泥濘−ぬかるみ−

(4)好奇心




 次の日から、授業中も休み時間も、隣の春田は一日中俺に話しかけてきた。

 わからない問題は勿論のこと、教科書を忘れたから見せろだの、今日は天気がいいだとか、昼は学食か弁当どっちかとか、昨夜は何のドラマを見たかとか、とにかくうるさい。無視してもお構い無しで声をかけてくるから、黙らせる為に仕方なく答えていた。

 教科担任のブツブツと小さく聞き取りにくい声のせいか、物理の時間は皆、黒板を見ることもせず話しに夢中になっている。
「ねえ、三島くん」
「……なに」
「やっぱりシャーペンがいけないのかな」
 相変わらずジャラジャラと無駄なものが付いたシャーペンを振りながら春田が言った。
「三島くんみたいなの使えば、もう少し数学も得意になるかも」
「……」
「どこで買ったの?」
「忘れた」
「私も同じの買っていい?」
「お前さ、しゃべってないでちゃんとノート取れよ」
「大丈夫、取ってる。ね、教えて?」
 犬の様に媚びる春田の視線が俺に答えさせる。
「……伊藤屋」
「駅前の?」
「そうだけど……その発想が間違ってんだよ、お前は」
「何で?」
 春田の問いに三橋が振り向きクスクスと笑った。
「三島くんの言う通りだよ春田。シャーペン替えただけで成績良くなるなら
あたしも欲しいんだけど」
「春田さんて笑えるよな」
 飯島も彼女を振り返った。
 少しずつ無理やり慣らされているこの和やかな雰囲気に、うんざりしていた。自分のペースが上手く掴めない。誰の傍に座ろうが、今までは干渉することもされることも無く平穏に過ごしていたのに。

 手の甲で頬杖を着き、調子を狂わされた原因になっている春田の横顔を見つめる。
「?」
 俺の視線に気付いた彼女の大きな黒目に、また落ち着かないざわつきを覚えた。長い溜息を吐き、全く頭に入っては来ない黒板の方程式へ目を向ける。
「な、何で人の顔見て溜息吐くの?」
「……別に」
 前を向いたまま呟く俺に向かって、ひどいとか何とか不満げにぼやく彼女に、また三橋と飯島が笑った。


 席替えの日から十日程経った冬休み前日の学校帰り、一人で坂道を降り歩いていると、後ろから誰かの駆け寄ってくる靴音が耳に響いた。

「三島くん!」
 振り返ると春田が息を切らし目の前に立っている。頬が小さな子どもの様に赤い。
「……なんだよ」
「今帰り?」
「見りゃわかるだろ」
「一緒に帰ろ」
「……好きにすれば」
 嫌だと言ったってどうせついて来るのはわかっているから、断るのも面倒くさくて、そう答えた。

 横を歩く春田にふと疑問が湧く。彼女はブレザーの中にセーターを着て、首元にはマフラーを巻いている。
「葉山は?」
「葉山くんは部活。一緒には帰ったことないの。ほとんど」
「ふうん。お前友達いないの?」
「いるけど明日から冬休みでしょ? 皆彼氏と帰るんだって。葉山くん冬休みも部活で忙しいから、私だけクリスマスも予定ないんだー」
 聞いてもいない情報を春田は無邪気に俺へ差し出す。
「三島くんは冬休みどこか行くの?」
 彼女の言葉を当然の様に無視し、財布を取り出して小銭を掴む。道端にあった自販機の前で立ち止まり、コーヒーを買った。
「私も買おうかな」
 その独り言に付き合うでもなく、彼女を置いて歩き出すと背後で大きな声がした。
「あー! お金……ない」
 言った途端、また俺の傍に駆け寄って来た。彼女と一緒に冬の冷たい風が届く。

「三島くん」
「いやだ」
「な、何も言ってないじゃない」
「金貸せって言うんだろ? 絶対やだ」
「冬休み明けたら返すから。ね?」
「やだ、無理、拒否する」
「……ケチ」
 俺の隣で春田は口を尖らせた後、もう赤みの引いた頬を膨らませ俯いた。
「喉渇いてんの?」
「寒いから、あったかいの飲みたいの」
「じゃあこれやるよ。この前お前の飲ませてもらったから」
 一度口を付けたコーヒーを彼女へ渡す。
「……いいの?」
 嬉しそうに笑ってそれを受け取った彼女は、口に入れた途端眉をしかめ、小さな声で頭を下げた。
「あ、ありがと」
 早々に俺へ返そうとする春田の手を、ぐいと押す。
「遠慮すんなよ、もっと飲んでいいって。喉渇いてんだろ」
「え、うん」
 仕方無さそうにもう一度口へと流し込んだ彼女の顔を、少しだけ屈んで覗きこんだ。
「美味い?」
「う……ん」
「じゃあもっと飲めば」
 ブラックのコーヒーを両手で握ったままの春田が、上目遣いで困ったようにすぐ傍にいる俺に向かって呟いた。
「ちょっと……苦い」
 彼女の表情と言葉に思わずふき出してしまい、笑った顔を見られたくなくて顔を逸らす。ごちそうさまと呟く春田の手元から缶を奪い、すぐに飲み込み誤魔化しで埋めた。

「私ね、あの自販機で当たりが出たことあるんだよ」
「……へえ」
「それでね、どれにしようかって迷ってたら、時間がかかりすぎたみたいで結局元に戻っちゃったの」
「お前どんだけ馬鹿なんだよ」
「馬鹿じゃないよ、真剣だったんだよ」
「あんまこっちくんなよ。馬鹿が移る」
「う、移るとかすごい失礼……!」
 春田は俺の鞄をその小さな手のひらで叩いた。一瞬だけ、胸がよくわからないもので締め付けられたのを咄嗟に否定する。

 春田は……俺の一番苦手な種類の女だ。
 人の気持ちもお構い無しにずかずか入り込んできて、都合が悪くなればすぐに謝り、何でも笑って言えば済むと思っている。
 好きでもない男と付き合って、こうして付き合ってもいない男の傍に纏わり付いてくる。いくら冷たくしても、それが何でもないことの様に。
 そんな彼女へ軽蔑の眼差しを向け、苛つきと煩わしさと渇きを覚えた俺は、見失いそうな自分を打ち消そうとしていた。

 絶対に、受け入れたくは無い存在だった。



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