――つい、蓉子様がお傍にいらっしゃるような気がして、先日もお庭に咲いた朝顔を姫様にお見せしよう、などと呟いてしまいました。
 蓉子様がこちらへ宛ててくださったお手紙を幾度も眺め、お元気そうでいらっしゃることに喜び、また懐かしさに涙してしまいました。
 お盆にお帰りになられるとのこと。お気をつけていらしてください。お待ちしております。

「……サワ」
 先日、薗田家に宛てて二通のお手紙を出した。
 一通はお父様へ、元気にしていること、直之様がよくしてくださること、お盆へそちらに帰ることをしたためた。もう一通は、ばあやとサワたち使用人へ宛てたもの。こちらでの生活や女学校のお話などを書いた。
 実家を離れて僅か一か月半だというのに、薗田家にいた頃が遠い昔のことのように思える。
 サワから送られた返信を封筒へ戻し、袴姿に着替えて学校へ行く支度を始めた。今日は授業の為にワンピイスと靴を持って行かなくてはならない。窓の外では、朝から夏の強い陽射しが眩しく辺りを照らしていた。

 七月中旬の土曜日。
 この学校では学期末の日の夕方に、男性をお招きしたダンスの授業が行われる。男性は他校の学生や、地元にいらっしゃる名家の独身の方だという。
 洋装に着替えた友人たちと講堂に集まった。
 学年ごとに違う場所で、お相手の方々の到着を待つ。何となく仲良し同士で固まり、楽しくおしゃべりをしていた。先生方は珍しいことに、今日は私たちのおしゃべりに目くじらをお立てにはならなかった。
「もう、どうしたって夜会服では駄目なのかしら。どうせワンピイスを着るのだから、どちらでもいいと思うのだけど。殿方もいらっしゃるのだから、もっとお洒落がしたかったわ」
「あら美代子さん、体操服ではないだけマシよ。私のお姉さまの頃は体操服で踊ったらしいのだから」
「それは恐ろしいわね……! ワンピイスで踊ることが素晴らしく思えるわ」
 まあ、と大きな口を開けた勝子さんがおかしくて、皆でくすくすと笑った。
「どんな男子がいらっしゃるか、よく見ておかなくては」
「佳の子さんは、お見合いされたばかりでなくて?」
「まだその方と決めてはいないもの。じっくり探そうと思っているのよ」
 女学校へ花嫁候補を探しにいらっしゃる男性もいるらしく、どことなく皆さん、そわそわと落ち着きない様子でいた。
「ねえ蓉子さん。明日からの夏休みは、どうお過ごしになるご予定?」
「私はお盆に実家へ帰ります。勝子さんは?」
「軽井沢の別荘へ行くの。夏休みが始まってすぐから、ずっとよ」
 勝子さんは佳の子さんと美代子さんを見て、あなた方は? と質問した。
「大磯の別荘で過ごして、昼間は海水浴をします」
「私は鎌倉のおばあさまのお家。夏の晩餐会に御呼ばれしているの」
「それでは皆さん、お休み中は、あまり会えそうにもないわね」
 そうね、とお顔を見合わせて溜息を吐いた。
 この女学校へ通う人たちは財閥や豪商、地元の大地主の方など、とても裕福なお家の方が多い。でもそれを鼻に掛けることなく、皆さん素直で優しく、あっけらかんとしているところが、私はとても好きだった。
「蓉子さんのワンピイス、素敵ね。先日のお出かけで直之様に作っていただいたの?」
「ええ、届いたばかりなの。佳の子さんのワンピイスも素敵だわ。とても清楚で、よくお似合いよ」
「ありがとう。あら、皆様いらしたみたいよ」
「本当だ」
 緊張した面持ちで、男子生徒たちが講堂に入って来た。
 彼らの装いは三つ揃えに革靴。彼らもまた夜会用の服ではない。そこに数人、成人男性が混じった。彼らは燕尾服を着用していて、ひと目でわかった。

