「何か、いる」
 眼下に広がる暗い海を見つめ、薫が呟いた。不思議に思った糸子も、そちらへ視線を投げる。海の表面を大きな生き物が跳ね、その拍子に末広のような尾ひれが見えた。
「あれは……!?」
「人魚さまかもね」
「……人魚、さま」
 薫が見せてくれた本に描かれていた人魚さまの姿が脳裏に浮かぶ。
 下半身は魚、上半身は人に似ているが、顔の造りは魚である。耳元まで裂けた大きな口を、鯉のようにぱくぱくとさせているのだ。
「マサは人魚さまに喰われたのかもしれないな」
 くすりと笑った薫の横顔は、何故か悲しそうに見えた。答えられずにいる糸子の顔を薫が覗き込む。
「怖い?」
「こ、怖くなんかないわ」
「違うよ」
「何が違うの?」
「人魚さまのことではなく、僕のことだ」
 踵を返し、脇差を鞘に納めた薫は糸子の背にそっと手を当てた。元来た道を促された糸子は彼とともに歩き出す。
「僕が怖いだろう、糸子」
「お兄様を……? 何故そのようなことをお聞きになるの」
「勇夫もマサも、糸子に酷いことをした奴らではあるが、お前の目の前で僕の手によって殺されている。人殺しを怖がるのは当たり前の感覚だろう?」
「お兄様を怖いなどと思ったことはありません。私の為になさったことですもの。そうでしょう?」
 勇夫の心臓が貫かれようが、耳を削ぎ落とされたマサが海へ投げられようが、助けに来てくれた薫を怖いとは微塵にも思わなかった。
「……行こう」
 目を伏せて微笑んだ薫は、再び糸子の手を握って先を急いだ。

 洞窟前に戻り、灯りを消して置いておいたらんぷを薫が手にした。誰の気配もしない。人魚塚の上空で鳴いていた海鳥も、いつの間にかどこかへ行ってしまった。
 屋敷へ戻る道は使わず、森へ足を踏み入れる。しんとした森の中で、糸子と薫の落ち葉を踏む足音だけが聞こえた。月明かりが木々の間から細い光を地面へ落としている。潮の香りは消え、湿った土と草の匂いだけが鼻を突いた。
 平坦な道を終えて、坂の続く山道をひたすら登っていく。無言で歩き続ける兄に手を引かれて必死についていく糸子だが、この数か月ろくに外を歩いていないせいか、すぐに息が上がってしまう。せめて草履ではなく、女学校で履いていた短靴であれば、もっと早く進めただろうに。
「どこへ行くの、お兄様」
 息を切らしながら、糸子は小さな声で薫に問いかけた。
 夜が深まるにつれて、辺りの冷えた空気が二人の体を覆っていく。
「堂島家へ戻る前に調べたいことがあるんだ。ただ、今動き回るのは得策じゃない。もうしばらく歩くが、身を隠して休める場所がある」
「堂島家へ、帰るの……?」
 糸子をこの漁村へ送り込み、汚らわしい儀式の贄に差し出した堂島家。母を死に至らしめ、薫と糸子を離れ離れにさせた、あの場所へ帰る……?
