泥濘−ぬかるみ−

(21)羞恥




 虚しい夜が明けた。

 悦んでいた筈なのに、昨日のことを思い出すと頭が痛み、誰かに背中を突かれ蹴落とされた錯覚へと陥る。寒い部屋の中、ダルイ身体を起こしながら、いっその事もう全てを投げ出そうかという考えが、朦朧とした頭を過ぎっていった。

 それでも前を歩く春田の背中を見れば、発作を起こしたかの様に全く抗う術もなく、彼女に近付きたいと願って止まない自分が居た。

 相変わらず葉山は春田と同じ地下鉄に乗り、学校へ行く道すがら、彼女はいつもの様に奴と言葉を交わしながら歩いている。何も変わりはしない目の前の現実に打ちのめされながらも、二人の後を一定の距離を保ち、ついていく。

 春田が俺の理想になりつつあった。軽蔑だと思っていた彼女への視線は今や憧憬へと変わり、嫉視と羨望の眼差しを彼女の隣を歩く葉山へと送り続けている。

 下駄箱で上履きを履いていた春田が顔を上げた瞬間、そこへ辿り着いた自分と目が合った。
「あ……お、おはよ」
「……おはよう」
 いつものように挨拶を返し、下駄箱の扉を開け自分の上履きを引っ張り出す。明らかに動揺している春田を振り向くと、みるみるその頬は赤く染まっていった。その意味を、彼女は知ろうとしない。
「春田おはよう」
 彼女の後ろからクラスの女子が声をかけてきた。
「あ、うん」
「うんてなによ? どしたの、具合悪い?」
「え、ううん。平気」
 二人の会話を背中に聞きながらその場を去る。

 授業が始まれば、もう俺の隣からは逃げられない。
 何度も春田を思いだし、罪悪感を持ちながら過ごした昨夜のことなど、彼女を前にした途端、それは都合よく俺の中で息を潜め身を隠した。
 マフラーを外し鞄を置いた春田へ、自分から声をかける。
「具合悪いんだ?」
「え、ち、違うよ」
「そう」
 下駄箱での動揺を引き摺ったまま、隣の席に座る春田はおどおどした瞳で俺の質問に答えている。
 初めてここで彼女と口を利いた時とはまるで違う感情を持つ自分に、笑いたくなった。あんなにも耳障りだった声が、今はたまらなく聞きたい。
 そして俺の言葉に必死に耐えて、我慢しながらも傍から離れようとはしない……あの顔が見たい。

 授業が始まり暫くしてから、以前彼女が俺に渡したようにノートの端を千切り、殴り書き、半分に折って隣の机の端に乗せた。
「?」
 右手で頬杖を着き、春田が紙切れを開くのを見つめる。
「……!」
 途端に彼女の表情は緊張を帯び、小さな声で呟いた。
「……え、何を?」
「書けよ」

『もっといる?』
『何を?』

 質問に答える春田の文字は、いつも通り頼りなかった。教室のざわつきは程よい加減で、教師もこちらを見る事はほとんど無い。こうしてやりとりしているのを気付く奴は誰もいなかった。

『アメ』

 春田は顔を上げ、俺の顔を見つめた。シャーペンを持ったまま、彼女に向ける冷ややかな視線で返事を書けと命令する。

『もういらない』
『昨日の何味だったっけ?』

 いちいち回答するのに時間がかかる。春田は躊躇いながら、書き込んだ紙をそっと俺の机に乗せた。

『ミルク』
『うまかった?』
『うん』
『全部食べて飲み込んだ? 葉山の隣で』

「……」
 春田は再び俺と目が合った途端、朝下駄箱で会った時と同じ様に頬を染め、すぐにその顔を伏せた。紙切れを握り締め、口を引き結び、羞恥に耐えている。
「早く」
 自分でも驚くくらいの弾んだ声が出てしまった。
 幼い子どもが遊園地で親をせかすように。目的を果たす為に、手を取り無理やり引っ張っていく時のように。
 俺の言葉に春田の肩がいつものようにびくりと動き、慌てて返事を書きだした。妙に気分がいい。自分の中にある何かが高揚し、それが頭をもたげ俺の心と身体中を支配していくのがわかる。
 彼女は目を伏せたまま、紙切れをゆっくりと俺に差し出した。

『全部、食べたよ』

 ――楽しくて、堪らない。興奮するなと言う方が無理だ。頬杖を着いていた手を口にあて息を吐き出し、溜息を吐いているように見せ掛け、イラついている風を装った。

『ガムは? ブルーベリーの。葉山にやった?』
『まだポケットに入ってる』

 そこで少し間を置いてやる。もう何も無いと安心したのか、春田は黒板に目を向けて熱心にノートを取り始めた。

 まだ、逃がさない。



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