「お姫さんは、どんな花がお好きで?」
「こちらに来た時に咲いていた白い薔薇がとても好きです。紫陽花や山吹も」
 なるほど、と頷きながら、庭師の友三がお庭で低木の剪定を続けている。来年に向けて、私が楽しめる専用の花壇を拵えようと言ってくれた。

 夏の朝日が花々を照らす。
 木陰を作る木々にとまっていた蝉が、一斉にじわじわと鳴き始めた。
「じゃああれだな。五月と六月に楽しめるような花壇を作るか」
「嬉しい」
 場所を移動した彼は、空を見上げる黄色い花に鋏を入れた。
「ほれ、今日はこれです。飾り易いのを切りましたよ」
 小振りに咲いた向日葵の束を差し出され、慌ててそれを受け取った。葉も茎も水分をたくさん蓄えているのか、夏の花はずっしりと重く感じる。
「明るい色で、ホールが夏らしくなりそうですね」
「あとは、この青いの。お姫さんの部屋は東南で今の時期は暑いだろうから、飾れば涼しげになるだろうよ」
「素敵なお気遣い、ありがとうございます」
「だからそう畏まらないでくださいよ。俺はそういう柄じゃないってのに」
 照れくさそうに麦わら帽子を被り直した友三が続けて言った。
「早くお邸に入んなさい。その白い肌が焼けでもしたら、俺が直之様に叱られちまう」
「はい。ではまた明日の朝」
「あんまりここへ来ると、ツネさんにどやされますぜ」
「そんなことないわ。それに私、朝のお庭が大好きだから、もし叱られたとしても……また来ます」
 笑顔で返し、お辞儀をしてから、お庭をお邸へ歩き始めた。
 暑い日は着物より洋装の方が快適なことを知り、ついワンピイスばかり着てしまう。お花を抱えている時は裾をひらひらとさせ、大股で歩くことにも慣れてしまった。

 門の傍で磯五郎が水を撒いている。水滴が日にきらきらと反射して眩しい。
「おはようございます蓉子様。朝からお暑いですねえ」
 バケツの残りの水を一気に撒いた磯五郎が笑顔で私に近寄って来た。夏に入り、ますます陽に焼けた彼の身体は健康そのものだった。
「本当ね。お水撒き、ご苦労様」
「いえいえ。今日は向日葵を飾るんですか。俺が持っていきますよ」
「大丈夫。最近力持ちなのよ、私」
 口をぽかんと開けた磯五郎は、次の瞬間楽しそうに笑った。
「そりゃあ頼もしいや。直之様の為に頑張っていらっしゃるんですなぁ」
「え、ええ、まぁ」
 彼の名前が出ただけで顔が熱くなる。日差しのせいにしてしまえば、誰にもわからないかしら。
「よーし、俺も頑張らないとな! とと、うわ!」
 腕を大きく上げて、くるりと振り返った磯五郎は、置いてあったもう一つのバケツをひっくり返した。
「あ、あーあー、全部零れちまった」
「いやだ、磯五郎ってドジね」
「ひどいや姫様」
 眉を下げた磯五郎と顔を見合わせて、声を上げて笑った。

 お邸の裏口から入り、ツネさんにお花を渡す。
「ありがとうございます、蓉子様。しかし、蓉子様が直接お花を受け取りにいらっしゃることを、直之様に良く思われませんので」
 ツネさんが眉をしかめて向日葵を受け取った。
「わかっていてよ。でも、夏の朝の空気は涼しくて大好きなの。直之様には私からお話しますから」
「では……そのように蓉子様からお伝えいただければ、と思います」
「ええ。だからツネさんは気にされないようにね」
「かしこまりました」
 向日葵の束を台の上に置いたツネさんは、引き出しから鋏を用意した。ぱちん、ぱちんと余分な葉を落としている。
「私も生けてよろしい?」
「ええ、もちろんでございます」
「では食堂の分を生けますね。あ、この青いお花は私のお部屋にと貰いました。お部屋が東南で暑いだろうから、これで涼しげになると」
「あら、さようでございますか。友三も随分気の利いたことを」
「お気遣いありがとうございます、とお返事をしたら叱られました。……柄じゃないんですって」
「ま! おほほ……!」
 ツネさんが吹きだして笑うから、私まで楽しくなって笑ってしまった。