「お前を不安にさせるものは何一つ残ってはいないから大丈夫だよ」
「……」
「今、堂島家にいるのは大野さんだけだ。男爵も奥様も勝太郎もいない。安心おし」
「皆、お出かけになっているのね」
 糸子に返事をするでもなく、薫が彼女の前にしゃがみ込んだ。
「この先はもっときつくなる。おぶってやろう」
「でも」
 兄の腰に差している刀が気になった。相当の重さがあるであろう。そして一体どこから持ち出した刀なのか……
「どうした?」
「いえ。あの、私……重いもの」
「糸子一人くらいどうってことないさ」
 小さく笑った薫は糸子の手を引き、半ば無理やり自分の背に乗せた。としつつも、立ち上がろうとした薫の足元が一瞬よろけてしまう。
「おっと」
「ご、ごめんなさいお兄様。降りるわ私」
「大丈夫だよ、油断しただけだ。まさか本当に、こんなに重くなっているとはなあ」
「もう、お兄様ったらひどい」
 おどけた言い方をした薫に、糸子は手を拳にして軽く彼の肩を叩いた。
 一瞬だけ以前の二人に戻れたことに、糸子の不安は少々取り除かれた。兄の肩に手を置き、さらりとした彼の黒髪を見つめていると、忌まわしい出来事の数々が嘘のように思えてしまう。

 どれくらい山の中を進んだろうか。
 上ったり下りたりしているうちに、兄の言う場所へと辿り着いた。ここもまた洞窟である。糸子はようやく薫の背から降り、彼について自分の足で歩き始めた。途中、何度も兄の背を降りると申し出たが、彼はそれを許してはくれず、結局甘えてしまったのだ。糸子を背負い、汗を流しながら黙々と進む兄は、何かに取りつかれたように前だけを見ていた。
 先ほどの場所は広がりのある洞窟であったが、薫が案内したそこは細々とした穴が長く続いている。少し進んだところで、薫が手にしていたらんぷに灯りを点け、洞窟内を照らしながら奥へ奥へと進んでいく。三叉の真ん中を歩いて行くと、どこからか水音がした。
「ここだよ」
 ごつごつとした岩壁の下で、らんぷを置いた薫がしゃがむ。糸子も彼に倣って隣に座った。
「泉の向こう側を行けば、別の谷に繋がっているんだ。その水は湯が混じっていて、冷たくはない。明日の朝、付いてしまった血を洗い流せばいい。お前の着替えもここに持って来てある」
「はい」
「明け方になるまでは我慢しておくれ。昼間は頭上から微かに外の光が入るんだ。仄明るくなるのを待って泉に入ろう」
 用心のために、と薫がらんぷの灯りを消した。暗闇の中で心細くなった糸子は彼に体を寄せ、呟いた。
「私がいなくなったことに気付いたら……」
 村人が総出で追って来るに違いない。言いかけた糸子の言葉を薫が遮った。
「いや……あの漁村にとって堂島家の命は絶対だ。勇夫の体に置いた書を見れば、僕らに手出しはできない」
「あの紙には何が書いてあったの?」
「勇夫をはじめとした村人の加わる儀式が、忌まわしいものとして他へ漏れてしまう可能性が出来た。勇夫を処分することで終わりにし、皆知らぬふりをしていろと」
 兄が来てくれなければ続いていたであろう忌まわしい儀式を思い出し、糸子は肩を縮ませる。
「勇夫の正妻は亡くなっている。妾が何人かいるらしいが、勇夫が死んでも深追いしてくる者はいない。堂島家は人魚の肉を追うために、この村にかなりの額を援助していたようなんだ。今後も援助を受けたければ黙認するはずだ」
「男爵様が、お兄様にそうしろとおっしゃったの?」
「……」
「お兄様がマサを知っていたのは」
 言い掛けて、薫の沈黙に気付く。
「ごめんなさい。お兄様を困らせるつもりはなかったの」
「いや、お前が知りたがるのは当たり前のことだ。しかし今から説明するのは時間がかかりすぎる。明日ゆっくり話すから、今夜はもうお休み。お前も疲れたろう」
