台所のオーブンから漂うチョコレイトの甘い香りが、家中に行き渡っていた。
 一階にある本の並んだお部屋のテーブルでキャサリン先生と向き合い、お顔を見合わせる。
「良い香りですね。焼き上がりが楽しみです」
「ええ。あと少しですから、それまでこの頁を読みましょう」
「はい」
 先生がご用意なさった童話の原書をひらく。

 キャサリン先生は英吉利にお生まれになり、その後、亜米利加に移住された。ご主人のお仕事の都合で日本へ渡ってから、もうすぐ七年が経つらしい。
 今日、早めにいらしたキャサリン先生は、彼女が亜米利加にいらした頃に流行したというお菓子、チョコレイトブラウニイの作り方を教えてくださった。あとは焼き上がりを待つだけ。
 二頁進んだところで、ドアをノックされた。
「どうぞ」
「蓉子様、そろそろ宜しいのではないかと。え〜、何といいましたか、メリケンのお菓子なのですが」
「ありがとう、今行きます」
 料理人の三枝さんが、ドアの向こうから顔を出して教えてくれた。先生と一緒に台所へ戻り、オーブンから天板を取り出す。
「まぁ、美味しそう!」
「上手に焼けましたね」
 ほかほかと湯気の立ち昇る焼き立ての大きな平たいチョコレイトブラウニイを天板から取り出し、熱い内に包丁を入れ、小さな正方形に切ってゆく。
「チョコレイトは夏に溶けますが、ブラウニイにすれば溶けずにチョコレイトの味を楽しめます。しばらく保存もできるのです」
 キャサリン先生がにっこり笑って言った。
 その後、キャサリン先生と私でブラウニイを食べ、ツネさんや三枝さん、その他の使用人の皆さんにも食べてもらった。美味しいと好評で嬉しくなる。
 キャサリン先生がお帰りになられた後、ツネさんが私の傍に来た。
「蓉子様、直之様のお菓子はどうなさいますか。先ほど取り分けていらしたようですが」
「お帰りになられた後、召し上がるかしら? それとも朝の方がよろしい?」
「直之様は晩酌をされる際に、甘いものをお召し上がりになる時もございますので、お帰りになられた後でもよろしいかと」
「では、そうしますね」
 直之様は、ようやくお仕事が落ち着いたらしく、昨日は早く帰宅された。
 異国の本のお話をしてから数日。私一人が気まずい気持ちを持っていて、彼に上手く接することができないでいた。

 夕食を済ませた頃、お帰りになった直之様を玄関へお迎えに行く。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。何かいい匂いがするね」
「キャサリン先生とご一緒にお菓子を作りました。後でお持ちいたします」
「そうですか。それは楽しみだ」
 笑いかけてくださったのに、すぐに顔を伏せてしまった。これでは変に思われてしまうのに。

 直之様のチョコレイトブラウニイを用意し、夕食を終えた彼がいる一階のお部屋にお持ちした。
「美味しいですね。これなら溶けてしまわずにチョコレイトの味を夏でも味わえる」
 キャサリン先生と同じことを言った直之様は、窓際の椅子に座って召し上がっていた。窓は広く開き、カーテンが風にそよいでいた。
 甘いチョコレイトの香りと夏の夜風の匂いが混じる。
「蓉子さんすまないが、次の土曜の午後、来客があるんだ。俺と一緒に挨拶をしていただきたいんだが、よろしいですか?」
「もちろん構いません。どちらの方でしょう」
「海運業を営んでいる男です。少々癖のある人物で俺も苦手なのですが、父と付き合いがある方なので、ぞんざいに扱えないのですよ。もし何か言われても、お気にされないように」
「……はい」
「大丈夫。挨拶だけしていただければ相手も満足でしょうから、すぐにお部屋へ戻ってもらいますので」
「わかりました」
「ありがとう」
 直之様は立ち上がり、棚にある本を選び始めた。その後姿を見つめて思う。
 あのご本の持ち主は、やはり直之様ではないのだろうか。あれきり何もおっしゃらないし、普段のご様子も変わらない。よく考えてみればそのような偶然、起きる訳がないのだ。
「どうされました?」
「いえ、おやすみなさい」
「おやすみ」
 何を、期待していたんだろう。
 また強引に接吻されるだろうか、今夜は誘われるだろうか、などと少しでも思った自分が恥ずかしい。誘われてしまったら最後、またあのような状態になるかもしれないのに。接吻をしていない今ですら、体の奥に変化が表れているようで怖いのに。彼と二人きりのお部屋はとても息苦しい。早く自室に戻らなければ。
 挨拶をした私は、そそくさと部屋を出た。

