足首には縄が食い込み、縄の先には重しが付いていた。膝は擦り剥け、血が滲んでいる。
糸子は夕刻、風呂場へ行く直前に逃げ出すことを試みた。あと数日で儀式の日が訪れるとマサに告げられた彼女は、いよいよ迫った現実に耐え切れなくなり、衝動的に行動したのだった。
裏手を滅茶苦茶に走り、以前逃げ出そうとした垣根とは別の場所へ行きついたが……そこまでだった。再び男たちに取り押さえられて蔵へ戻った糸子の片足に、重りの付いた枷がはめられた。
「まだ走り回れるお力が残っておったとは」
蔵へ夕飯を運ぶマサが大きなため息を吐いた。
「どんなことをしても逃げられないと申したはず」
「信じられないの」
糸子の呟きにマサが眉をしかめた。マサは飯椀を載せた盆を糸子の前へ置くと、炭十能に載せた火の付いた黒炭を火鉢に入れ始めた。
「信じられない、とは?」
「お兄様は本当にご無事でいらっしゃるの? 私と同じようにどこかへ閉じ込められているということはないの?」
兄の無事と引き換えに、ここに留まらねばならないが、嘘であれば意味がない。儀式を数日前に控えた糸子は証拠が欲しかった。これから自分の身に起こることに、どうにか理由を付けたい。
なるほど、と頷いたマサは火の付いていない炭を火鉢へ加えた。途端に、ばちんばちんと湿気を弾く音が響く。
「そろそろ、そのような疑問を持たれるだろうと思っておりました。これで納得されるか」
懐に手を入れたマサが何かを差し出した。
「何の紙?」
「中をご覧ください」
封筒を受け取り、既に開いている封から折りたたまれた紙を取り出した。
「あ!」
紙をひらいた糸子の瞳に、みるみる涙が溜まってゆく。それは兄……薫からの手紙であった。
「お兄様……! ああ、お兄様……お兄様の字だわ!」
ぽろぽろと涙を零した糸子は、兄の確かな筆跡を見て彼の無事に心底安堵した。
「では、おやすみなさいませ」
「ま、待って。どのようにして、これを?」
「余計なことはお聞きにならなくてよい。これで、信じられますな?」
「……ええ」
「何度も申し上げたように、あなたさまの兄上の無事と儀式は引き換えでございます」
踵を返したマサは蔵を出て行った。
蝋燭の灯りは揺れることなく一定の光を灯し続けている。その明かりの下、糸子は兄の文字を必死で追った。
糸子、元気でいるかい。
花嫁修業はつらくはないか。そちらで良くしてもらっているか。相手の方はお前を幸せにしてくれそうか。
僕にはお前の詳細を知る術がない。だからこうして手紙を書いた。
僕は元気でいるよ。今は事情があって堂島家から直接大學へ通っている。糸子に教えてあげたい面白い話がたくさんあるんだ。
師走になる前には、糸子が一度こちらへ戻ってくると聞いた。そのとき一緒に買い物にでも出かけないか。美味しい洋食屋へ行こうか。前に約束したレエスのハンケチでも買おうか。
風邪など引かないよう体に気を付けて、そちらのおっしゃることをよく聞いて、花嫁修業に励むのだよ。
糸子に会えることを、この上なく楽しみにしている。 薫
「お兄様、お兄様……会いたい。糸子も、お兄様にお会いしたい。あなたのお声が聞きたい」
糸子は手紙に頬ずりをし、流れる涙を指で拭った。手紙から兄の香りがするようで安心する。同時に、胸が押し潰されそうに酷く痛んだ。
次に兄に会うとき、自分は男たちに穢された身となっている。
どうにか儀式を終わらせて兄に会いたいと思っていた。一目でいい、薫の顔を見たかった。だが、穢れた自分を知られるのは、この上ない地獄だ。
――儀式が終わったら、死んでしまおうか。
目的さえ果たされれば、自分が死のうが行方知れずになろうが、兄に危害はいかないであろう。この手紙を手に海へ身を投げ、兄への思いを道連れに泡沫と成り果てるのが一番よいのではないか。
その思い付きに苦笑した糸子は、畳の上へゆっくり横たわった。傍に畳んでおいた薄い布を体に掛ける。重しが付いているほうの足が上手く動かず、上半身だけを動かし体勢を整えた。
「……お兄様、許して」
手紙を片手に持ち、もう片方の手で着物の裾をまさぐった。薫を思い浮かべながら糸子は瞼を閉じる。
糸子。糸子。
優しく甘い薫の声が頭の中に響き、糸子の心を体を支配してゆく。
「お兄様、もっと……」
誰にも聞こえないほどの小さな声で薫を呼ぶ。
「あ、あ……」
暗い水底へ沈んでいくかのようだった。何も見えず、何も聴こえず、ただ揺らいでいる。いわれのない寂しさと切ない恋心がない交ぜになり、糸子は何度も熱いため息を吐いた。指先はとうに水浸しで、そこがひたすら兄を求めていることを教えられる。
