泥濘−ぬかるみ−
(23)独りよがり
春田が、いない。
いつも乗っている筈の車両にその姿が無い。
当然下駄箱でも会えず、今日は休みだろうと教室へ入ると、既に彼女は席に着いていた。
授業が始まっても、俺の方は向かずに春田は何も言わない。何も聞いては来ない。昼休みになると教室を出て行ったまま、予鈴が鳴るまで俺の隣に戻ることはなかった。
一言も彼女と言葉を交わすことなく、一日が過ぎた。
それでも帰り道に期待をし、何度も後ろから近づく足音に注意深く耳を澄ませる。けれどそれは全て他の誰かで、春田じゃない。気付けばいつの間にか駅の構内に一人辿り着いていた。
それは一日だけの気まぐれではなく、次の日もまた同じ様に始まり同じ様に終わった。
途端に焦りを感じた自分は、三日目の朝からとにかく彼女の跡を辿ろうとした。どうやら毎朝違う時間に地下鉄へ乗り込んでいるようで、下駄箱で会えるタイミングを掴むのも至難の業だった。
どんなに難しい問題が出ても、彼女は授業中俺を振り向かない。楽しい事があっても三橋に声を掛けるだけで、何も教えてはくれない。
廊下でも、帰り道でも、いくら歩みを遅くしても春田が傍に駆け寄ってくる足音は届かなかった。
ぼんやりと黒板の公式に目を向ける。
春田と言葉を交わさなくなってから、既に十日が経っていた。
まだだ。まだ認めたくない。――まだ、
「……三島くん」
「!」
久しぶりに名まえを呼ばれ、その声に動揺した自分が今度は肩を揺らす。
「プリント、足りないんでしょ? こっち余ってる」
飯島が言ったのか、まるで話を聞いていなかった俺に問いかける。
「あ、ああ」
彼女がこちらへ向けた用紙を受け取ろうと手を伸ばすと、目が合った。
「……」
「……」
プリントを俺に渡し、一瞬だけ眉を歪め唇を噛んだ春田は先に目を逸らし、黒板を向いたままこちらを見ることはなかった。
学校帰り、坂道を降りていると飯島が後ろから声をかけてきた。北風が吹き、耳が痺れるほど寒い。飯島の顔を見ながら、春田にマフラーをやった時の事を思い出していた。
「三島、どうしたんだよ」
「何が?」
「春田さんと喧嘩でもした?」
「……なんで」
「だって全然口も利かないじゃん」
「……嫌われたんだろ」
隣を歩きながら両耳を押さえ、寒そうに肩を縮ませ、俺を追いかけて来たと、確かにそう言っていた。
「お前が?」
「俺が」
「え、何で?」
何もない春田の首にマフラーを巻くと、嬉しそうに小さく笑った。
……買うのが面倒だったわけじゃない。もうすぐ暖かくなるから、そのまま同じマフラーをしていたわけじゃない。本当のことを教えたら、春田は何て言っただろう。
「苛めすぎたから嫌になったんだろ、俺と関わるの」
「……苛めたのかよ、お前」
「そういうつもりじゃ、なかったけど」
それ以上は言葉が続かなかった。
春田にしてみれば、俺が冷たい言葉を浴びせていたのも、わざと他の女と一緒にいるところを見せ付けたのも、彼女に強引に触れたのも、何もかもが理解できないことだったのかもしれない。
教えると言いながら結局は自分の欲を満たす為にしか動いていなかった現実を、今まざまざと見せ付けられていた。
「そういうつもりじゃなくても、どう考えても苛めてたな、俺」
苦笑しながら下を向く。飯島にもこんな顔を見せたくはない。
「そういえば感謝してたよ、北高のマネの子」
「なんて?」
「謝ってきたってさ、葉山が。もちろんヨリ戻すとかじゃなくて」
「……ふうん」
「S女の子とも別れたって聞いたけど」
「じゃあ……春田と」
「多分」
春田に決めたのか。あの、葉山が。
「春田さん、最近休み時間いつもいないよな。昼休みも」
「……葉山のとこだろ」
「やっぱ、そうかな」
「他にどこ行くんだよ」
「……だよな、ごめん」
「何でお前が謝るんだよ」
俺が吹き出すと、飯島も困ったように笑った。
きっと春田もあいつを選んだ。今度は本当に。
学期末のテストが始まると、出席番号順の席に変わり、春田とは暫く隣の席に座ることすら叶わない日々が訪れた。
気が遠くなるほど彼女を求めても、もうそこには何もない。
何も、なかった。
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