お部屋に入った直之様は私をベッドへ座らせ、落とした片方の靴を履かせた。
「ちょっと借りますよ」
彼は部屋の隅に置いてある、鏡台とは別の化粧台の前に歩いて行った。水差しに入った綺麗なお水を陶器の洗面器に入れ、白いワイシャツの袖をまくり、手を洗った。
ハンケチで手を拭いた直之様は、私の隣へ静かに腰を下ろした。
「最近あなたは俺を避けていらっしゃる。どうしたというのです」
私の肩を抱いて顔を覗き込んだ直之様から目を逸らす。
「離してください」
「理由を聞くまでは嫌ですよ」
穏やかだけれど拒絶を許さないお声に観念し、俯いたまま小さく口をひらいた。
「私……」
今もまだ、胸が苦しい。どきどきというよりも、ずきずきと心臓が痛んでいる。
「私は、病気かもしれないのです」
涙が一気に溢れ出し、ぱたぱたとワンピイスの上に零れ落ちた。
「何ですって? どこがお悪いのです!?」
肩に置かれた彼の手に強い力がこめられる。涙を拭いながら、ただ首を横に振った。
「ツネやミツコには話されましたか?」
「……いえ」
このようなこと誰にも相談できない。
「どのような症状なのか教えてください。場合によっては早く医者に見せないと」
「……」
「蓉子さん」
真剣な彼のお声に、再び口をひらいた。
「直之様の……お姿を見るだけで胸が痛く、とても息苦しいのです。あなたのお声を聴くと涙が出そうになるので、なるべくお顔を合わせないようにした方がいいのではと」
肩に触れる彼の手の温もりがワンピイス越しに伝わっている。頬を伝う涙を拭いながら話を続けた。
「生前のお母様が悲しそうにされている時も胸が痛く、重苦しくなりました。でも、それとは明らかに違うのです。何かそわそわして、直之様が帰宅された物音がするだけで、胸がぎゅうと痛くなるのです。それに、おしもが……」
しゃくりあげそうになるのを何とか堪えた。
「大丈夫ですよ。聞いていますから、ゆっくりで」
「お恥ずかしいの、ですが……直之様と接吻した後、決まって粗相をしたように、濡れているのです」
こんなことを口にして、情けなさと怖さと恥ずかしさで顔が熱くなり、涙も相まって、どうにかなりそうだった。
「粗相でも、お月のものでもないようなのですが、腿の辺りまで垂れてきて、何か分からなくて悩んでおりました」
「そのような時は、どうされた?」
「ハンケチで……拭いました」
思い出して、また涙が零れた。拭ったハンケチは隠れて洗い、夜の内に乾かして誰にもわからないようにしていた。
「命に関わるような事ではありませんよ。今はどうです?」
「わかりません。でも、直之様がお傍にいらっしゃるから、何となくそのような状態の気もいたします」
「では……確かめてみましょう」
「え、あの」
断る間もなく、ワンピイスの裾から手を入れられた。彼は驚いた顔で私を見ている。
「これは……ワンピイスでいられるのに、下着を着けていらっしゃらなかったのか」
「申し訳ありません。せっかく洋装用の下着を買っていただいたのですけれど、どうしても慣れなくて。腰巻をしたり、洋装用のスカアトのような下着は着けているのですが、体がこんなふうですから、しっかり穿く下着は汚してしまいそうで」
言い終わらない内に彼が私を両手で抱き締めた。とても強い力で閉じ込められて余計に息苦しくなってしまう。
「……直之様?」
外国の香水とシャツ越しの彼の香りが混ざった匂いに、心地良い眩暈が起きた。
「今の俺の気持ちを、どうやってあなたに知っていただければよいのか……。狂おしいほど愛しい思いなどというものを、初めて知りました」
溜息を漏らした直之様は、抱き締めていた手を私の両肩へ置いた。すぐ傍で彼の視線と絡み合う。また頬が紅潮し始めたのがわかった。
「蓉子さん、確かにあなたは病にかかっている」
「では、お医者様に」
「残念ながら医者には治せません」
「そんな……!」
再び涙がはらはらと零れた。
「ああ、泣かなくていい。治せる者は他にいますから」
「どちらにいらっしゃるのでしょう。療養所のようなところへ入らなくてはいけないのでしょうか」
震える両手を握りしめると、直之様の両手がその上から包み込んだ。
「いえ、ここで十分です。治せる者は、あなたの目の前にいるのですから」
その言葉を聴いて、頭にかっと血が上った。
「御冗談をおっしゃらないで……! 私は真剣なのです。真剣にずっと、悩んでおりましたのに……!」
「俺も真剣ですよ」
「……」
「真剣です」
私の顔を覗き込む、その眼差しに圧倒される。彼の瞳を見つめ返していると、突然唇を塞がれた。
「ん!」