「……はい」
「寒くはないか?」
「ええ」
 薫の大きな手が糸子の肩を抱き、温めるように自身の胸へと引き寄せた。


 水音に目が覚めた。
 洞窟の奥にいたはずだが薄明るく、辺りの様子がよくわかる。水音のするほうに兄の姿を確認して安堵した糸子は、改めて自分の着物を見た。白い装束は胸元から腰、袖に至るまで赤黒く染まっている。袖から覗く手首にまで付着していた。薫の言ったように、顔にもべったりと勇夫の血が付いているのであろう。
 身震いをした糸子は立ちあがり、汚れた草履と足袋を脱いで、それらの土を払った。歩いて来た洞窟は狭かったが、ここはひらけていた。天井にはいくつか隙間が空いており、地上の光が洞窟内まで降り注いでいる。壁からせり出すごつごつとした岩の陰になり、体を洗う兄の姿はところどころしか見えなかった。
 足袋を履こうか迷ったときだった。しゃがんで、ふと顔を上げると、兄の左手から二の腕までが糸子の目に入った。ずきんと胸がひどく痛む。少し離れたこの場所からでも、よくわかるのだ。小指のない彼の手の痛々しさが。
 居ても立っても居られなくなった糸子は再び立ち上がり、一歩進んで薫を呼んだ。
「お兄様」
 声に驚いた薫が顔だけこちらを向き、糸子に優しく微笑む。
「すまない。水音で起こしてしまったね。今上がるから、お前もお入り。ぬるいが、冷たい水よりはいいだろう」
 泉に佇む彼を見て、お痩せになった、と糸子は感じた。
 均整の取れた兄の体には、うっすらと筋肉が付いている。だが、剣道で鍛えていた薫は着痩せしていたとしても、ここまでではなかったはずだ。糸子は彼の上半身を見つめながら、じゃぶじゃぶとぬるい泉に入った。素早く装束の帯を取って落とし、着物の合わせをひらいて肩から滑らせ、それもまた湯に沈ませた。水分を含んだ肌襦袢と裾避けが肌にぴったりと張り付き、透けた布から糸子の体が浮かび上がる。
 そんな糸子から顔を逸らした薫が、静かに告げた。
「周りには誰もいないから安心してお入り。やはり追手は来なかったようだ。糸子が入っている間、僕が周りを見張っているから、」
「お兄、様」
 下帯すら着けていない兄の裸体へ近づくなどという、はしたない真似は恥ずべきことだ。しかし、そのようなことに構ってはいられなかった。糸子は彼の左腕に触れ、夕べから疑問に思っていたことを尋ねた。
「手を、どうされたの?」
「……」
「それに爪まで……何故? 何故こんなことに……痛くはないの?」
「ああ。痛くないよ」
 小指が失われただけではなく、爪を剥がされた指や、剥がされたあとに爪が生えかかった指がある。痛々しい彼の手から手首、腕を辿っていくと、糸子はそこに不審な痕を見つけた。肘の内側に痣がいくつもある。
「……これは? お兄様、ご病気なの? どこかお悪くてお注射をされたの?」
 青痣ではなく、薄い黄色へ変化していることから、最近のものではないとわかった。
「お前が気にすることではないよ。心配しなくていい」
「嫌よ、教えて。お兄様は堂島家で糸子の帰りをお待ちになっていたのではないの? 大學へ通われていたのではないの? どうして、どうしてこんな……!」
 泣きそうになる声を抑え、糸子は薫の腕を掴んだ。恐ろしい想像が頭を過ぎってゆく。自分が漁村で過ごしていた三月三晩を、兄はどのように過ごしていたのか。自分と同じように、いや、それ以上に酷い仕打ちを受けていたというのか。
 困ったような微笑みを浮かべた薫は、糸子の肩に手を置いて湯から上がろうとした。
「あの男ね。お兄様をこのような目に遭わせたのは……勝太郎様ね」
 許せない、と呟いた糸子は薫の前に回り込み、彼の胸へ抱き付いた。
「お兄様、私を抱き締めて」
「糸子、何を」
