるで触れられたように体が火照るから困ってしまう。
「ありがとうございます。このような姿は初めてで、心許ないのですが」
「大丈夫、自信を持ってください。堂々としていればいい」
 夜会用の燕尾服に身を包んだ直之様は、私とは反対に着こなしに慣れていて、落ち着いた様子でいらっしゃる。

 車を走らせ、小高い丘を下りたり上ったりしている内に、夜会の行なわれるお邸へ到着した。ガス灯が照らし出している恐ろしく大きな門構えの前では、五人の使用人がお辞儀をして私たちが向かう先へと白い手袋を着けた手を伸ばしていた。
 運転手の河合さんが言った。
「直之様、少々混み合っているようですが、いかがいたしましょう」
「今夜は蓉子さんがいらっしゃる。時間がかかっても良いから、玄関前までつけてくれ」
「かしこまりました」
「久しぶりに規模が大きいようだな」
「さようでございますね」
 私たちの乗る自動車の前に十数台の車が列をなしていた。振り返ると、後にも車が続いている。駐車場に向かう自動車は途中で別の場所に誘導され、私たちのように玄関へ向かう自動車はそのままゆっくりと前進した。
 ガス灯と建物内部の灯りで暗がりに浮かび上がる、まるでホテルのような想像を絶する大きさの洋館に言葉を失った。
 玄関前にある石造りの場所に到着した。大きな石造りの柱が二本立ち、石段の向こうにはひらかれた分厚い玄関ドア、上部に大きなステンドグラスが何枚も貼られている。何と立派な空間だろう。車が数台入っても、降りた人々が集まっていても、全く狭さを感じない。
 直之様のご実家は日本家屋のお邸だった。こちらは対照的な洋館の大邸宅。どちらも規模が大きいけれど、今夜は集まる人の多さを前に、ただひたすら圧倒されるばかりだった。
「では後で」
「行ってらっしゃいませ」
 河合さんが深くお辞儀をした。
 差し出された直之様の燕尾服の腕に私の手を委ねて、一緒に玄関ドアへ向かう。今夜は底に高さのある靴を履いているから、転ばないように慎重に足を進めた。
 出迎えてくれた家令と思われる方が、私たちに恭しくお辞儀をした。
「いらっしゃいませ、西島様。ようこそおいでくださいました」
「お招きありがとう」
「二階の客間で皆様お待ちでございます。このままお進みくださいませ」
 玄関ホールに一歩入ると美しい音楽が流れてきた。途端に胸が高鳴る。
「いらっしゃいませ」
「お待ちしておりました」
「こちらをお進みくださいませ」
 何人もの使用人に案内されて、他の来客の方々の後をついていく。
 大きな花瓶に生けられた豪華な花々がそこかしこに飾られていた。真紅の絨毯が敷かれた幅の広い階段を直之様の手に引かれて上がる。
 徐々に近づく弦楽四重奏とピアノの音楽と人々のざわめき。
「俺がいるから大丈夫ですよ」
「ええ」
 私の緊張を見透かしたかのように、直之様が穏やかなお声を掛けて下さった。

