テラスへ下りた直之様は長一郎様から視線を外さず、こちらへ近寄って来た。
私の顔は見てくださらない。
会場に流れる音楽が、ワルツから楽しげなカドリーユへ変わる。
「蒸し暑かったんでね。外へ煙草を吸いに来ただけだよ。そしたら蓉子さんがここにいた。それだけだ」
新しい煙草に火を点けた長一郎様が、続けて直之様に言った。
「それにしても、お前がそのように焦った顔を見せるのは初めてじゃないか?」
笑う長一郎様に、直之様が真面目なお顔で答える。
「……からかわないでください」
「しかし、そこまで俺が節操のない男だと思われるのは心外だな」
「言いたくはありませんが……人妻だろうが、人の婚約者だろうが、お構いなしの遍歴をお持ちなんですから、弟に疑われても仕方がないでしょう」
大きく溜息を吐いた直之様は私の隣に立ち、ドレスの腰にそっと手を回した。彼の温もりに緊張が少しだけ和らぐ。
「ふん。だったら一時も目を離さずに、四六時中傍に置いて鎖にでも繋いでおくんだな」
「この後はそうするつもりです。蓉子さん、行きましょう」
腰に回された手に力を込められ、向きを変えさせられながらも、長一郎様へ小さく会釈した。
「失礼いたします」
「また今度、ゆっくり続きをお話ししましょう、蓉子さん」
グラスを掲げた長一郎様が笑みを浮かべると、直之様は私の手からグラスを奪い、その場でシャンペンを飲み干した。
「今度など、ありませんよ」
グラスを傍のテーブルに置き、低い声で言った直之様の横顔を見上げる。それはずっと前、ご実家へ伺った時に車の中で見た、あの複雑な表情と同じものだった。
会場に戻り、人の間をくぐりぬけて、横長のテーブルに大皿料理が盛ってある場に辿り着いた。
あまり馴染みの無い西洋のお料理がたくさん並んでいる。お肉料理にお魚料理、色の綺麗な野菜のお料理。どれも美味しそうだけれど、直之様と長一郎様のやりとりを見たばかりの私は、あまり食欲が湧かなかった。
「取ってさしあげますよ。何が宜しいですか」
直之様が私の分のお皿を手にして尋ねた。
「では水菓子を」
お皿に葡萄と梨を載せてもらい、フォークに刺して口へ入れた。甘い瑞々しさと果実の良い香りがが口いっぱいに広がる。
壁際の空いていた椅子に私を座らせた直之様は、給仕からウィスキイを受け取り、呟いた。
「近寄るなと言ったはずですが」
彼の持つグラスの氷がカランと鳴る。
「申し訳ありません」
「いや、あなたが謝ることはないな。兄の言う通り、俺が目を離したからいけない」
白いナプキンを手にした直之様は、私の口の端に着いた果実の汁をそっと拭った。子ども扱いされたような気がして恥ずかしかったけれど、にこりともされない彼の様子に、ただ黙って従った。
「蓉子さん」
「はい」
「帰ったら少し話があります。あなたのお部屋にお邪魔しても宜しいですか」
「……ええ」
有無を言わさない物言いに肩を縮ませながら、つるりとした葡萄の粒を飲み込んだ。
夜遅くに帰宅して、約束通り二人でそのまま私の部屋に入った。電灯を点け、少しだけ窓をひらいて夜の空気を入れる。
入口の扉を背にして腕組みをした彼が私に訊ねた。
「俺がテラスへ行く前に、兄と何を話しました?」
「夜会に慣れていないのかと訊かれたので、そうだと答えました。実家で夜会をひらいた記憶もありませんでしたので、それもお話しました」
「それ以外は?」
「葉山の別荘でなら夜会をしたことがあるとお話したら、長一郎様が何かを言いかけたのですけれど、そこに直之様がいらっしゃいました」
何度か小さく頷いた直之様は、鏡台の横にある本棚まで歩き、本に手を伸ばした。
「あなたも兄も、お忘れのようですが」
あの異国の本を手に取り、私の方を振り向いた。
「大切にされているとおっしゃったこの本を、あなたに渡したのは……俺の兄です」
「え?」
突然の告白に動機が激しくなる。
葉山でいただいたあの本を、私に差し出したのが直之様のお兄様……? 先ほどお会いした長一郎様だというの? そのようなことが有り得るのだろうか。混乱した思考のままに彼へ問いかける。
「それは、本当なのでしょうか」
声が震えてしまう。
「本当ですよ。俺もその現場にいました。もう、八年ほど前でしょうか……。あなたがまだこの本を持っていらしたのは驚きでしたが」
うなじに落ちた数本の髪が、窓から入り込んだ夜風に揺れた。
私が別荘で本を渡されたあの時、傍に直之様がいらしたなどという記憶は全くない。それともただ、気付かなかっただけ……?