唇の間から舌を差し込まれ、私の舌を舐め取られた。何度も顔の傾きを変える彼と舌を絡ませているうちに、またあの感覚が訪れ、咄嗟に身を縮める。気付いた直之様が顔を離して言った。
「こうしていると濡れるのでしょう?」
「……ええ」
そうなるのは怖いのに唇を離されると寂しくなる。濡れてしまう部分も、下腹や腰も、何かその辺り全部が物足りない。
「切なくなりませんか? 何かが足りないような、もっと何かを欲しいような」
「何故、そのようなことがおわかりになるの……?」
「俺も同じだからですよ」
「同じ、とは」
「あなたは俺に恋をしているんです」
すぐ傍の瞳が熱を持って私に訴えかけた。
「……恋?」
「俺があなたに恋しているようにね」
微笑んだ直之様が軽く唇を重ね、立ち上がった。
「窓を閉めましょう。少し蒸し暑いかもしれませんが、外にあなたのお声を響かせたくはない」
その言葉の意味を知ろうとするよりも前に、ひたすら混乱していた。
私がこの人に恋をしている……? そのようなこと……
夕暮れを過ぎた薄暗闇が見える窓を閉めた後、もう一度手を洗った直之様は私の隣へいらした。
「俺はあなたに初めてお逢いした時、言いました。あなたと結婚するのは俺の名誉の為だと。こちらの財産と引き替えに、華族のあなたと結婚するのだと。覚えていらっしゃいますか」
「……忘れたことなど、ありません」
「その後、あなたのことを取引しやすい相手、とまで言いましたが、何故そのようなことをお伝えしたのか、おわかりですか?」
部屋に蛍を放たれ、屈辱の言葉を受け取った夜が思い出された。
「そんなこと、わかりません」
「あなたが必ず俺と結婚するように、あのような物言いをしました。幼稚な方法ですが、それしか思い浮かばなかった。俺との結婚の条件から、あなたを逃がさないように」
私をベッドの上に押し倒した直之様は、ご自身も私を抱く形で横になった。
「……ひどい」
「すみません。しかし普通に結婚を申し込んでも、あなたは俺なんかを選ばなかったでしょう?」
無理に笑顔を作った彼の表情が切なかった。
選ばなかった、だろうか。同じ華族の方を選んだだろうか。
そのようなこと、今ではもう考えられない。直之様を知らずにいられる自分のことなど。
頬と額、そして首筋に何度も口付けを落とした彼が、甘い声で囁いた。
「あなたは恋の病に罹っている。安心して下さい、俺も同じですから」
握られた手を彼の下半身へ導かれた。おズボンの上から触らされ、とても硬い何かがあるのがわかった。
「あなたを求めてこんなふうになっている」
「あ」
ワンピイスの裾を捲って手を忍ばせた直之様は、私の太腿を手のひらで撫でた。痺れるような感覚に背中を逸らせると、そこから指を這わせ、私の濡れてしまった場所へ触れた。
「駄目です。そのようなところに触れないで……!」
咄嗟に腰を引いて足を閉じる。
「物足りなさを埋めてさしあげます。そのように足をきつく閉じていては、最後までいけませんよ」
何を言われているのか意味がわからず、涙を浮かべて首を横に振る。
「何を……なさるの?」
「怖いことではありません。口を開けて」
顔を近づける直之様に従い接吻をする。舌や頬の裏側まで舐め取られている内に足の力が弱まった。その隙をついて、彼の指が入口付近を撫でさする。
「ん、んん……! あ」
唇を離して、何度もいやいやと首を横に振ったけれど止めてはもらえない。
「あ、直之様、直之様……」
彼の名前を何度も呼び、肩にしがみついた。
「俺のも触ってください」
左手を取られ、再び彼のおズボンに手を導かれる。先ほどよりも硬くなっているように感じられたそこを、上下にさする様にと教えられた。
「……そうです、上手だ」
直之様の吐息に混じる声が耳にかかった途端、いけないことをしているような気持ちが込み上げた。同時に彼の指の刺激がたまらなく気持ちよくなり、何度も体をよじってしまう。
「変です、私……何か」
目に映っている筈のものが何も見えない。彼の指の動きだけに意識が熱中している。これが粗相でないというのなら何であろうか、というほどに辺りへ水音が響いていた。長い指が内を出はいりしているのがわかる。
「高貴な方にこのようなことをさせるなど、たまらなく興奮する」
ご自身の硬さをぐいと私の手に押し付けられた直之様は、私の中で水音を響かせていた指を上に滑らせた。中央にある何かに触れられ、体が魚のように跳ね、視界が大きくぐらつく。
「あ……っ!」
思わず、彼の硬い場所に触れている手に力を込めてしまう。
「ああ、蓉子さん」
