胸から血を噴き出している勇夫は立て膝をし、両手を熊手の様な形にしたまま静止している。仰向けに寝ていた糸子は勇夫の陰に位置しているため、向こう側に誰がいるのか見えない。
背を逸らして、口をぱくぱくとさせた勇夫の後ろから、ギラリと何かが閃いた。刀と思われるそれは勇夫の首横、右側から入り、肉と刃の大きな摩擦音とともに左脇腹へ抜けていった。
袈裟懸けに斬られた勇夫の体が、前のめりにどさりと倒れ込み、糸子に覆い被さった。彼女の白装束は瞬く間に勇夫の血の色へと染まってゆく。
信じられない光景と衝撃、そして勇夫の重みを受けた糸子の肩が、激しい呼吸によって上下に動く。洞穴の天井を見つめながら思った。誰が、そこにいるのだろう。勇夫の次は自分の番なのか。斬られる前に、穢されてしまうのかもしれない……
呼吸を無理やり整え、僅かに顔を動かして、勇夫の肩越しへ視線をずらす。らんぷの灯りに照らされた、こちらを見下ろす黒い着物姿の人と目が合った。吸い込まれるような眼が糸子の心臓を掴む。
そこにいたのは糸子の兄――薫であった。
黒い着物に黒い袴を穿き、首元の長い襟巻も黒だった。いずれも夜に溶けそうな漆黒の色だ。薫は右手に日本刀を携え、腰に脇差しを差していた。彼の瞳に映るランプの炎が揺らぐ。
これは、夢なのだろうか。
兄を求めるあまり、幻覚を見ているのだろうか。
そうに違いない。このようなところに兄がいるわけがない。何故なら彼は、堂島家で糸子の帰りを楽しみに待っていると、手紙に書いて寄越したではないか。
思いとは裏腹に、懐かしい瞳に誘われた糸子の唇から音が零れた。
「……あ」
糸子の声と同時に、薫は勇夫を蹴飛ばし、彼女の上から除けさせた。布団に転がり落ちた勇夫の体が、再び動かなくなる。解放された糸子はゆっくりと体を起こした。目の前でしゃがんだ兄を、呼ぶ。
「……お、お兄……ん、んんっ!」
途中で唇を塞がれた。かつて経験した春風のようなそれとは、まるで違う接吻。強く押し付けられた唇から這い出た兄の舌が、糸子の口中を舐め回している。
勇夫に覚えた嫌悪感とは真逆の甘美な感覚になすがままにされていると、そっと顔を離した兄が囁いた。
「声を上げないでおくれ。この男の他に人は?」
薫の声が糸子の胸を熱くさせた。夢ではない。確かに今、彼がここにいる。糸子は頭を横に振り、他に誰もいないことを無言で伝えた。
「そうか」
安堵した顔を見せた薫は、ほっと息を吐きながら糸子の頬を撫でた。
「着物を汚してしまったね。お前の可愛らしい顔も。すまない」
長く綺麗な指が糸子の頬の線を、労わるように往復する。ぬるりと滑る血生臭いはずの感触は、彼の手によって艶めかしさへ変えられたように感じた。
「糸子」
氷のごとく固まっていた糸子の体は、兄の声と眼差しを受けて、ゆっくりと融け始めた。
「糸子……!」
黒い着物の胸に強く引き寄せられる。変わらぬ兄の高貴な香りを吸い込み、温もりを確かめた。
「お兄、さま」
「ああ」
「本当に、お兄様、なの?」
「本当だよ。お前を迎えに来たんだ、糸子」
得も言われぬ感情に包み込まれた糸子の瞳から、どっと涙が溢れ出した。
「お兄様……お兄様……!」
「怖かったろう。もう大丈夫だ」
兄の胸にしがみつき、黒い着物へ涙を擦り付ける。応えるように、薫の手が糸子の髪を何度も撫でた。
「糸子」
「……はい」
「もう少しこうしていたいが……誰かに気付かれたら面倒だ。一刻も早くここを出よう。歩けるかい?」