 うっとりするような葉巻の甘い香りが煙と共に廊下まで漂ってくる。給仕係に案内され、客間の大きくひらかれた扉から中に入った。
「立食とは珍しい。流行りになりそうなものを、いち早く取り入れる東城様らしいな」
 感心する直之様の言葉を聞きながら、目の前の光景に息を呑んだ。
 日本人の男女が数十人、外国人の方も大勢いらっしゃる。皆、グラスを手にあちらこちらに集まり、楽しげに歓談していた。立ってお話している方だけではなく、脇に置いてある長椅子などに座ってお話しなさる方も多くいらした。
 葉巻の煙が豪華なシャンデリアの灯りを柔らかなものにし、御婦人方が着けていらっしゃるネックレスや耳飾り、髪飾りの宝石が夢のようにちらちらと光り輝いていた。
 直之様に連れられて、お邸の主でおられる、東城様の元へご挨拶に行く。
「ご無沙汰しております。お招きいただきまして、ありがとうございます」
「久しぶりだね、直之君。最近お会いしていないが、お父様は御元気でいらっしゃるか」
「ありがとうございます。お陰様で息災です」
 私のお父様くらいの年齢だろうか。東城様は白いものが混じった髪をきっちりと上げ、洒落た眼鏡をされた清潔感のある紳士だった。奥様はいらっしゃらないと直之様から聞いている。
「私の婚約者、薗田子爵家長女の蓉子さんです」
「薗田蓉子と申します。お招きいただきまして光栄に存じます」
 ドレスの裾をつまみ、深くお辞儀をした。
「東城頼高(とうじょうよりたか)と申します。あなたですね、直之君を独り占めしていらっしゃるという姫君は」
 ゆっくり顔を上げると、微笑んだその方は私の手を取り、甲へ口づけをした。
「そのようなことは……」
「近くの女学校へ通っている方々や、その姉君からのお噂で伺っておりますよ。直之君が夜会へ現れなくなったのは貴方がいらっしゃるからに違いないと」
「まぁ、否定はできませんが」
 苦笑した直之様に、東城様が大きなお声で笑った。
「さぞかしがっかりなさる御婦人も多いだろう。しかし花のように魅力的な方を前にしては周りが色褪せてしまうのも仕方がない。今夜はゆっくり楽しんでいきなさい。蓉子さんも」
「ありがとうございます」
 社交辞令とはいえ、そのようなやりとりは気恥ずかしくなってしまう。
 片手を上げた東城様が給仕頭をお呼びになった。
「直之君たちをネルソン氏の元へお連れして」
「かしこまりました。西島様、こちらへ」

 客間と言うには広すぎる場所の奥にいらっしゃった今夜の主賓、ネルソン氏の前に案内された。亜米利加人で大実業家の彼は、私たちにも気さくに声を掛けられた。初めて傍で聞く直之様の英語はとても流暢で、御冗談まで交えて、にこやかにお話していらっしゃる。私も簡単な英語で御挨拶をさせていただいた。
 別の方がネルソン氏の元へいらした為、直之様とその場を後にした。離れたところへ移動しようとしたけれど、十歩も進まない内に一斉にたくさんの方に取り囲まれてしまった。
 直之様が私にそっと囁く。
「蓉子さん、話したくないことは無理に言わなくていい。落ち着いたら踊りましょう」
「え、ええ」
 西洋式の社交というものは、夫婦や婚約者同士で訪れていても、常に共に行動するのではなく、それぞれお客様に御挨拶をするもの。
 そう教えられてはいたけれど、現れた人が多く動けなかった為、結局は彼と背中合わせでそれぞれ応対した。直之様は外国人の方とお話されている。私はご婦人方の質問攻めに遭い、直之様との関係や女学校のことなど、差支え無さそうな範囲でお答えした。中には同じ学校だという方もいらして驚いた。
 挨拶も落ち着いてきた頃、直之様の前にいらした女性が甲高い声で言った。
「直之様、ご無沙汰しております。今夜はお兄様までいらっしゃられるなんて、存じませんでしたわ」
「え?」
 彼が珍しく戸惑いの声を出した。
「ご一緒にこちらへいらっしゃるなど初めてなのでは?」
「いや、待ってください。兄は今どこに、」
「ほら、ちょうどこちらへいらっしゃいますわよ」
 女性が振り向いた方へ直之様と一緒に視線を送った。彼女の言う通り、混み合う人々の間を縫って彼のお兄様が現れる。
「やあ。二人とも久しぶり」
 私たちを見るお兄様……長一郎様の表情は涼しい微笑みを湛えていた。
「ご無沙汰しております」
 私も慌てて御挨拶を返す。ご実家へ呼ばれた時にお会いして以来。
「……兄さん。何故ここに?」
「そう深刻な顔をするなよ」
 挨拶もそこそこに低い声で問いかける直之様に長一郎様が苦笑した。隣にいる直之様を見上げると、以前見かけたことのある複雑な表情でお兄様を見つめている。どうされたのだろう。
「兄さん、あちらで話しましょう。蓉子さんも」
 周りの人に失礼、とご挨拶をした直之様と私は、長一郎様と一緒に賑やかさから少し離れた壁際に移動した。