「行ってらっしゃいませ」
「行ってくるよ」
 笑顔の直之様は、お見送りの皆さんに視線を送った後、必ず最後に私の顔を見る。とても優しい表情で、じっと見つめるから、時に困ってしまう。
「蓉子さん」
「はい」
「今日の帰りは少し遅くなるが、渡したいものがあるので、俺が帰ったら書斎にいらしてください」
「わかりました」
 渡したいもの? 明日は夜会に御呼ばれしている日だから、それに関するものだろうか。
 直之様がお出かけになってすぐに、私は応接間に入った。壁際に置いてあるピアノの前に座って楽譜をめくる。鍵盤に指を載せ、曲を奏でた。
 薗田の家にいる時、私はいくつかの習い事をしていた。お茶にお花、お琴に日本舞踊、そしてピアノ。友人たちも同じような感じで、一通りは何でも出来る。でも、お嫁に行くことが私たちの最終的な道であるから、結局はある程度のところで辞めさせられてしまう。私にとってピアノはそんな存在だった。
 弾けるのならいつ弾いても良い、と直之様が勧めてくださった。最初は遠慮していたけれど弾き始めてみれば楽しくて、最近の朝の日課にまでなっている。
 ゆったりとした曲調に載せて、私はこの家に来てからの自分を振り返っていた。
 新しい女学校へ通い友人ができた。前の学校では出来ない体験をたくさんした。こうして使用人の皆と触れ合い仕事を学び、キャサリン先生からは語学とお菓子作りを習い……直之様にはもっともっとたくさんのことを教えていただいた。
 毎日が忙しすぎて、悲しみに暮れていた日々を思い出すことは少なくなっていた。女学校の皆さん、この洋館にいらっしゃる人々と過ごして……いつも笑っている自分に気付く。
 お母様。
 私は、華族ではない方が婚約者候補なのだと、最期まであなたに伝えることが出来ませんでした。でも今なら言える。薗田家の為に平民の方と婚約を決心したことは間違いではなかった。いえ、相手が直之様だったから、そう言えるのでしょう。そして、これでお母様の誇りを少しでも守れることのお手伝いが出来たのではと……蓉子はそう、自負しているのです。