 校長先生の御挨拶から始まり、いよいよダンスの授業が始まる。
 先生にお相手を決められて、その方と向き合い、ご挨拶をした。私と同じ歳の男子。
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
 はにかむように笑ったその人は、ぎこちなく私の手を取った。
 講堂の舞台で演奏者の方が四重奏を奏でる。美しい音楽が私たち生徒の間を流れていく。背筋を伸ばし、初めの一歩を踏み出した。ふわり、ふわりと皆さんのワンピイスの裾が広がり、講堂いっぱいにお花が咲いたよう。本物の晩餐会とは程遠いけれど、優雅な雰囲気はいつもの厳格な講堂の姿を一変させていた。
 お相手の方と視線を合わせてステップを踏む。手を取り合い、背中や腰に触れられ、息がかかるほど近付くこともあった。その度に私は、直之様のことを思い出していた。
 直之様とご一緒の時は、常に気持ちの高揚があった。
 瞳を覗き込まれる、手を取られる、名前を呼ばれる……たったそれだけのことで心が昂り、体が熱くなった。今こうして別の方と触れ合っていても、そのようなことは起こらない。
 何故あの方なのだろう。私をこんな気持ちにさせるのは。
 直之様はここのところ、お仕事がお忙しいようで、夜は遅く、朝食をとられるのもまちまちで、お話をするどころか、お顔を合わせることすら難しかった。あの深い接吻の夜から、ずっとそのような状態が続いている。
 そのせいもあるのだろう。今この時までも、彼のことばかり考えてしまう自分がいた。


 翌朝、ツネさんのお手伝いをしようと食堂へ行くと、そこには着席している直之様の姿があった。
 英字新聞から顔を上げた彼と目が合い、心臓がずきんと痛む。
「おはようございます」
「おはようございます、蓉子さん。何だかお久しぶりですね」
「そうですね」
 日曜の朝だから、まだ寝ていらっしゃると思ったのに。不意打ちを食らったようで、どうお声を掛けてよいのか迷ってしまう。
 昨日に引き続き、外の陽射しは強く蒸し暑い。食堂の隅で扇風機が回っていた。
「今日も、お仕事でいらっしゃいますか?」
「立て込んだ仕事がずっと入っていてね。休日返上ですよ。あなたの方は、そろそろ夏休みでは?」
 直之様のお傍へ行くと、ツネさんが私の分の朝食も用意してくださった。その行為に甘えて着席をする。
「今日から夏休みです。昨日は学校でダンスの授業がありました」
「ああ、学年末の。他校の生徒や地元の男性が参加するレッスンですね」
「ご存じですの?」
「俺も参加したことがあるんですよ。一回、いや二回だったかな。学校側から頼まれましてね。西島家とお付き合いのある家の女学生の方が数人いらっしゃいましたから、断るに断れず」
 苦笑した直之様は珈琲をひとくち飲まれた。
 学校で皆さんが彼のことをご存知だったのは、この授業に参加されていた為と知り、ようやく謎が解けた。
「直之様は、ダンスがお得意でいらっしゃるの?」
「別に得意ではありませんよ。何とかステップを踏めるくらいで。ですが来月、あなたを夜会に連れて行く予定がありますので、そのおつもりでいらしてください」
「夜会へ?」
「そうです。ここからもう少し奥まった場所にある、東城家というお邸に呼ばれておりますので」
 直之様と夜会へ。
 昨日のレッスンのように、今度は直之様と踊る。何故か高鳴る胸を抑えながら、スウプをひと口飲んだ。
「夏休みといえば、お友達は避暑地にいらっしゃる方が多いでしょう」
 言いながら、直之様は丸いパンを千切って口へ入れた。
「そうですね。仲良しの方はそれぞれ軽井沢や大磯、鎌倉へいらっしゃるようです」
「あなたを連れて行ってさしあげたいのは山々なのですが、俺の仕事が休めないので申し訳ないが……」
「そんなふうに、お気になさらないで下さい。私はお盆に実家へ帰らせていただきたいと思っておりますので」
「ああ、そうでしたね。一週間ほどお帰りになられますか?」
「いえ、先日父から手紙がありまして。歩けない程ではないのですが腰を少々悪くしたようで、母の初盆は私たち身内の者だけで行なうことになりました。お墓参りは後日、各自都合の好い時にと。あまり父を煩わせたくはないので、私は翌日母の墓参りへ寄って、そのままこちらに戻ろうかと思っております」
「そうでしたか。それでは俺が翌朝迎えに行きますので、一緒にお母様のお墓参りへ行きましょう」
「ありがとうございます」
 パンを食べ終えた直之様が、お顔を上げて私を見つめた。
「ああ、大事なことを忘れていた。昨日返事を貰ったんですが、今日からあなたに英語を教える外国人教師が来ますよ。所謂、家庭教師というものですが、いかがでしょう」
「まぁ……! 夏休みの間にお勉強させていただけるなんて、とても嬉しいです」
「では頑張って下さい。三時頃に、お見えになるようですから」
 珈琲を飲み終えた直之様は、早々に食堂をお出になり、お仕事へ向かった。