 長一郎様は給仕からウィスキイを受け取り、大きな柱の陰で直之様に向き直った。
「今夜、お前がここに来るという話を松永様から聞いてね」
「松永様……? まさか父上の所へ、いらしたのか?」
 先日、直之様のお家でお迎えしたお客様のお名前だった。
「ああ、わざわざいらっしゃったよ。あれだけ儲けておきながら、まだ足りぬらしい。次の造船の援助の件でな。お前の土産話を持って」
「……余計な事を。それで父上は?」
 声を落とした直之様に、長一郎様も合わせてお答えになった。
「相槌だけは打っていたようだが、乗り気ではない。大きな声では言えないが、父上は大戦が終結すれば海運業、とりわけ造船は一気に落ち込むとみていらっしゃる。そこは俺も異論はない」
「造船業だけでは済まないでしょうね。貿易関係もどうなるか」
「いや、そこまでの影響はないだろうよ。大恐慌など起きない限りはね」
 ウィスキイをごくりと飲んだお兄様に、直之様が問いかけた。
「それで俺に何の御用が? わざわざこちらまでいらっしゃるなど滅多にないことではないですか。志津子さんもご一緒に?」
「いや、子どもが熱を出したんで、あれは家に残したよ。独りでは、なかなかこういう場に出ることも少ないからな。お前のところにいらっしゃるお姫様のお顔を拝みに来るというのもいいかと思ってね」
「どういう意味ですか」
「別に深い意味はないさ。お互いに楽しもう、と言っているんだ」
 含み笑いをした長一郎様はご自分のウィスキイのグラスを、私の持つほとんど手を付けていない食前酒のグラスに当て、かちんと鳴らした。
「兄さん、この後はどうされるおつもりですか」
「お前の所には行かないから心配するな。伊勢佐木の寿々乃(すずの)の所に寄る。ここでお相手を探すというのも楽しそうではあるが、まぁ……その時の相手次第だな」
「……まだ続いていたとは。寧ろ、そちらが目的というわけですか」
「お前は真面目だな」
 長一郎さまが、くっと喉を鳴らした。
「互いに割り切った関係だよ。俺だってたまには息抜きしたいさ。あの家に始終閉じ込められてみろ、普通は頭がおかしくなるだろう」
「兄さん」
「おっと失礼。婚約者殿の前でするような話ではなかったな。お気になさらず、蓉子さん」
 明るく笑い掛けて来た長一郎様に、小さく頷いて微笑みを返した。
 流れていた曲調が変わった。会場にざわめきが起こり、広い空間に集まる人と壁際で談笑を続ける人とに分かれていくのが見えた。
「ダンスが始まるようだ。踊ってきたまえよ、お二人さん」
 お兄様はそう言い残すと、どなたかの方へ行ってしまわれた。

 ここへ来た時の高揚感はすっかり失われ、小さな鉛でも呑み込んだかのような心持ちになってしまった。大きく溜息を吐いた直之様が私を振り向いた。少し疲れたような翳りが見え隠れした表情に、何故だか手を伸ばしたくなる。
「踊りましょうか」
「……ええ」
 優しく言った直之様に手を取られ、皆様が集まっている場所へ導かれた。
 ワルツの音楽が始まった。
 ダンスが得意ではないなどという直之様のお言葉は謙遜だとすぐに感じられた。
 優雅さと冷静さを兼ね備えた彼のリードは素晴らしく、まるで私までもがダンスの上級者なのではと錯覚させてしまうほど。甘やかなダンスを踊っていると、彼のお兄様とお話して沈んだ気持ちは少しずつ消えていった。
 彼の温もりや息遣いが心も体も軽くしてくれる。冷えた心を熱くさせる。
 強く触れられる度に、私は全身でこの方に恋をしているのだと、今更ながらに思い知らされた。ああ、こんな調子では私の昂る気持ちが周りの方にまで伝わってしまうのではないかしら。
「蓉子さん」
 背と首筋を逸らした私を支えながら、彼がすぐ傍で囁いた。口付けされてしまうのではと思うほどに近く、心臓が大きく跳ね上がる。けれど、その唇から零れた言葉は意外なものだった。
「あまり、兄には近寄らないようにしてください」
「え?」
 直之様はそこで口を噤んでしまった。
 先ほどお会いした彼のお兄様。初対面の印象とは随分違っていたけれど、こちらが本当のお兄様なのだろう。女中に妾をお持ちだとは聞いていた。他の場所にも女性がいらっしゃるのだというご様子が私の父と重なる。
 ダンスをされている他の方々とぶつからないように、ひらりひらりとターンを繰り返しながら一周した時、ようやく直之様が続きを言葉にした。
「なるべく兄をあなたに会わせたくはない、というのが本音です」
「……何故ですか?」
「何故でも。いいですね?」
 強い眼差しと私の手を握る力に、ただ、こくりと頷いて、彼のリードを受け続けるしかなかった。