糸子から離れて立ち上がった薫は、刀を一振りして血を払い、懐紙を取り出し刃を拭った。刀を鞘へ納めた薫は血の付いた懐紙を畳み、倒れている勇夫の着物の袖へ入れる。もう一枚の紙を取り出した薫は、それを広げて、うつ伏せの勇夫の背中に載せた。何やら文字が書いてあるようだが、薄暗がりの中では読み取れない。
兄の流れるような一連の動作をぼんやり見ていた糸子は、深呼吸を二度して腰を上げた。まだ微かに震えてはいるが、どうにか歩けそうだ。
傍に揃えておいた草履を履く。兄は岩の上に置かれていたらんぷを持ち、周りを灯しながら糸子の手を引いて歩き始めた。土と草履の擦れる音がやけに耳につく。洞穴の壁に映る自分たちの影が大きく揺れている。ふと、繋いだ手に違和感を覚えた糸子だが、今は薫についていくことだけに集中し、歩き続けた。
しばらくして振り返れば、勇夫の姿は闇に溶け、何も見えなくなっていた。
洞穴の入口で横たわった何かが蠢いていた。
マサだ。彼女は後ろ手にされた両手首と、両足首は縄で縛られている。糸子がこの村に連れてこられた夜、目を開けたときの格好と同じだ。
猿ぐつわをされているマサは目玉をぎょろりとさせ、こちらを見た。唇と手拭いの隙間から、老婆の濁った唸り声が漏れ聞こえる。
「聞きたいことがある」
マサに近づいた薫の声が夜のしじまに響いた。
「お前は……マサだな?」
老婆の目が、かっと見開く。傍にしゃがんだ薫は、マサの足首の縄だけを解き、彼女の腕を掴んで立ち上がらせた。
「歩け。人魚塚へ案内しろ」
ふーふーと鼻息荒く薫を睨んだマサは、彼に背中を押されながら、その場所へ向けて歩き始めた。少し歩いた場所に倒れていた二人の男は微動だにしない。それはシゲとナオミのようだった。
兄は右手でマサの背中を掴み、左手は糸子の手を握っている。薫はマサの何を知っているのだろうか。勇夫は薫の手によって、死んだ。マサを縄で縛ったのも、シゲとナミオに手を掛けたのも、もしや薫なのであろうか。兄はどのようにして、ここまで来たのだろう。
様々な疑問が糸子の頭を逡巡した。歩みを止めようとするマサを、薫が半ば突き飛ばすがごとく押し進める。糸子の知る穏やかで優しげな薫は、そこにいなかった。
のろのろと歩む三人の行く手に、彼岸花の海が現れた。
何ということだろう。その紅い花は、以前糸子が見た時よりもさらに勢いを増し、すそ野を広げて咲き乱れている。
人魚塚の石碑の前で立ち止まる。石碑の向うでは、暗い海の波間に落ちた月明かりが真珠を転がしたように輝いていた。彼岸花と相まった幻想的な雰囲気に身も心も呑み込まれそうである。
「人魚の肉をどこへやった」
マサの猿ぐつわを外した薫が問うた。
「お前が、純子お母さまの父である僕らの祖父を、そそのかした女だな? お前は、僕の祖父が見つけた人魚の肉を欲しがる村人に毒を盛り、肉を食べたことにして殺した。人魚の肉ではなかったのだと、僕たちの祖父母をホラ吹き者として処分に追い込み……お前が人魚の肉を奪った」
「……」
「糸子や僕を犠牲にした契約を堂島家と結んだのも、お前だな?」
「誰ぞ!! ぐぁ……っ!!」
夜空に向けて叫んだマサは、言葉の途中で薫に突き飛ばされ、彼岸花の上に転がった。
「大声を出していいと誰が言った」
紅い絨毯の上を踏みしめて一歩前に出た薫は、マサの耳を掴み、顔を上げさせる。
「う、うう」
「僕の言葉が聞こえないのなら、こんなものいらないな」
薫の腰から抜かれた脇差しに月明かりが反射する。その鈍い光は……容赦なく老婆の片耳を削ぎ落とした。
悲鳴を上げたマサは花の上をのたうち回った。堂島家の森に飛ぶカラスのごとく、ぎゃあぎゃあと喚き散らしている。
「次は耳どころじゃ済まないよ? 人魚の肉は、この人魚塚に隠したのではないのか?」