 直之様がおっしゃった通り、午後三時ちょうどにその女性はいらした。
 柔らかそうな金髪をひとつに纏め、高さのあるレエスの襟が付いた、栗のようなお色のワンピイスを着ている。キャサリン・ニコラスと名乗った三十代の御夫人を、私はキャサリン先生と呼ばせていただくことにした。
 一対一の授業は些細な疑問もその場で質問ができ、学校でわからなかったことも気軽に教えていただけた。先生はお優しく、日本語も堪能でいらっしゃる。とても楽しい一時間半のお勉強は瞬く間に過ぎた。

 今夜も直之様は遅いのかしら。
 夕食後も尚、キャサリン先生との個人授業を思い出しては興奮が冷めやらず、大切にしているあの異国の本を眺めながら、自室の窓辺で直之様のお帰りを何となく待っていた。
 こちらの女学校では毎日のように外国語の授業がある為、この本に書き込まれている日本語訳がどれだけ丁寧で正確であるかを、だいぶ理解できるようになっていた。キャサリン先生の授業でさらに英文を読み取る力が備われば、まだ日本語訳の書き込まれていない最後の数頁を丁寧に訳すのは、そう遠くないことのように思えた。
 車の音がした。家の前で停まり、ドアを開け閉めしている様子が聴こえる。
 急いで鏡台の前に行き、身に着けているワンピイスがおかしくないか確かめた。ウエストが高く、そこから裾までふんわりと膨らんだ、夏用の綿生地で出来た水色のワンピイス。髪を整える為、手にしていた本を鏡台に置こうとした時、階段を上がってくる足音がした。
 思わず本を胸に抱き締め、じっと身構えてしまう。
「あ」
 鏡に映った私の顔を見て驚いた。頬が紅潮し、瞳が潤んでいる。これが、私? ……何故このようなお顔に? 鏡を覗き込んでみて確かめても、それが見間違いではないと証明されるだけ。
 ドアがノックされた。

「はい」
「直之です。少し、よろしいですか?」
 ドアを開けたそこには、上着を脱いで手に掛けている直之様がいらした。三つ揃えのおズボンにベスト、ハイカラ―の白いシャツ。いつも見ている筈なのに何かが違うような気がした。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。どうでしたか? キャサリン夫人は」
「素晴らしいお方でした。お陰様で、とても有意義な時間を過ごせました。ありがとうございます」
「あの方は日本語も堪能ですからね。元町にいる貿易商の方の奥様で、お時間があるとのことでしたから、週に二回ほど来ていただこうかと思っています。いかがでしょう」
「ぜひお願いいたします」
「ではそのように連絡しておきますので」
 微笑んだ彼は特に何ら変わりはないのに、どうしていつもと違うなどと思ったのだろう。
 ふと、先ほどの鏡に映った自分の顔を思い出した。もしや、変わったのは……私?
「そちらは?」
 直之様は私の手にしていた本に視線を移して訊ねた。
「これは、幼い頃にいただいたご本なのです。キャサリン先生に英語を習った後ですから、理解も深まるだろうと取り出しておりました」
「見せていただいてもよろしいか?」
「ええ、どうぞ」
 お渡しするとすぐに、直之様は頁を捲った。
「中に日本語訳が書いてあるのですね」
「そうなのです。以前お話した葉山の別荘で、お客様をお招きしている最中、私が退屈している時にくださった方がいるのです」
「原書のようですが、外国の方でしょうか」
「いえ、日本人の殿方です。当時高等科か、それよりも上の方だったかもしれません」
 今思えば、もっと上の、成人されていた方なのかもしれないけれど、あの頃の私には少し年上のお兄様は皆、同じように感じられて正確なお歳はわからなかった。
「大切にされているのですね。とても綺麗に保存してある」
 直之様は本を閉じ、表と裏の表紙を眺めた。
「大切にしていました。今も、もちろん大切にしております。全部ではありませんが、おっしゃるように日本語訳が書いてあったので、幼い私でも何となく内容がわかりました。このご本を読んでいると、見たことも無い場所の外国のお家や、登場する少女が目の前にいるようで……とても素敵な気持ちになれるのです。何かつらい時や、悲しいことがあった時も、この本が慰めてくださいます」
「……あなたは、この本を渡した相手の顔を覚えていらっしゃいますか?」
「ほとんど覚えておりません。ただ、お優しそうだったという印象はあります」
「あなたは、その時」
 直之様は私に本を差し出した。
「お礼に、何かを渡していませんか?」
「え?」
「本をあなたへ渡したという、その人に」
「……覚えがありません」
「そうですか」
 私が何かを渡した……?
 それよりも、直之様はどうしてそのようなことを尋ねるのだろう。本を受け取り、表紙の少女を見つめて考える。