「蓉子様、こちらは後でお縫いになる場所ですわね」
「あらいやだ、すみません」
「大丈夫でございますよ。ではここから、お戻りになって」
 ミツコさんが優しく指導してくれる。
 夏休みでお時間があるのだからと、直之様の浴衣を縫うことを勧められ、お昼食の後からミツコさんに作り方を教わっていた。
 二階のテラス手前にあるお部屋。ここは風通しが良く、傍にある木々が良い日陰を作ってくれ、作業をするのにちょうど良い場所。
「前の女学校にいる時からお裁縫は少し、というかその……とても苦手で。その時も女中に手伝ってもらっていたの」
 サワが喜んで手伝ってくれたから、宿題などもつい甘えていた。
「誰にでも苦手はあるものですよ。お気になさらず」
 手を動かしながら、ミツコさんがふふと笑う。
「でも、正直ほっとしましたわ。何でも完璧でいらしたら、私たちも息が詰まりますもの」
「そういうものかしら?」
「蓉子様がいらっしゃる直前、私たち使用人はどんな方がいらっしゃるのだろうと、全員相当に緊張しておりました。失礼なことがあってはいけない、ご機嫌を損ねることがあってはならない、何をどうお教えしたら良いのかと、ツネさんと私と河合さんとで、何日も話し合いました」
「まぁ、そのようなことを……」
 知らない頃の皆さんが、私のことをそこまで考えていてくださったことに胸が熱くなる。
「蓉子様がいらして数日後、そのような心配は無用だったとツネさんが言いました」
「ツネさんが?」
「ええ。高貴な事を鼻に掛けたりなどされず、それどころか、ご自分からどのようにしたら良いかを伺ってこられるのだと、大変感心していました。あなた様が気軽に使用人に声を掛けて、自ら動いている様に皆驚いています。直之様のご実家では、そのような方はいらっしゃらなかったのです。直之様以外には」
「直之様が?」
「さようです。直之様は蓉子様のように、使用人にとても気を遣って下さいます。ですからね、私たちは安心して働けるのですよ。そうして直之様の為にと、日々頑張れるのでございます。これからは蓉子様の為にも頑張らせていただきとうございます」
「ありがとう」
 確かに彼は誰にでも声を掛けている。お礼を言ったり、謝っていらっしゃる場面を見ることもあった。
「でも……お裁縫は蓉子様ご自身に頑張っていただかないと、いけませんわね。意地悪で言っているのではございませんよ?」
 ミツコさんは、わざとからかうように私の顔を覗き込んできた。悪戯っぽい笑顔を受けて、私も笑顔で言い返す。
「あら、とっても意地悪だわ。学校の先生みたい」
「それは、ごめんあそばせ」
 澄ました顔でお返事したミツコさんは、すぐに吹きだして笑った。私も堪え切れずに一緒になって笑い。こうして毎日少しずつ、皆さんと距離が近くなっていくことがとても嬉しい。


 九時過ぎに帰宅された直之様の書斎に、お約束通り伺った。
 大きな机の前に座っている直之様が私に言った。
「明日、先日お話していた夜会があります。ドレスは届いていますね?」
「ええ。先月、ワンピイスと同じに」
「そうですか。では、あとはこれを」
 机の上にあった平たい箱を開けて、彼の前に立っている私の前に差し出した。
「まぁ……!」
 煌びやかなダイヤのネックレスと、お揃いのダイヤの付いたプラチナの髪飾りが入っていた。
「俺が見繕って来たものなので、あなたの好みに合うかはわかりませんが」
「このように高価な物、身に着けられません」
「いいから気軽に着けなさい。あなたは華族でいらっしゃるのだから、もっと高価な物を着けられてもおかしくはない立場なのですよ。堂々となさればいい」
 その輝きに目を奪われてしまう。暫く黙って見つめていると、名前を呼ばれた。
「蓉子さん」
「……はい」
 こちらを見ていた直之様と、すぐ傍で視線を合わせた。
 途端に先日の夜のことが思い出される。囁かれる甘い言葉、耳にかかる吐息、絡み合う舌と私を溶かした、その指。汗と水音。窓を閉めた密室での、秘めごと。
 直之様は私を見つめたまま、なかなか口をひらかれない。
 何故黙っていらっしゃるの? 同じことを思い出していらっしゃるの? ふしだらな思いに耽っているのは私だけ?
 開いている窓から夜風が入り、カーテンを揺らした。
「それは」
「え?」
「そのネックレスは、ご自分の部屋に持って行ってください。明日の準備の時にツネに着け方を教わるといい。夕方、俺は早めに仕事を切り上げて帰りますので」
「……」
 抱き締めて欲しいと思った。
 そのようなお話ではなく、愛を囁いて欲しい、と。
「蓉子さん?」
「あ、いえ。何でもございません。ありがとうございます。明日着けさせていただきます。では失礼します」
「ああ」

 渡された宝飾品を持って、お部屋に戻り、本棚から友人に貰った恋愛小説を取り出した。ここに書かれていた意味を、今まで私は半分も理解していなかった。あの夜を経験して、知ってしまった。
 今度は、私の番。
 恋を自覚し、本当の恋の意味を知った私が、彼に思いを告白する。楽しみにしているとおっしゃった直之様に、今度は私が。