泥濘−ぬかるみ−

(22)あがない





「ガム返して」
「え、うん」

 素直な春田は、昨日俺がやったガムをスカートのポケットから取り出し、こちらへ差し出した。
 包みを広げた途端、辺りに甘酸っぱい香りが漂う。彼女の体温で柔らかくなったそれを口に入れ、何度か噛みながらメモを机の上に乗せた。

『これも食べる?』

 文字を目にした途端、春田は頭を小さく横に振った。

『遠慮すんなよ。うまかったんだろ? 俺がやった飴』

 彼女は紙を手にしたまま、辺りを見回している。
 廊下側の一番後ろにあるこの席は、周りからは気付かれにくい。どんなに助けを乞う視線を送っても、声を出さない限り誰一人わかっちゃくれない。

『また目隠ししてやれば、食べられる?』
「……」

 彼女の手は、もう返事を書こうとはしなかった。
 俯く春田は、膝の上のスカートの端を両手で握り締め、もぞもぞと動かしている。
 小さな肩に目をやると、ふと胸が痛くなり、さっきまでの高揚感は一気に薄れ、言いようの無い罪悪感が顔を出し、彼女の向こう側に見える惨めな自分に再び打ちひしがれ始めた。
 気付かれないよう何でもない振りをして黒板へ顔を向け、授業が終わるまで隣を一度も振り向かずにやり過ごした。

 休み時間になり、春田の横に立ち手を伸ばす。
「やるよ、ガム」
「あ」
 椅子に座ったまま、俺を見上げた春田が微かな叫びを上げ、両手で顔を覆った。さっき書いたメモの内容を気にしての行動に、苦笑する。
「どうしたの? 春田」
 振り向いた三橋の声に、我に返った彼女は両手を顔から外した。
「み、三島くん、が」
「そんなにこれ、嫌いだった?」
 昨日の帰りに買っておいた、新しいガムを一枚乗せた手のひらを見せると、春田は黒目を大きく見開き、それを見つめ言葉を失くした。
「春田が食べないなら、あたし欲しいな。ブルーベリー好きだし」
 三橋が俺に手を伸ばす。
「あ、そう? 食べる?」
「うん、ありが」
「ダメ!」
 春田の声に、思わず落としそうになったガムを握りなおした。
「あの、私がもらったの、それ……。だからごめん、みっちゃん」
「春田食べるの? 三島くんもう一個ない?」
「……悪い。もうないや」
「ないってなると食べたいなー」
 三橋は鞄をごそごそと探り、財布を取り出した。
「あたし売店行ってくる。春田そんなに好きなら、あたしのも後であげるよ」
「……ありがと」
 三橋は春田を置いてその場を去った。

 目の前にある俺の制服のズボンを見つめたまま、黙り込む春田を見下ろし、言葉をかける。
「食べたいんだ?」
 ――どうしたいんだよ、春田。
「……うん」
「ふうん」
 俺に、どうして欲しいんだよ。
 わからせてやりたいのに、これ以上どうしたらいいのか俺だってもう、わからない。
「……」
「昨日みたいに?」
 俺の問いに春田は目を泳がせ、思い出した様に口元へ手を持っていく。
「……じゃあ、こっち向いて」
 ゆっくりと顔を上げた春田の瞳は、湿っていた。
「はい、どうぞ」
「え?」
 何もせずに、ただ青い包みを彼女へ差し出す。
「あ……ありがとう」
 拍子抜けしたような声を出し、俺へと手を伸ばす春田に少しだけ近付き、誰にも聞こえないよう囁いた。

「期待しただろ? 今」

 これは罰だ。彼女が犯した罪への。
 葉山の傍にいる動機、俺を縛り付けるあまりにも無自覚で無知な行動と言葉。そして拒否することの無いその感情。
 今まで何度も思ってきた同じ事を頭の中で繰り返し、苦しい心に押し潰されないよう言い聞かせ、自分の醜い行動を肯定させた。

 次の朝から、春田はいつもの地下鉄に乗ることはなかった。



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