 自室で鏡を覗き込む。
 先日、ここで私は自分の変化に気が付いた。そしてそれは顔付きだけのことではなく、直之様を見る私の目も明らかに変わっていた。
 いつもの三つ揃えが、とても素敵に見える。横顔をじっと見ていたくなる。家の中でつい彼の姿を探し、見つければ目で追ってしまう。目だけではない。
 二人になると呼吸が苦しくなる。家の中のどこからか彼の声が耳に届くと、心臓が掴まれたように痛くなる。彼を嫌悪する気持ちはもうどこにもないというのに、間近で声を聴いただけで涙が出そうになる。


 日ごとに悩みが増していく中、直之様の来客がいらっしゃる土曜日が訪れた。
 美代子さん、勝子さん、佳の子さんから、それぞれ届いた暑中お見舞いを見つめる。付けペンを動かしながらも、どこか私は上の空でお返事を書いていた。
 皆さんに伺えばわかるのかしら。この気持ちと体の変化の理由を、教えてくださるかしら。
 溜息を吐いて、大きく開いた窓の外を眺める。青い空に真っ白い雲が浮かんでいた。
 気温が高くても、高台にあるこの洋館は風通しが良く、酷い暑さは経験していない。
 時計の針が、そろそろお客様の到着するお時間を指していた。
 直之様は時に外国人向けの調度品などを直接買付したり、百貨店直属の芸術家や職人の方たちに美術品や工芸品の製作をお願いするために、地方へお出かけになることもあった。
 海外での売買は部下に任せ、お勤めしている横浜の貿易部と神戸にある貿易部の責任者をされている。その傍ら東京の百貨店と連携を取りつつ、彼のお父様のお知り合いと、こうしてお会いになるのだから、本当は相当にお忙しい方のだと思う。
 いつも何でもないと澄ました顔をされているから、わかりにくいのだけど……

 直之様に作っていただいた、薄紫色の小花柄のワンピイスを着用した。腰からタックが何本も入っていて、くるりと回るとお花のように裾が広がる。胸元は鎖骨がぎりぎり見える、ボオトネックという大人っぽいもの。
 ツネさんと淹れた珈琲のカップをお盆に持ち、応接間の扉をノックした。
「失礼いたします。珈琲をお持ちしました」
「どうぞ」
 ツネさんが扉を開けてくれた。お部屋へ入り、カップを載せたお盆を入口近くの小さなテーブルへ置いた。お客様用の大きなソファに座っている男性へ向き直り、頭を深く下げる。
「彼女が婚約者の薗田子爵家令嬢、蓉子さんです」
 直之様が紹介されるお声を聴いてから、顔を上げる。お客様は頷きながら立ち上がった。
「おお、このお方が。初めまして。私は海運業を営んでおります、松永(まつなが)と申します」
「蓉子と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
 差し出された手と握手を交わす。
「西島様には進水式の際、大変お世話になりましてな。以後、こうして交流させていただいております」
 お父様くらいのお歳だろうか。直之様よりも背はずっと低く、恰幅の好い方だった。
 御挨拶の後、お二人の前にある低いテーブルに珈琲の入ったカップを置いた。
「全く……これで西島家は華族という高貴な血まで手に入れたわけだ」
 松永様は直之様が勧めた葉巻の箱へ手を伸ばされた。直之様ご自身は嗜まれず、来客用に置いてあるもの。
「しかしお父様も、さぞかし喜んでいらっしゃることでしょうな。我々実業家がいくら財政に貢献したところで爵位は男爵どまり。それすら受けられない者の多いこと。私も含めてね」
「……ええ。全くです」
「金を稼げば疎まれ、爵位をいただけば妬まれる。ですからね、このような婚儀は羨ましい限りですよ、あなた。蓉子さんを大切にしなければ、ねえ?」
 直之様に念を押した松永さんは、椅子の上で仰け反る様に笑った。少々太り気味のお体が、笑う度にゆさゆさと揺れている。
「蓉子さん、ここはもういいですから。下がって宜しいですよ」
 穏やかなお声で直之様が言った。
「では、失礼いたします」
「今度、ゆっくりお話ししたいものですな」
 葉巻の煙を燻らせながら、松永様は私に笑いかけた。
「ええ、ぜひ」