言われてみれば何となく、長一郎様の面影が思い出に残っているような気もする。想像していたお歳も近いような。
「あの頃、俺の父は権力者と繋がりを持ちたがり、様々な会合に顔を出していました。その内、華族の方がひらかれた夜会や晩餐会にも招かれるようになりましてね。滅多なことでは断りを入れようとはしませんでした。自分がどうしても行けない場所へは兄と俺へ代わりを務めさせ、同時刻に父は別の会へ行くようなこともあった。そのようなことで、葉山へは俺と兄で伺いました」
「では、直之様のお父様も私をご存知でしたの?」
「本来ならば知っていたのでしょうが、あまりに多くの場所へ行ったせいで、薗田家のことも忘れていました。第一、父自身は一度も葉山へは行っておりませんしね。あなたのお父上も俺のことはお忘れでした。八年も前のことでは、俺も兄も顔や体格が変わっているでしょうから、それは致し方ありませんが」
知りたいことがたくさんあるのに考えが纏まらず、何から訊いたらよいのか、わからなくなってしまった。
本をくださったのは……幼い私の前に現れたのは、直之様ではなかった。
私の心を支えてくれた本の持ち主が直之様だったら、どんなに素敵なことだろうと夢想していた自分が滑稽に思える。
「初恋の君の正体がわかって、嬉しいですか?」
私の顔を見つめていた直之様が苦笑した。
「そのような……初恋などというものでは、ありません」
本を大切にしていたけれど、くださった方の面影を追い求めていたわけではない。
「あなたはお辛い時や悲しい時、この本を手にするたび……兄のことを思い出していたのでしょう。違いますか?」
「お顔もお名前も、覚えてはいません」
初恋を知ったのは、つい最近のことなのだから。
「顔を覚えてはいなくとも、頁を捲る度に、その人物を思い出していた筈です」
初めて聞く、直之様の苛々とした口調が胸に刺さった。傍にある鏡台に本を置いた直之様は、私の顎に手を置き上を向かせた。こちらを見る強い眼差しに視線が囚われる。
「いいんですよ。兄をどう思おうが、それはあなたの自由であって、俺があなたを縛ることではない。ですが、あなたは俺の婚約者だ。その濡れた眼差しも、お可愛らしい唇も、白い肌も、柔らかい体も全て、俺のものになる。それだけは、お忘れにならないように」
小さく溜息を吐いた直之様は、私の両頬にそっと両手を置いた。
目の前にある彼の表情は悲しげで、私の心まで苦しくさせるものだった。思わず、好きという感情を唇から零したくなってしまうほどに。
「蓉子さん、俺は」
切ないお声に胸が締め付けられる。
「兄に対してずっと嫉妬していました。夜会で兄に近寄るなと言ったのは、女性関係の派手な兄からあなたを守る為でもありましたが、この本を渡した人物が兄だと、俺の知らないところであなたに思い出して欲しくはなかった。それが本音です」
「直之様……」
「幼いあなたを慰めていたのが兄だったのかと思うと……どうしてもやりきれない。だから黙っていた。そんな情けない男なんですよ、俺は」
眉根を寄せた彼は私の頬から手を放し、静かに背を向けた。
「疲れたでしょう。明後日は、あなたもご実家へ帰られる日だ。今夜はゆっくりおやすみなさい。では」
ドアへ向かって歩き出そうとする彼の黒い燕尾服の袖を、小さく摘まんで引き留めた。