「私、もう……あっ、ああ」
利己を優先させて兄を道連れにするのは罪深いことだとわかっている。だが、こうでもしなければ糸子の心は今すぐにでも壊れてしまいそうだった。
「お兄、様……!」
ただ一度の兄との接吻を思い浮かべ、糸子はこのふた月弱の間で覚えた快楽に身を投じた。濡れそぼった蜜の奥から全身へ快感が駆け巡り、股座から足先までがひくひくと痙攣している。
虚ろな視線を向けた先にあったのは、高い格子窓の外、暗闇に浮かぶ丸い月であった。
翌日、マサの監視のもと、糸子は兄へ手紙を書いた。
自分は息災であり、日々、楽しく過ごしていると。
余計なことを書かぬようにと約束させられたが、言われるまでもなく自分の状況などしたためる気にはなれなかった。兄を心配させてはいけない。兄に何かあっては、ならないのだから。
+
「これで最後のお薬です」
三角に折られた白い紙と白湯を渡された。
天気の良い冬の始まりの朝は清浄な空気に包まれていたが、糸子の心は今にも雨が降りそうな雲のごとく重い灰色に覆われていた。
「今日が儀式の日、ということなのね」
「さようにございます。儀式は今夜執り行われますが、祝いの膳は昼にご用意いたします。その後、風呂へ入り、よくよく御身を清めてくださいませ」
糸子は返事もせずに一気に粉薬を白湯で飲み干した。初めて飲んだときから変わらず、甘く上品な味が口中に残る。
「お体に変化などございますか」
空の湯呑を受け取ったマサが訊ねた。
「特に何も……あ」
「何か?」
「い、いいえ」
体の変化といえば、ここに来てから月のものがない。体調に関わらず、精神的に疲れたときなどは月のものが遅れることは過去に何度もあった。今もきっとそうなのだと自分を納得させようとしたとき、マサがにやりと笑った。
「薬がよく効いたようで」
「?」
「あなたさまが今思われたことは、月のもののことではございませぬか」
マサの眼球が光ったように感じ、糸子の胸がどきりとした。
「ここへいらしてから一度もございませんな?」
「ええ、まあ」
「それはようございました。儀式を前に効かぬようでは困りますからな」
「どういうこと?」
「赤子が宿らぬお体にして差し上げたのです」
「……え」
「人魚さまの鱗をすり潰した粉。そのお薬は石女になっていただくためのものであり、三月三晩飲み干せば、その後一生赤子を授かることはございません」
淡々と告げられたマサの話は、糸子の喉をからからに乾かし、言葉を詰まらせた。
「う、嘘よ」
「嘘などではございませぬ。人魚さまの肉は不老長寿の妙薬だが、鱗は人を宿らせない。そう言い伝えられております。実際、薬を飲んで石女なった者もいる」
呼吸が乱れ、動悸が激しくなり、頭が痛む。あの甘く美味しい粉が、自分の体を変化させたというのか。
「それとも、儀式の際に男衆の子を宿したかったと言われるか?」
言葉を失った糸子は、首を横に振るのが精いっぱいであった。立ち上がったマサが鼻を鳴らして糸子を見下ろす。
「あなたのような家の者の血を、この世に残すことなど許されぬ。人魚さまの肉を利用しようとした不届き者の血など……!」
憎悪を剥き出しにしたマサの形相は、糸子の全身を震え上がらせた。
洞穴の入口から最奥までは結構な距離があった。十一月も末の外は寒いが、意外にも洞穴の中は暖かい。風が入らぬせいであろうか。
洞穴の入口でシゲとナミオはマサに待機を命じられた。
白装束を着た糸子はマサに連れられ、以前案内された人魚塚の傍にある洞穴、儀式の場所へと入った。八畳ほどの場所一面にゴザが敷かれ、その上に白い布団が二組敷いてある。糸子は草履を脱ぎ、布団の上で正座をした。
「すぐに旦那様がいらっしゃる。粗相のないようにの」
マサは腰掛のように張り出した岩の上へらんぷを置いた。背負っていた湯たんぽを布団の中へ入れている。
「旦那様のあとにシゲとナミオ、その後も順に男衆がここへ参る。皆、一度では済まないであろうから、明日の夜中までかかるかもしれませぬ。せいぜい気を失うことのないよう、お気を付けなさりませ」
「……」
「全てが済みましたらば、お迎えに上がりますので」
「……本当に」
両手で自分を抱き締めながら消えそうな声で呟いた。
「何でしょう」
「本当に、今もお兄様はご無事でいらっしゃるのね」
「ええ、お約束でございますので。それでは」
素っ気ない返事をしたマサは、糸子を置いてその場を去った。
ひたひたと草履の音が近づく。
暗闇の中から母屋にいる旦那様、勇夫が現れた。ご丁寧に黒紋付き袴姿をしている。