直之様は息を荒げ、私のその敏感な部分を濡れた指の腹で小刻みにくるりと転がし、優しくこすり上げる、を何度も繰り返した。熱く、むず痒いような感覚に襲われた私は、知らぬ間に声を出し続けていた。
「あ、あ、あ、怖い……直之様……!」
虚ろな視線を彷徨わせ、すすり泣くような声を出す私に、彼が耳元で言った。
「可愛らしいですよ、蓉子姫。それでいい。もっと感じてください」
再び唇へ深い接吻を落とされると、体の奥から急激に何かがせり上がり、勝手に腰が浮き上がった。それを合図に彼の指が再び内へ、さっきよりも深い場所まで入れられる。
「あっあ……!」
「そう、そのまま任せて」
「あ……あ、んん……んーっ!」
その瞬間、もっと欲しいと自分から彼の指に下半身を押し付けていた。直之様に弄られた場所の奥が脈打ち、足の先がぴんとなり、自分のものではないように体が小さく痙攣している。初めて味わう恍惚が全身を取り込み、悲しくも無いのに涙が零れ落ちた。
彼の手の動きが止まった。
「誰か上がって来たな」
直之様が吐息と共に耳元で囁いた言葉に、ぞくりとする。
普段丁寧な物言いの彼が、たまに見せるこういった口調は、彼の野卑た部分を感じさせた。それは矛盾を孕むどこか洗練されたもので、嫌がりようのないものだった。
「直之様、宜しいでしょうか」
ドアの向こうにいるツネさんの声が、いつもより遠くに聴こえる。初めての快感はいつまでも私を放してくれない。
「何だ。まだ蓉子さんと大事な話をしている最中だ」
言い終わると、彼は私の口の端に少し垂れてしまった、だらしのない唾液を舐め取った。こんな姿を晒すのは恥ずかしくてたまらないのに、抵抗する力が湧き上がらない。
「申し訳ありません。先ほどの松永様なのですが、大事な言付けをお忘れになったということで、こちらへお戻りになられていらっしゃるという御連絡が入りました」
私の横で、うな垂れた直之様が呟いた。
「……全く。これ以上話すことなどないというのに。何なんだ、もう」
「直之様、いかがなさいましょう?」
「わかった、すぐ行く。到着されたら応接間に通してくれ」
「かしこまりました」
私の手を強く握りながら直之様がおっしゃった。
「すみません、蓉子さん。もう少し先までお教えしたかったが、残念だ」
「もう私……無理です。こんなこと、恥ずかしい……」
「そんなことはない。上手に感じられていらっしゃいましたよ。可愛らしいお声で啼かれるから、こちらは我慢するのが大変でしたが」
「……これ以上、何の続きがあるというのです」
「あなたが感じられたように、今度は俺の方を感じさせていただきたい」
ハンケチを取り出した直之様は、ぐったりとして身動きの取れない私の濡れた太腿周りを拭いてくださった。あとはお風呂で流しなさい、と優しく微笑む。
「早くあなたを俺のものにしたいが……焦ってあなたに嫌われでもしたら困りますからね。時間はたっぷりありますので、少しずつ先に進みましょう」
直之様のもの、とは。
何をされるのだろうと不安が過ぎる。でも、それを覆い被せてしまうほどの甘い期待が胸に膨らんでいるのもまた事実だった。それは私がこの人に恋をしているから……?
汗ばんだ私の額に接吻をした直之様が言った。彼の額にも汗が浮かんでいる。
「明日は早く帰れるんです。夕方、外へ食事に行きませんか?」
「……」
急にそんな現実的なことを言われても、何も答えられない。
「それとも、あなたのお好きなあんみつでも食べますか? アイスクリンの載った」
「……子ども扱い、しないでください」
「あんみつはお嫌いになられたか」
「……好きです」
「ははっ、そこは否定しないんですね」
彼が笑った拍子にベッドが大きく軋んだ。
「蓉子さん。何度も申し上げていますが、俺はあなたが好きですよ。そして、俺は父や兄のようにはならない、絶対に。ですから安心して下さい」
「直之様のお父様や、お兄様のように、とは」
「俺は妾は取りません。この先、一生あなただけです」
頬が熱くなったと同時に体中が火照った。
私の心配事など全てお見通しなのだろうか。けれど、見透かされて恥ずかしかったことよりも、直之様のお言葉が嬉しかった。信じても、いいのだろうか。
「蓉子さんのお気持ち、嬉しかったですよ。恋の自覚をお持ちになられたら、ちゃんと俺に告白して下さいね」
「!」
「楽しみにしています。では」
かがんで私に口付けた直之様は、お部屋を去るのを名残惜しむかのように、何度も私の頬を優しく撫でた。
愛おしんでくださるその感触は、私の心までも……すっかり溶かしてしまいそうだった。