同じ年の春。
高等学校を卒業した薫が、寮から家に戻ってきた。玄関で、被っていた白線帽と黒い外套を外した薫を糸子が出迎える。それらを受け取った彼女は、春らしい若草色の銘仙を着ていた。
あえて女中には下がってもらい、兄に挨拶をした。
「お帰りなさい、お兄様。あの、大學のこと……よろしかったわね」
「僕は反対したんだ。でも」
糸子の言葉を受け止めた薫は、複雑な思いを表情に乗せた。
「お母様もおっしゃっていたわ。お兄様はお勉強がお出来になるから、このまま大學へ進学なさったほうが良いって」
「お母様が男爵の妾になる、というのは別に構わないんだよ。お母様がお決めになったことなのだから」
「ええ」
「しかし何故男爵は、わざわざお母様を自分の家に住まわせようとするんだ。僕たちも一緒になどと……」
「それは私も不思議に思いました」
母は男爵に、妾として子どもたちを連れて、自分の家へ入らないかと誘われた。男爵は純子たち三人の生活費や子どもたちの教育費、その他一切の面倒までみると言う。
男爵家には正妻と、その息子もいるらしかった。そのような場所へ妾のみならず、男爵自身と血の繋がらない連れ子まで置き、妻妾同居にするというのは、いささか疑問であった。
「あまり、いい予感がしない」
「え?」
「いや、何でもないよ」
廊下に上がって歩き出した薫のあとを、糸子がついてゆく。ぎしぎしと板が軋んだ。広縁に出たところの庭で、綻び始めた桜の花が穏やかな春風に吹かれている。
桜の樹へ目を向けた薫が立ち止まった。糸子も静かに足を止め、黒い学生服の背中に向かって言葉を渡した。
「こうしたほうが私たちのためにも良いのだと、お母様がおっしゃていたから」
正月に兄と話したあのときから、母が男爵の妾になることはわかっていたような気がした。薫の進学のためならば、自分が不安に思う気持ちなど、くだらぬ我儘に過ぎない。糸子は自分へ言い聞かせるように、わざと明るい声を出した。
「女学校は遠くなるから辞めることになるけれど、家庭教師をつけてくださるのですって。男爵様のお家は大きな洋館らしいの」
「……」
「お兄様?」
「あ、ああ。そうか……嬉しいかい?」
「ええ。お勉強は好きなの」
薫は眉根を寄せ、糸子の頬へ手をやった。頷くだけで何も言葉にしない切なげな表情が、糸子の心を震わせる。胸にこみ上げた感情は瞬く間に膨れ上がり、自分ではどうしようもない衝動に駆られた。
刹那、糸子は背伸びをして兄の頬に接吻をした。
ただ、そうしたかった。そうして、この思いを伝えたかった。
唇に薫の肌の感触が残る。外から帰ったばかりの彼の頬はひんやりとしていて、何かの花びらを唇に押し付けたときのようだと、糸子は思った。
驚いた表情をした薫は、糸子から一歩離れて再び庭へ目をやった。
「……駄目だよ、糸子」
「なぜ」
「お前は僕の妹じゃないか」
「家族や友人間にある、親愛の情というものを示したのです。外国では、これが習わしと聞いて」
拒否されたことに僅かな口惜しさを覚え、適当なことを言って誤魔化してみる。背筋を伸ばした糸子が訴えると、薫が振り向き、その顔を覗き込んだ。
「女学校で、そういうことを教わるの?」
「え、ええ」
顔を逸らすと、すぐ傍で薫が小さく笑ったのがわかった。どうせその場凌ぎの嘘だと見抜かれているのだろうが、ここで引くわけにもいかない。
「なるほど。じゃあ僕も親愛の情、というものを示してみよう」
「あ」
肩を抱かれ、もう片方の手が糸子の顎に置かれた。ぐいと上を向かせられたと同時に、薫の顔はもう目前にあった。心臓が大きく跳ね上がり、頬が一気に紅潮するのがわかる。
考える間もなく、唇を重ねられた。
頬に触れたものとは違う柔らかさ。一瞬だけ届いた彼の吐息は温かく、糸子の体に何かを吹き込まれてしまったようだった。ほんの僅かな間の出来事が、糸子の中に燻っていたものを目覚めさせ、心も体も丸ごと変えられてしまった。
「こうして唇に挨拶する国もあるそうだよ」
微笑む薫の瞳から目が離せない。
「……お兄、様」
やっとの思いで彼を呼ぶと、薫は再び糸子に背を向けた。
「僕は着替えてから、お母様の部屋へご挨拶に行く」
自分の部屋へ向かう薫の背中を見つめたまま、糸子はその場に立ち尽くした。
辺りは冬の終わりを讃え、揚々とひらく花の香りに満ち溢れている。花曇りのこんな日は、人の気持ちまで艶めかしくしてしまうのだろうか。
「親愛などではないわ。これは……」