「糸子も同じです」
「同じ?」
「私、石女になったのですって」
「……どういうことだ」
「マサに薬を飲まされていたの。人魚さまの鱗をすり潰したお粉を」
 薫の胸から少し離れた糸子は、肌襦袢の結び紐を解き、上半身を露わにした。朝の肌寒さが白い肌を粟立たせる。
「とても甘くて美味しいの。三月三晩飲んで滋養をつけ、儀式に備えるようにと言われました。まさか赤さんを宿せなくなるお薬だとは、今朝まで知らなかった」
 糸子の言葉に眉根を寄せた薫は、彼女の瞳を凝視した。
 薫が何を思ったのか不安になる。それでも言わずにはいられなかった。薫だけではない、自分の体の変化で、少しでも彼の慰めになればいいと。
「それは、本当なのか? 僕が助けに来る前から、お前はそのような目に……!」
「ええ。だから、大丈夫なの。お兄様と体を合わせても赤さんは宿らない」
 声を詰まらせた薫の問いに糸子は頷き、彼の左手を取り、自分の頬へあてた。
「糸子を、お兄様のお手で清めて。勇夫殿に触られたところを全部、お兄様のお手で、洗い流して」
 頬から唇へ兄の手を移動させ、愛しい指を舐めた。
「さきほどのように私の口を吸って。何もかも奪って。お願い、お兄様」
 口中へ含んだ指を吸って懇願する。しばらくそうしてから、指を抜いて薫の瞳を覗き込んだ。精一杯の恋情を伝えるために。
「お兄様をお慕いしています。幼い頃よりずっと、ずっと」
「……お前の思いに」
 それは、見たことのある瞳の色だった。
「応えることだけは赦されないと、自分を律してきた」
 降り注ぐ桜の花びらの下、糸子を見つめたときの薫と同じ、切ない陰りを含んだ色を今、彼は再びその瞳に宿している。
「僕らは兄と妹だ。義理ではない、それも……同腹の兄妹だ。古来より、赦されてはいない関係だ」
 湯を掬った兄の手が、汚れた糸子の頬を洗い流す。額も、鼻筋も、唇も、顎も、首筋も、彼の手で生まれ変わってゆく。
「幸せにはなれない、と言っただろう?」
「ええ……覚えているわ」
「僕はどうなろうが構わないが、糸子をそのような道へ引きずり込むわけにはいかないと……だが、大切なお前が僕と離れたことによって不幸に落とされたのなら、別だ。僕は今、どうしようもなく、お前が憐れで愛しい。胸が張り裂けそうだ」
「お兄様」
「妹としてではなく、恋情を持ってお前を……この手に抱きたい」
 言い終わる前に薫は糸子を腕の中へ納めた。薫の唇が糸子の唇をそっと覆う。
「……僕と一緒に堕ちてくれるか」
 熱い吐息とともに、糸子の一番欲しかった言葉が、彼女の口中へ吹き込まれた。
「ええ、お兄様……!」
 糸子は両の手を彼の背中に回し、硬く熱い肌を強く掻き抱いた。
「待っていたの、そのお言葉を……! お兄様と一緒ならば構わない。茨の道も、常世の闇へも、黄泉の国までも、どこまでもついてゆきます。それが私の……喜びなの」
「許しておくれ、糸子」
 垂らしている糸子の髪をかき分け、彼女の耳を薫は口に含んだ。柔らかな耳たぶを舐めながら、大きな手のひらが彼女の乳房を包み込む。
「ああ、嬉しい、嬉しいお兄様……」
「糸子、糸子……!」
 夢にまで見た薫の手が、自分の肌に触れている。
 蔵の格子越しに浮かぶ月を見つめながら夢想した彼の指が。自分の名を呼ぶ声が。熱い吐息が。頬に触れる黒い髪が……糸子を夢の奥へと引きずり込んでゆく。

 足の間が狂おしいほどに兄を求め、泉の湯と同じ温度のぬるさを滴らせている。糸子の首筋に薫の顔が埋まり、唇の感触に喜んだ彼女は仰け反った。視線の先にある天井の隙間から薄明るい日が差し込む。瞳の中に光が溢れ、讃美歌が降りてきたようだった。味わったことのない幸福感に包まれた糸子は、このまま死んでもいいとさえ、思った。