冴え冴えとした冷たい声とともに、転げまわるマサの着物の袖を刃先が捉えた。地面に突き刺した脇差しに固定され、マサは身動きが取れなくなる。
「早く言え」
「ひい、耳が痛い、痛い!」
「では斬る」
薫は脇差しを地面から抜き、大げさに振り上げて見せた。一歩下がって彼らを見守る糸子は、希薄な輝きを放つ刀を手にした薫に、この世のものとは思えぬ畏怖を感じていた。何と美しく、近寄りがたい姿なのだろう、と。
「し、知らな、い!」
息も絶え絶えにマサが声を上げたが、薫の表情は変わらない。
「僕は嘘吐きが嫌いなんだ」
「本当に、知らない、のだ……! 私は、旦那様の為に人魚さま、の、肉を手に入れようとしたが、純子一家が、どこに隠したのか、わからずじまいで、あった」
「旦那様というのは、あの屋敷の先代のことだな?」
糸子がこの三月過ごした蔵のある屋敷のほうを、薫が指さした。遠くにある大きな屋敷から漏れる明かりが、ここからも微かに見える。
「洞穴の奥にいたのは現当主、勇夫だろう。お前が今言った旦那様というのは勇夫の父、先代のことで間違いないな?」
「……そうだ。何故、それを知って……う、う」
マサは会話の途中で幾たびも痛みに悶えた。
「訊かれたことだけ答えればいい。もう一度訊く。僕らの祖父母を罪人として追い込んだのは、お前なんだな?」
「……」
「正直に言えば、この後のことを考えてやってもいい」
薫の言葉を受けたマサの表情が一瞬で卑しく緩み、たるんだ口元が動いた。
「そうしなけれ、ば、私が、村から追い出されて、いたのだ」
「そうか」
冬の始まりの冷たい潮風が彼の声に共鳴する。黒い襟巻の先が鳥の羽のようにはためいた。
「お前の口から、その言葉を直接聞きたかったんだ。これで躊躇いなく、お前を処分できるよ、マサ」
「な、何を……!」
薫の笑顔は完璧であり、慈悲すら漂わせていた。
「話が違う! た、助けてくれ……!! 誰ぞ、誰ぞーー!!」
「叫んだって誰も来ないよ。入り口で待たせていた二人の男以外は、あの屋敷でどんちゃん騒ぎしているじゃあないか。糸子を慰み者にするのを順番待ちしながら……!」
糸子の名を口にした途端、冷静さを欠き、声を震わせた兄に、糸子の胸が締め付けられた。兄が自分のために憤っている。自分を助けるために勇夫の命を奪い、マサをも同じ目に遭わせようとしている……!
「糸子へこんな仕打ちをしておきながら、許されると思っているのか。お前がいなくなっても僕らは塵も困らないんだ」
先ほどの接吻は糸子に声を上げさせぬ為だと理解していても、沸き上がる興奮と怖れと喜びがない交ぜになり、彼女を掴んで離さない。
「わ、私を、殺せば、人魚の肉の在処はわからぬぞ!」
「知らないと言ったばかりじゃないか。どのみち調べは既についているから、今更あがいても無駄だよ」
「調べはついて、いる……?」
失望するマサへ、薫が優しげに微笑んだ。
「助かるかもしれないという希望を一度手にしてからのほうが、死の恐怖を味わえるだろう?」
「ひ、ひい……っ!」
どうにか起き上がって駆け出そうとするマサの着物をひっつかみ、薫は低い声で呟いた。
「消えろ」
薫に投げられた老婆の、ああ、という叫び声がその老体とともに黒い波間へ落ちてゆく。夜だというのに、数羽の海鳥が彼岸花の上を飛んでいた。
海鳥の鳴き声が届いた瞬間、糸子は先ほどから覚えていた違和感の正体を知った。一歩前へ進み、崖に佇む兄を後ろから凝視する。
洞穴から人魚塚へ来るまで、糸子の手を握っていた薫の左手。
彼女が思い慕う、彼の美しい手の小指が……ない。