ひとりごちた糸子は、そっと唇に指をあてた。
「恋よ」
薫の感触を唇へ閉じ込めた糸子は踵を返し、兄の外套と帽子を抱きしめながら自分の部屋へと向かった。これらの埃を払い、ほつれを直し、染みを抜いたりなどして、兄へ尽くす楽しみのために。
このとき糸子は十六、薫は十九の歳であった。
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いくつもの路地を通り、ぎゃあぎゃあと数羽のカラスが樹の上を飛び回る小さな森に入ると、立派な門構えが現れた。門を通り過ぎ、敷地内の小道を進んでいく。二階建ての洋館の前で黒塗りの馬車は停まった。
出迎えの女中に手を取られながら、母が馬車を降りた。大きな洋館の前で、母は益々細く儚く見える。続いて糸子が薫とともに馬車を降りた。館に覆いかぶさるように茂る黒い樹々に恐怖を覚え、支えてくれた兄の手を強く握る。
「……お兄様」
「大丈夫だよ」
彼女の手を包み込むように握り返した手のひらが温かい。
白いハイカラーシャツに黒い三つ揃えを着た兄は、学生服姿よりもずいぶんと大人っぽく見え、頼もしくも思えた。
「お疲れ様でございました」
先を進む母の背中を見つめていると、背後から突然低い声が現れた。
「堂島(どうじま)家の執事をしております、大野(おおの)と申します」
振り向くと、そこには顔色の悪い、ひょろりとした体格の男がいた。きっちりと上げた髪に白髪が混じり、額に何本もの皺が刻み込まれている。黒く丈の長い背広に蝶ネクタイ姿は、館の周りを飛び回るカラスのようだと糸子は思った。
「薫です」
「い、糸子です」
二人の挨拶に一度頷いただけで、執事はにこりともしない。
「奥様がお待ちです。お母上様のあとについて進んでくださいませ」
歩き始めた足元には、どこからか舞い落ちた桜の花びらがあった。昨日まで住んでいた宗一郎の家を思い出し、糸子は瞳を潤ませる。自分たちが堂島家に入ることが決まり、登米は男爵によって故郷に帰らされた。もう二度と会うことはないのだろう。
ここは同じ東京だというが、知らない土地へ初めて移り住んだ糸子には、遠い遠い異国の地にでも来てしまったかのように心細く思えた。
「お急ぎください。旦那様がお待ちでございますほどに」
執事の声色には愛想の欠片もない。
――嫌な場所。
好きにはなれないと、顔を上げた糸子は直感する。薫も同じだったようで、二人は無言で視線を交わし、気持ちを確かめた。
こつこつと靴音が玄関ホールに響く。
母は意外にも落ち着いており、女中にうながされるまま洋館の中を進んだ。糸子と薫もそれに続く。長い廊下の一番奥にある大きな扉の前で、執事と女中が立ち止まった。
「失礼いたします。旦那様、皆様ご到着されました」
「よい、入れ」
扉がひらき、中へ促される。薫と糸子は母の後ろについた。
正面の大きな机の前で椅子に腰かけた着物姿の男爵――堂島勝之助(どうじましょうのすけ)が手を組み、こちらを見つめていた。その横には洋服を着た女性、そしてこちらも洋服を着た若い男性が立っている。
「純子です」
母が深々とお辞儀をした。
「薫です」
「糸子です」
二人も執事に挨拶をしたときのように頭を下げる。
「妻の八重子(やえこ)と息子の勝太郎(しょうたろう)だ」
紹介された正妻と息子は、ほんの少しだけ首を傾けた。卑しいものへ渋々挨拶をしてやるというふうだった。
「薫とはまた、女のような名前だな。珍しい」
息子の勝太郎が小馬鹿にしたように、くっと笑った。自分まで屈辱を受けたように感じた糸子は思わず手を固く握りしめた。そんな糸子を知ってか知らずか、薫の涼しい声が部屋に響いた。
「宇治十帖に登場する人物も男子ですが。さほど珍しくもないかと」
「そんなことは知っている。いちいち口答えをするな。俺を誰だと思っているんだ」
「勝太郎、口を慎め」
一歩前に踏み出した勝太郎を、勝之助が咎めた。
「……申し訳ありません、父上」
不服だと言わんばかりの表情を露わにした勝太郎は、睨むように薫を見た。
「勝太郎は薫殿の一つ上の歳だ。薫殿の下宿先は手配してある。勝太郎は別の場所に世話になっているが、大學は同じだからな。いろいろ指導してもらうとよい」
「ありがとうございます」
薫がお辞儀をすると、勝太郎が舌打ちをした。あからさまに敵意を抱いているのがわかる。
「糸子さんは、ここで花嫁修業に励みなさい。よい縁談があれば紹介しよう」
「……はい。ありがとう、ございます」