 初めて薗田家でお逢いした時、直之様は私を知っているふうな口ぶりだった。私と直之様の年は八歳差。葉山の別荘で、その頃の私が感じた印象が間違っていなければ、十歳になる直前の私と、本をくださった人の差はそれくらいになる。
 まさかとは思うけれど、あの時、この本をくださったのが直之様だとしたら、辻褄が合う。
 そのことを覚えていらしたから、初対面であのようにおっしゃったの? 私が何かを渡した、というのは一体、何のことだろう。
「あの、直之様」
「蓉子さん、あなたは」
 私の手元から視線を上げた直之様は、どこか切羽詰ったような、何かに追い立てられているような、お声を出した。思わず、質問しようとした口を噤んでしまう。
「あなたは俺の妻になるのですよね? 他の誰でもない、俺の」
「そのつもりで、ここに参りました」 
 直之様を見つめ返して、問いかける。
「どうされたのですか?」
「……いや、何でもありません」
 もしも、この異国の本の持ち主が直之様だったとしたら。私はずっと、この方に救われてきたことになる。
 考えただけで胸が震えた。
 直之様だったら、どうだというの? 落胆するの? それとも悲しくなるの? 彼ではなかった方が良かった、とでも思うの?
「蓉子さん」
 部屋に入ってきた彼は、ドアを開け放したまま私の腕を引き、強く抱き締めた。
「あ、離して下さい。誰かいらしたら、」
 答えは、否だった。悲しむことなく、落胆するどころか私は……
「いいんだ。誰が来てもいい」
 さらに力をこめた直之様に、強引に口付けをされる。足元が不安定になり、体全体が傾いた。腰に手を回して倒れないよう支えた直之様は、仰け反る私に尚も唇を押し付け、この間の夜のように深い接吻をした。
 滑らかで温かな舌を差し入れ、貪るように私を味わう彼の強い意志に、体だけではない、心までもが……よろめく。

 私は、本の持ち主があなただったら、落胆するどころか素直に嬉しいと、そう思えた。もしそうだったなら、あなたの胸に何の躊躇いも無く飛び込んで、拒む理由を探すことなく、全てを受け入れてしまえるのに……

 長い接吻は、私の体に再び変化を起こそうとしていた。
 このお部屋で接吻をされた先日の夜、彼が去ったあとに気付いたこと。今もまたそうなる予感がして足を硬く閉じた瞬間、太腿の内側が湿り気を帯び、濡れているのがわかった。今にも何かが太腿の中頃まで垂れてしまいそうな恐怖。同時に感じる甘い疼きのようなもの。罪悪感が一気に押し寄せ、彼の体をぐいと押して離れた。
「直之様、お放しになって。いや……」
 これ以上続けられたら、どうなってしまうかわからない。
「どうされた?」
「少し体が怠いのです。お風呂をいただいて休みます」
「熱は?」
 かがんで額に触れようとした直之様から、不自然な程、顔を逸らして拒んだ。
「ございません。ご心配なさらずに」
「そうか。夏休みですから、明日の朝はゆっくり寝ていなさい。ツネに伝えておく」
「……はい」

 部屋を出た直之様の足音が遠ざかるのを確認した私は、急いで洋服箪笥の前に行き、引き出しから真っ白いハンケチを取りした。