「蓉子さん?」
まだ、傍にいたい。
黙っていたことを情けないなどとは、思わない。
彼の思いを知ることが出来たのだから、それは私にとって喜びでもあるのに。
「今夜は……続きを教えては下さらない、の?」
私の言葉に彼の動きが止まった。暫くの沈黙の後、袖を掴む手を上からそっと握られた。
「今そのようなことをしたら、あなたを壊しかねないくらいに今夜の俺には余裕がありません。あなたも本のことで頭が一杯でしょうから……今夜は失礼します」
振り向き、かがんで私の額に軽く口付けをした直之様は、それいじょう何も言わずに部屋を出て行った。
+
実家へ出発の朝、先にお仕事へ行かれる直之様を、玄関で見送る。
帽子を被った直之様が私に言った。
「のちほど、河合とミツコであなたを家まで送らせます。必要になりそうなものはミツコに渡していますので、家令の方にお伝えください」
「わかりました」
やはりまだ、ほとんど視線が合わない。
昨日は一日、お仕事の忙しかった直之様と顔を合わせることがなかった。今朝の朝食はご一緒したけれど、何となく気まずくてお互い黙っていた。
でも、どうしても実家に帰る前に伝えたいから。
直之様に背を向け、ツネさんたちの方を向く。
「皆様すみません。少しだけお部屋に下がっていてくださいますか?」
「蓉子様。どうされたのですか」
「直之様に、お話があるのです」
ツネさんの質問に姿勢を正して答えた。
「……かしこまりました」
一瞬だけ眉を潜めたツネさんは頷いて、ミツコさんと一緒にどこかのお部屋に行かれた。河合さんも玄関ドアから外に出て、車の前で待機しますと言って下さった。
再び直之様へ向き直り、ひとつ深く息を吸い込む。
「どうされたんです? あなたがこんな珍しいことを」
戸惑う彼の瞳に向けて、言葉を発した。
「私、実家からこちらに戻ったら、あなたにお話があるのです」
「……話ですか」
直之様は顔を歪め、私から視線を逸らした。
「俺との婚約の解消を望まれる話、とか」
「いえ。私の恋の自覚のお話です」
顔を上げた直之様が目を丸くして私を見つめる。
うやむやのままではいられない。本をくださったのが彼のお兄様だとしても、私を今こうして大切にしてくださっているのは直之様なのだから。
落ち着いて話すつもりだったのに、言葉にした途端顔が熱くなった。顔どころか首まで赤くなっているはず。
「直之様に、きちんと告白させていただきとうございますので……あの、私が帰るのをお待ちいただけますか」
言葉の途中で、鞄を床に落とした直之様が私を抱き締めた。その大きな両手で、苦しいくらいに強くきつく。いつもの彼の香りに包まれて、体が喜びに震える。
「あなたに余計な事を言い過ぎたのではと、このままあなたが離れてしまったらと、気が気ではなかった」
「直之様……」
「その告白というものを今すぐ聞かせていただきたいが、明日の朝まで我慢します」
耳元で囁かれた声に胸が熱くなる。
体を離した彼は、すぐ傍で私に微笑んだ。
「あなたを送った後、河合は盆休みに入りますので、明日の朝は俺が直接迎えに行きます。そのまま一緒にあなたのお母様のお墓参りへ行きましょう」
「はい。ありがとうございます」
「では」
私の頬に口付けをした直之様は、玄関ドアを開けて家を出た。