 曲が終わり、ダンスの順番を待っていた御婦人方が数人、私たちの前にやってきた。
「私も直之様にぜひ、お相手していただきたいわ」
「婚約者様がおられてもダンスくらいは宜しいでしょう?」
「またいつ来られるともわかりませんわよね? それでしたら私も」
「いや、しかし今夜は」
 女性に囲まれて困ったようなお顔をされる直之様が、何だか可愛らしく思えた。私の為に遠慮をしているのだろう。そのお気持ちだけで十分嬉しい。
「直之様、どうぞ皆さんと踊りあそばして。私は飲み物をいただいておりますので」
「蓉子さん」
「お久しぶりなのでしょう? 楽しんでいらしてください」
 焦ったようなお顔をされた直之様に笑顔で返す。
「蓉子さん、すぐあなたの元へ戻りますから。待っていて下さい」
「ええ、お待ちしております」

 直之様の元から離れて歩き出すと、途端に何人かの方に話しかけられた。お返事をして歩き出すとまた呼び止められて、その繰り返し。少しずつ人の間を縫って、ようやく、いくつかある内の一つのテラスへ出ることが出来た。ダンスや歓談で盛り上がっているせいか、ここには誰もいない。手摺りに掴まり、遠い夜空の星を見つめて溜息を吐いた。
 自分の生きてきた世界の狭さを、再び思い知らされた夜だった。
 華族という名のもとに庇護されている私たちとは違い、自分の実力で今の地位を築いた人たちの集まり。それを卑しいなどと誰が言えるだろう。男性はもちろんのこと、御婦人も皆、積極的で自分をしっかり持っていらっしゃる印象だった。
「……飲み物を忘れてしまったわ」
「このような夜会は苦手ですか?」
 独りごちたところに声を掛けられ、驚いて振り向くと、そこにいたのは直之様のお兄様だった。
「長一郎様」
 緊張が走った。
 直之様とのダンスで拭われた不安が再び私の胸に甦る。長一郎様は給仕からグラスを二つ受け取った。
「どうぞ、よかったら」
 細いグラスに入ったシャンペンを長一郎様が笑顔で差し出される。お酒は苦手だから食前酒もほとんど飲んでいなかったのだけれど、お断りするのは失礼にあたるだろう。
「ありがとうございます」
 受け取ったグラスを、長一郎様のグラスと合わせて乾杯した。
 手摺りにもたれ掛った長一郎様が私に微笑んだ。そのお顔は、ご実家でお会いしたお母様に似ていていらっしゃる。直之様とは違うけれど、この方もまた、整ったお顔立ちをしていた。
「華族の方ならば、こういう場所はお得意でしょうに」
 小さなテーブルにグラスを置いた長一郎様は、紙巻の煙草に火を点けた。
「他の方は存じませんが、私はそうではありません。父に連れられて数回ほどしか経験がございませんので」
 踊っている最中に直之様に囁かれたことが頭を過ぎる。近寄るなと言われたばかりなのに、長一郎様と二人きりになってしまった。せめてどなたか他の方がここにいらっしゃれば……
「ご自宅で夜会をひらかれることもあったでしょう」
「記憶にはございません。軽いお食事にお招きした程度で」
 今思えば、本当に随分と前から薗田家は困窮していたのだろう。何も知らされていなかったとはいえ、長女として気付かなかったことを今更ながら情けなく思う。
「別荘では、そのようなことが何度かあったようですけれど」
「ほう。別荘ですか」
「葉山に別荘がありました。とうに手放しておりますが」
「……葉山?」
「ええ」
 眉根を寄せたお兄様は煙草をお吸いになり、ゆっくりと煙を吐き出してから呟いた。
「葉山の別荘、か」
「?」
「蓉子さん……もしやあなたは、」
「兄さん、困るな」
 聞き覚えのある声に驚いて動きが止まる。

「弟の婚約者にまで言い寄られるとは、いただけませんね」
 振り向くと、テラスの入口で冷笑を浮かべた直之様が、こちらを見ていた。