「儀式の為とはいえ、このようなところでまぐわうなどと、居心地が悪いわい。しかし、だいぶ冷えるのう。早くお前の肌で温めておくれ」
自身の体をさすりながら、草履を脱いだ勇夫がゴザに足を載せる。糸子はマサに教えられた通り、両手を揃えて布団の上につき、頭を深々と下げた。すり足が徐々に近寄り、視界に勇夫の足袋が見えた。
「随分と待たされたぞ。顔を上げろ」
糸子の顎を持ち上げた勇夫は、彼女の耳元に顔を寄せた。
「子が出来ても儂は構わなかったがのう。お前のような美しい子が生まれるのは喜ばしいことであろうに」
「……」
「よくほぐしておいたか? 人魚さまよ」
「……う」
頬をべろりと舐められ、糸子の体中に悪寒が走った。
「滑らかな肌だの。生きておれば純子もこのように成長していたのか。死なせるなど勿体ないことをしたものだ」
母の名を囁かれた糸子は、思わず問いかけていた。
「……お母様を、ご存じなの」
「儂と歳は変わらぬはずだ。浜にいる者とは思えないほど色の白い子どもだったと記憶している」
「あ!」
言い終わらないうちに布団の上へ押し倒された。
勇夫の指先が糸子の着物の裾を分けて太腿を撫で回す。がさがさとした手のひらが、肌に擦れて痛い。勇夫は糸子の耳や首筋を舐め始めた。興奮した男の鼻息は荒く、触れる髭が気持ち悪い。その様子が目に入らないよう瞼を固く閉じて、糸子は必死に薫を思い出していた。
自分を慰めるときのように兄だと思えば、よい。不快極まりない男の肌の熱さも、重くのしかかる体も、帯を解こうとする手も、全て薫のものだと思えばいい。
「そう目を瞑るでない。こちらを見ろ」
酒臭い息が糸子の頬にかかった。顔を逸らそうとしたが、勇夫の手に無理やり抑えられてしまう。
「口を吸ってやろうか」
思わぬ言葉に瞼を上げてしまった。爛々と光る男の眼と舌なめずりをしている口元が目に飛び込む。糸子の背筋に悪寒が走った。
「ほれ、顎を上げい」
我慢するための夢想が解けてしまう。目の前にいるのは兄では、ない。薫では、ない。
「……や! ……いや!」
「こちらを向けと言うに!」
糸子の足の間に勇夫の重みが圧し掛かる。無理に広げられた腿の付け根が痛い。強い力で乱暴に二の腕を掴まれた。
兄と同じ布団で眠るとき、彼は優しかった。
糸子が苦しくないようにと気遣いながら腕の中に収めてくれた。
目が合うと微笑んでくれた。髪を撫でてくれた。大切に大切に扱ってくれた。
「お兄様! 助けて!」
思わず叫んでいた。
「この期に及んでまだ言うか!」
「きゃっ!!」
髪を掴まれ、頬を打たれた。痛みよりも恐怖が先行し、糸子の体が固まる。繊細さの欠片も感じられない男の指が太腿から股座へ伸びた。
「あ……!!」
かさついた指が糸子の内へと入ってくる。
「ほぐしておけと言うたのに、何も濡れていないではないか」
無理やり撫でさする指に痛みを感じて涙が浮かんだ。気持ちよいことなど、ひとつもない。
「どれ仕方ない、舐めてやるわ」
「!!」
体を起こした勇夫は、苛ついた様子で糸子の着物の裾をまくりあげ、足の付け根へ顔を近づけた。男の息が秘所を隠す彼女の柔毛をそよがせる。あまりの恐ろしさに糸子の体は、がたがたと震え出した。
「助け、て……お兄様……」
啜り泣きながら、どうにか声を絞り出して、ここにはいない薫を呼んだ。
自分に触れているのが薫の美しい指であれば、どんなに良かっただろう。彼の目が、そこを見ているのならば恥ずかしさはきっと喜びに変わり、受け入れられるだろうに。
「さすが生娘だな。綺麗な色をしているわ。気持ちよくしてやるから待っておれ」
顔を上げた勇夫は一旦体を起こして糸子と目を合わせた。ひひと卑しく笑った勇夫と、マサに渡された本の絵が重なる。今からあのようなことを、この男と……
いっそのこと、今すぐにでも死んでしまおうか。
糸子は再び固く目を瞑り、口中で自分の舌にそっと歯をあてた。このまま噛み切ってしまえば楽になれる。しかし、今死んでしまったら兄の身は守り切れないだろうか。一瞬躊躇った、そのとき。
「人魚さまよ、抵抗するでない、ぞ、が……っ!」
突然、勇夫の声色が変わった。
「ぐっ……あぁ」
尋常でない声に恐る恐る瞼をあげてみると、膝立ちの姿勢でいる勇夫の心臓付近が何やら光っている。よく見れば、刀の先のようなものが勇夫の体から突き出ていて、それがらんぷの光を反射していたのだった。刹那、刃先は引き抜かれ、勇夫の胸元から血が噴き出した。
「ひっ!」
叫んだ糸子の眼前が紅く染まる。それは人魚塚に咲いていた、彼岸花の海のようであった。