朝の準備を一通り終え、同期三人で楽器室へ向かった。
扉を開けると、小窓から入る雨上がりの朝日に照らされたベルリラが、目が痛いほど眩しく輝いていた。木琴、鉄琴、小太鼓、大太鼓、ティンパニーまである。指揮棒、バトン、トライアングルにたくさんのカスタネット。ここは行事で使うものが置いてある、教室よりもずっと狭い部屋だ。その一角に、たくさんの楽器がひしめき合っていた。
「水上、あんま触るなよ」
「いいだろ少しくらい」
「あたしも触らせてよ。減るもんじゃないし、いいじゃん」
年長クラスの佐々木が準備しているのを横目で見ながら、俺と太田は楽器を手にした。
「今日から練習するの?」
「いや、今日は楽器を見て体験させるだけ。十二月の発表会まで、まだまだあるから」
十二月、か。その頃になれば、少しはあいつら成長してるんだろうか。全然想像出来ない。
「年少は何やんの? 楽器は……まだ無理か」
佐々木は嫌味ったらしく鼻で笑って俺を見た。
こいつ何なの? 年長がそんなにエライの? 新人のお前に威張る権利あんの?
「……踊りだよ」
「年中はオペレッタだっけ?」
「うん、そう。ピアノ大変らしくて今から恐ろしいよ」
スルー!? 俺今答えたよね? お前完全に聞こえてたよね? 距離1mもないよね?
「そう言えば教室でお漏らしさせたんだって? 親平気だった?」
ここでくんの!? どういう話の繋がり!? 何嬉しそうに笑ってんだよ。俺より背が高いからってバカにしてんのか? ……顔は俺のが勝ってるけどな。
舌打ちしたいのを何とかこらえ、楽器を見つめながら低い声で答える。顔引き攣りっぱなしだよ。
「平気に決まってんだろ。年少はするのが当たり前なんだよ。年長だってお漏らしする子くらい、いんだろが」
「俺のとこはまだいないけどねー。ちゃんと見てるし」
はいはい、そりゃ良かったね。何のアピールだよ。今度は俺がスルーしてやるわ。
「二人って仲悪いよねー。見てて面白いけど!」
ゲラゲラ笑いながら、太田がベルリラを叩いた。高い金属音が三人の間をすり抜ける。
俺と同期で、年中の担任になった太田は、細くて真っ直ぐな黒髪をひとつにまとめ、気の強そうな大きい目を見開き、ベルリラをあれこれ試していた。
どっちかっていうと、俺はこういうのが好みなんだよな。ハキハキしてて行動力があってさ。ああ、でも結局それで失敗したんだっけ、結衣とは。まあ、梨子先生のが太田より全然可愛いか。
「……」
いや、だからって梨子先生がどうとか、そういうのは絶対ない。本気でない!
職員室で朝礼を終え、教室へ入るとすぐに、まゆちゃんが登園して来た。
「おはよう、まゆちゃん」
「せんせーおはよー。はい、おてがみ」
「ん?」
あれ? 今日提出する手紙なんてあったっけ? 首を傾げてまゆちゃんのそばへ行くと、彼女から手渡されたのはピンク色の封筒だった。
「ママからだって」
「あ、そうなんだ」
宛名には「水上裕介先生様」と書いてある。すげえな、先生に様とか。裏を見ると、確かにまゆちゃんの母親の名前がある。
「……」
胸騒ぎがして、その場で封筒を開けて中を確かめた。
――水上 裕介 先生様
お忙しいところ、お手を煩わせて申し訳ありません。
毎日、まゆがお世話になっております。
園での生活もようやく慣れてきた頃でしょうか。
最近では、園であったことを楽しそうに話してくれるようになりました。
ふんふん、それで? 一体何なんだ? まゆちゃんの母親の字は、綺麗で小さくて、そして細かい。一枚目の便箋にもびっしりと字が書き込まれている。
そう、一枚目、だ。枚数を数えてみると、なんと四枚に渡ってこんな感じに文章が書かれている。
その後も、何だかんだと最近のまゆちゃんの様子が書かれ、それだけで二枚の便箋を消費していた。そして三枚目から別の話題が始まった。
昨日は娘が膝を怪我したようで、お世話様でした。
園庭で転び、すぐに先生が洗って絆創膏を貼ってくれたんだと
娘が説明してくれました。
ありがとうございました。
ただ、少し引っかかっております。その日の内にご連絡を
いただけるかと待っておりましたので。
子どもの言い分だけでは、はっきりした状況がつかめません。
お忙しいとは存じますが……
うんたらかんたらと、その後は延々同じようなことが書かれていた。それで合計四枚だ。
結局、何が言いたかったんだろう。だって俺、おかしくないよな? たいしたすり傷じゃなかったし、普通に転んだだけだから、洗って絆創膏貼って……。第一この手紙にも最後に書いてあるじゃないか。適切な処置ありがとうございました、って。
これ以上、俺が何かしなきゃならないのか?
「おはようございまっす!!」
「お、かいとくんおはよう!」
「せんせーおはよー」
「みーちゃん、おはよう!」
……まあ、たいしたことないだろ。手紙を畳んで元の封筒へ入れ、教卓の引き出しへとしまった。
「おにわであそぼー!」
「清香先生来たら、一緒に外行こう。何して遊ぶ?」
「おすな。おだんごつくるの」
「よーし、先生と大きいの作ろうね!」
誰にもこのことを話さず、帰りには手紙の存在すら忘れていた俺は、次の日、大大大後悔するハメになるのだった。
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