泥濘−ぬかるみ−
(5)感触
冬休みも明けた二日目。一時限目の授業は、三十過ぎの酒井という女教師の古典だった。
朝から虫の居所が悪いらしく、癖のある言葉尻が耳につく。皆それに気付いているのか、その矛先が自分へ向かわないよう、いつもよりは静かに、けれど教師の話を真剣に聞くわけでもなく、それぞれ何かをしながらやり過ごしていた。
俺も例に漏れず参考書でも開こうかと鞄に手を掛ける。と同時に教師の不機嫌な声が隣へ届いた。
「春田さん」
「あ、はい」
「何携帯いじくってるの」
「え……いじってません」
春田は驚いて教師の顔を見た。彼女の手元を見ても、本人の言う通り何も持ってはいない。手を膝の上に乗せ、俯いていたせいで教師からはそう見えたようだった。
「授業中は禁止でしょ? またやったら取り上げるから」
「……私触ってないです」
「いいから次読んで。128ページの三行目」
春田は慌てて教科書をめくり、言われた箇所を読み始めた。
酒井に注意されてから暫くして、春田が小さな声で俺を呼んだ。彼女は初めてここで言葉を交わした時と同じ様に、おどおどした瞳で俺を見ている。
「なんだよ」
「あの、あのね」
「……」
「やっぱいいや、ごめん」
しばらくして、また春田の視線を感じた。三橋は休みで彼女の席はいつもより視界が開けている。
「なに」
「……これ」
紙を渡されそれを開くと、彼女の文字が目に入ってきた。
「え」
驚きの為思わず声を上げてしまい、途端女教師の金切声がこちらへ投げられた。
「春田さん何なのさっきから! 三島さんも」
身を縮めて俯く彼女は、再び周りの視線に晒された。
「聞く気が無いなら出て行きなさいよ。邪魔!」
ヒステリーが。
すみませんとか何とか言えば気が済むんだろうけど、そこまでしてお前の授業なんか聞きたくないんだよ。
「……」
黙って立ち上がり、自分の椅子を蹴った。
引き攣っている女教師の表情が目に浮かび、笑い出しそうになるのを堪える。確認するのも億劫で、醜い顔になっているだろう酒井を振り返りもせず、そのまま教室を出た。
携帯は持ってる。ズボンの後ろポケットに財布も入っているから、校外に出ても構わない。けどあの教師のせいで次の授業に支障が出ることだけは許せなかった。
だからといって使っていない教室に行くのも、校長だの教頭だのが巡回に来た時、理由を説明する事自体煩わしい。
舌打ちをし、仕方なく別校舎の屋上へ向かう。
寒い渡り廊下と四階へ上がる階段を、後ろから足音がついて来る。
悪いと思っているのか、いつもの様に纏わり付いて声をかけてくることも無い。今までならその足音にすら不快を感じていたのに、今日は不思議と何も思わなかった。
屋上へ出て柵の前の乾いたコンクリートへ座り込み、携帯でゲームを始めると、彼女が俺の傍に腰を下ろし膝を抱えた。
「三島くん、ごめんなさい」
「別に。あいつの授業、今日は聞きたくなかったし」
「……」
手を動かしながら振り向きもせず答える俺を、春田は黙って見ている。
「お前さ、ああいうことは自分の彼氏に言えよ」
「……うん」
「授業中に言う事じゃないだろ」
「……うん」
「だいたい何でいちいち俺にあんなこと」
「ごめんね。ほんとに」
春田が泣き出したのがわかり、不機嫌さを露にしながら仕方なく携帯を閉じてポケットへとしまった。
「ホームルームまでは気も紛れたの。でも授業が始まって静かになったら、急に思い出して怖くなって……誰かに聞いて欲しくなったの」
小さな手で涙をごしごしと拭っている。
「みっちゃんも休みだし、どうしようって下向いてたら……先生に注意された」
カーディガンを着ている彼女の肩が小刻みに震えた。
「泣くなよ、鬱陶しい」
俺の言葉にうんうんと頷きながら彼女は口を引き結び、これ以上泣くのを堪えている。
「何されたんだよ」
「……隣に座ってきて、手握られた」
「あとは」
「足も……くっつけてきて、でもすぐ駅に着いたから立ち上がって、走って学校に来たの」
「他の生徒は?」
「今日いつもより随分遅れたから、あんまりいなかった」
これまで感じていたものとは違う苛立ちが込み上げ、彼女の手のひらを見つめた。
「どっち」
「え?」
「手と足。触られたほう」
「……こっち」
差し出された左手を掴んで隣へ座り、俺の右足を春田の左足に隙間無く押し付ける。彼女は俺の隣で身を固くした。
「どんくらい。触られた時間」
「5秒……くらい」
「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10!」
「……」
春田は俺の声に驚き、口を開けたまま茫然としている。
「俺と痴漢とどっちに触られるのがまし」
「……三島くんの方がいい」
「じゃあこれでいいだろ。俺の方が後から倍も長く触ったんだから、朝のは忘れろ」
手と身体を離すと、彼女は泣き笑いの顔で涙を拭った。
「ありがとう、三島くん」
「いつまでも隣でうじうじされると迷惑なんだよ」
「うん。もう、平気」
「今日乗った電車の時間ずらして、葉山に朝来てもらえよ。一緒に登校すれば」
「反対方向なの。朝練もあるし」
「毎日?」
「ううん。週二くらい」
「お前が頼めばあいつだって来るだろ。葉山が来れない時は、」
俺が、と言おうとした喉の奥を塞ぐ。
「……誰か友達と一緒に行けよ」
「うん。そうする」
暫くして落ち着いたのか、彼女は冬晴れの空を見上げて言った。
「今日あったかいね」
「……ああ」
「さっきね、三島くんが教室出た後、飯島くんがひゅーって言ってたよ」
「ふうん」
「女の子たちもね、やった! って小声で言ってた。酒井先生、女子には特に厳しいんだもん」
「お前よくそんな中で教室出てきたよな」
「だって……私も出て行けって言われたんだから、三島くん一人で行かせられないよ」
春田は俺と目を合わせ微笑んだ。
気に食わない、あの笑顔とは違う。その戸惑いに理由をつけたくない俺は、顔を逸らしてズボンのポケットに手を突っ込み、彼女の思いを探った。
授業中春田に渡されたメモを取り出し、立ち上がる。同時に彼女も俺の隣で柵に寄りかかった。
メモを小さく千切りながら柵の外へまくと、それはひらひらと風に舞い上がり、どこまでも飛んでいく。
「雪みたい」
紙切れを見つめる涙の乾いた幼い横顔に胸が痛み、彼女に触れた右手を強く握り締め、気付かれないよう、その感触に耽っていた。
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