 お部屋を出て自室に戻っても、松永様と直之様の会話が頭を離れなかった。
 やはり私は華族という名誉の証として大切にされているだけなのだろうか。私を好きだと言ってくださった彼の言葉は信じたい。でも。
 直之様のご実家を思い出す。彼のお父様は正妻の他にたくさんの妾をお持ちで、直之様もそのお子様の一人。お兄様も奥様の他に女中に妾をお二人持っていらっしゃるという。
 直之様も私と結婚した後、妾を必要とされるのだろうか。その時私は表面上だけ大切にされる立場となるのでは……? そして私も、お母様の苦悩を味わうことになるのかもしれない。
 想像しただけで眩暈がした。
 急激に気持ちが暗くなり、居ても経ってもいられず、異国の本を胸に抱いて無意味にお部屋の中をうろうろと歩き回った。

 帽子を被られた松永様は、玄関で見送る直之様と私に会釈をした。
「お邪魔しました。いずれまた、お伺いします」
「ええ。お待ちしております」
 笑顔で応えた直之様の隣で、私も微笑んだ。
「お父様にくれぐれも宜しく。あの件、お願いしますよ? 直之殿」
「それは父の機嫌次第です。俺には何の力もありませんので、あまり期待なさらぬよう」
 直之様のお言葉に目を丸くした松永様は、次の瞬間大きな声で笑った。
「これはまた随分とご謙遜を……! お父上はあなたの仕事ぶりをえらく買っているそうではありませんか。そこにいらっしゃる華族のお姫様のことも、ご自慢されていたとお噂を聞きましたよ?」
「そのようなことは初耳ですが、本当であれば嬉しい限りです」
 頷いた松永様は直之様から私へ視線を移した。
「蓉子さん。華族、というのはそれだけで私たちにとっては価値があるものです。光栄に思いなさい」
 にやりと笑う表情が卑しく感じられた。
 何故このようなことを言われなければならないのか。
 悔しさが胸にこみ上げたけれど、微笑みを絶やさず受け流した。我慢するのは、この方が直之様のお客様だから。それ以外に理由はない。
「松永様、お時間が迫っているのでは?」
「ああ、そうだった。では本当に失礼するよ。今度は私の家にもいらしてください。お姫様とご一緒に」
「ありがとうございます」
 家令の河合さんがドアを開け、外まで松永様をお見送りする。待機していた自動車で松永様は去って行った。

 静まり返ったホールに直之様と二人。
「ありがとうございました、蓉子さん。嫌な思いをさせてしまったかもしれませんが」
「いえ」
「あんな狸親父の戯言など、気にされないように。いいですね?」
 優しいお声を聴いて胸が張り裂けそうになり、瞳が滲んだ。確かに嫌な思いはした。でも、それ以上に今の私には彼の傍にいることの方が心乱れてしまう。
「蓉子さん?」
「……失礼します」
「最近様子がおかしいように思うのですが、俺が何かしましたか?」
「なんでもございません」
 彼に背を向け、急ぎ足で階段へ向かった。
「蓉子さん」
「本当に何でもないのです。お部屋に行くだけですから、御心配なさらず」
 後ろから掛けられる声を振り切るように階段を駆け上がる。
「あ……!」
 突然、片足が軽くなった。階段の途中で振り返ると、直之様が私を見上げている。
「そんなに急ぐから靴が落ちましたよ、お姫様」
 私の足から脱げて階段を転がり落ちた靴を直之様が拾った。私を見ながら、ゆっくりと階段を上って来る。
「どうしたっていうんです。何かあるのなら、はっきり言ってください」
 返事はせずに再び彼に背を向けて、片方は裸足のまま、ひょこひょこと不格好な歩みで残りの階段を上がった。履いている方の靴は高さがあるから歩きにくい。いっそこちらも脱いでしまおうか。
「待ちなさい、蓉子さん……!」
 上りきった場所で後ろから腕を引っ張られた。
「何でもありませんと言っているのです、離して」
「聞き分けのない人だな」
「きゃ!」
 体が浮いたかと思うと、彼の胸に私の顔が押し付けられていた。私を抱き上げ、歩き出そうとした直之様に抵抗する。
「下ろしてください! 離して……!」
 足をばたばたさせ、体をよじっても直之様はびくともしない。彼の香りに包まれ、体の奥から甘酸っぱい思いがせり上がった。
「何事ですか! まぁ、蓉子様!?」
 階下からツネさんの声がした。回廊から下へ顔を向けた直之様が大きな声でおっしゃった。
「ツネ、俺は蓉子さんに話がある。お姫様の部屋にいるから邪魔をしないように」
「……かしこまりました」

 直之様はそれ以上何も言わず、私を抱き上げたまま、突き当りのお部屋の前まで歩いた。