泥濘−ぬかるみ−
(3)舌先
最近、深夜ラジオにハマって昨夜も全然寝てないから早く帰りたいんだよ。
春田が口にした台詞を、眠い頭でぼんやりと思い出す。
緊張? 何に緊張するんだよ。俺と二人だから、という以外に理由なんて見つからない。
遠くから足音が近付いてくる。重い瞼を上げようとした瞬間、突然熱いものが頬に触れ、驚きのあまり飛び起きた。
「!」
「あ、起きた、起きた」
顔を覗き込んできた春田は、目の前で楽しそうに笑っている。
何なんだこの女。思わず頬を押さえ彼女を睨みつけた。
「大丈夫だよ。今日寒いから、もうだいぶ冷めてたよ」
どうぞ、と俺の前に缶コーヒーを置いた春田は自分の椅子へ座った。
「眠かったの?」
「……」
「ごめんね。そんなに熱かった?」
俺の沈黙に春田は肩を竦めて自分の飲み物に口をつけ、ごくんと飲み込み唇を舐めた。
「何それ」
「え? あ、これ? コーンスープ」
「俺、それがいい」
「でも口付けちゃったよ?」
「連続でコーヒーは飲めない」
「あ、あ……そうか。そうだよね。じゃあもう一本買ってくる」
慌てて立ち上がろうとする春田の腕を掴む。セーター越しの思っていたよりも細い腕に戸惑ったのを掻き消すように、強い口調で言った。
「だからそれでいいって。一口でいい。そんなに喉渇いてないから」
「うん。私はいいけど、いいの? それになんかこれ、あんまり温まってなくてぬるいよ?」
スープの入った小さめの黄色い缶を受け取ると、彼女が言った様に生温かさが口の中へ広がった。
「美味しい?」
「……別に」
「え、そう? 私それ結構美味しいと思うな」
彼女は一口飲んだら自分に返される筈の、俺の手元にあるそれを見つめている。その時、快さを覚えた感情が再び胸の内に現れた。
あの、表情が見たい。
もう一度口を付け喉の奥へと流し込む。どうしてもこれが飲みたかったわけじゃない。
「はい。ごちそうさま」
「うん……あれ?」
渡された缶を持ち、春田は狭い穴の中を覗く。
「ん?」
俺が口を付けたそれを上へ傾け、もう一度唇を寄せている。ほんの少しだけ残ったスープが、彼女の半開きの唇から覗かせた舌先へと零れ落ちた。
「……ちょっとしかなかった」
残念そうに言ったその顔に、芽生えていた感情は期待に漏れず満足し、肘を着き両手を顔の前で組んでいる俺の口元に笑みを浮かべさせた。
「あ、そう? ずいぶん少なかったんだ」
「うん……そうだね」
「俺もう帰るけど」
「あ、私も帰る」
学校の門を出、坂道を下り、駅へと向かう。
その途中ずっと春田は俺にあれこれと話しかけてきた。鬱陶しいし、やはり好きにはなれない。
地下鉄も同じ方向で、一緒の電車に乗る羽目になる。空いている車内の座席へ座ると、何故か春田は俺の前に立っていた。
「空いてんだから座れば」
「う、うん」
春田は中途半端に間を空けて俺の隣へ腰を下ろした。
「迷惑だからこっち来いよ」
「……」
近付いた彼女の制服のスカートの端が、俺の制服のズボンに重なる。電車が揺れるたびに膝の上で鞄を押さえている春田の肘が俺の腕に当たる。あれだけベラベラと話しかけてきた彼女も、今は俺の横で別人の様に黙り込んでいた。
車両の中は、教室で口にした彼女の生温いスープの様に、眠気を誘う暖かさで満たされている。
春田は三つ目の駅で席を立った。
「三島くん、あの」
頭の上から声をかけてきた彼女を見上げると、俺が嫌がってるのなんか夢にも思わないような、何の疑いも無い面持ちをこちらに向けていた。
「ありがとう。本当に。また教えてもらってもいい?」
「……暇があったら」
「うん! じゃあね」
急いでドアに駆け寄り、ホームへ降りたと同時に彼女は俺に手を振っている。さっきから気に食わない、その笑顔で。
電車が動き、春田の姿が視界から外れた途端、彼女へと送っていた作り笑いをやめ、不機嫌になった頬に手を当て目を閉じた。
……何か、飲みたい。鞄の中に無理やり彼女から押し付けられた缶コーヒーが入っていることを思い出す。
気付けば俺も、喉がカラカラに乾いていた。
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