男爵の放った縁談という言葉が重くのしかかり、糸子は目を伏せた。
「薫殿と糸子さんの部屋は、純子とは離れているが、構わないね?」
「ええ、構いません」
母を呼び捨てたことを不快に思ったが、薫のはきはきとした返事に倣い、隣で糸子も頷いた。
しかし母は相変わらず、どこを見ているのかわからないような、一人別の場所にいるかのような落ち着き払った態度でいた。薫と糸子のためにとは言っていたが、二人のことは気にも留めていない様子である。
それぞれの荷物をほどいた後、糸子と薫は執事に断わり、家の周りを散歩することにした。洋館の敷地を取り囲む森はよく見ると小さなもので、すぐに抜けられた。裏に上り坂がある。周りはずいぶんとひらけており、風の匂いが違った。
「糸子、来てごらんよ」
「待ってお兄様」
駆け出して坂を上る兄に必死でついてゆく。午後を過ぎると花冷えと思われる寒さが訪れた為、糸子は羽織を着て、兄は三つ揃えの上に外套を羽織っていた。羽織の袂が風に煽られ、兄の外套は鳥の羽のようにはためいている。
「海だ。これは潮の香りだったんだなあ。土地の名を聞いてもしやと思っていたけれど、駅からここが遠くて土地勘が鈍ったんだな。全く気付かなかったよ」
兄に近づくと、彼の言う通り海が見え、潮の香りが鼻をくすぐった。ざざん、ざざんと波の音がすぐ傍に迫る。
断崖絶壁と言えるほどの高さはないが、しかし落ちればひとたまりもなさそうである。崖の手前で二人は立ち止まり、身を寄せ合った。きらきらと光る美しい海に日が沈んでゆく。
「綺麗……」
神々しさに目を細める糸子に、薫が囁いた。
「この下に人魚さまがいるかもね」
「怖いこと言わないで」
「ほうら、やっぱり怖がりだ」
笑った薫の胸に糸子は飛び込んだ。薫は夕刻の冷たい海風から守るように、糸子を外套の中へ引き込み、優しく抱き締めた。応えてくれた兄の手の力に糸子の胸が高鳴る。彼女は薫の何ともいえない芳しいよい香りが好きだった。彼は本当に物語の中から出てきたその人なのでは、と思わせられるような、そんな高貴な香りが。
ひとつため息を吐き、兄の腕の中で呟いた。
「川や海に落ちて心中する男女が後を絶たないって、新聞で読んだの」
「どうにもならない関係なんだろう。僕の先輩にもいたよ」
どうにもならない関係。
兄と自分は義理でもなく、半分血の繋がった正真正銘の兄妹だ。どうにもならないのは百も承知である。しかし言わずにはいられなかった。
「私、お兄様と一緒ならいいわ。命を絶っても構わない」
「人魚の肉といい……僕と一緒なら何でもするんだな」
「迷惑なら、ごめんなさい」
「迷惑なんかじゃないよ」
薫の言葉に胸が痛くなる。
迷惑ではないと、確かに今、彼はそう言った。
ああ、痛い痛い。これが恋の痛みでないというのなら何だというのであろうか。私にとって、お慕いしているという言葉は、兄に使うために存在しているに違いない。
糸子は溢れそうになる言葉をどうにか抑えつけ、彼の外套にくるまれながらじっとしていた。波の音と薫の心臓の音が心地よく耳から入り、糸子の体の隅々まで浸透してゆく。
しばらく黙ってそうしていたが、薫が先に沈黙を破った。
「そろそろ、帰ろうか。あの神経質そうな執事にまた何か言われそうだ」
「……仲良くなれるかしら、あの人たちと」
高圧的で短気であった勝太郎の風貌を思い出す。大きすぎる鼻に細く吊り上がった目が性格の悪さを物語っていた。背は普通であるが、頬や首、腰周りに付いた肉が無駄に見える。剣道で鍛えて締まった体と、美しく整った顔を持つ兄に比べて、なんと醜い男であったろうか。
「無理に仲良くなる必要はないよ。でも、これから世話になるわけだから、さっきの僕みたいに反抗的な態度はやめたほうが賢明だろうね」
「お兄様ったら」
顔を見合わせ、二人同時に笑う。ここに来て初めて、糸子の緊張が解けた瞬間だった。
「僕が家にいるときはなるべく一緒にいよう。僕がいないときは、あまり部屋から出ないほうがいいかもしれない」
「なぜ?」
「あの勝太郎という男が気になる。何となく、ね。糸子のことが心配なんだ」
「お兄様がおっしゃるのなら、そういたします」
「さあ、戻ろう」
「今夜、お兄様のお部屋で一緒に寝てもよい?」
「いいよ。おいで」
こちらへ伸ばした薫の手に自分の手を重ねる。
洋館へ向かって歩き出し、ふと顔だけ振り向かせると、水平線に近い空が怖いくらいに紅く、紅く染まっていた。