朝食後、洋館の玄関扉から外に出た糸子は、落ちている桜の花びらを拾い、その樹がどこにあるのかと周りを見渡した。朝日が地面を、そしてうっそうとした暗い森をも照らしている。昨日ここを訪れたときよりは幾分か明るく見え、すがすがしい空気を胸に吸い込んだ。
館の中にいるのは気が詰まりそうだった糸子は、薫と朝食後に庭で会う約束をしていた。大學が始まるまでの僅かな時間を、少しでも兄と一緒に過ごしたい。彼女のささやかな願いを薫は快く受け入れてくれた。
門のほうに桜の樹は見当たらない。
広い庭を振り向くと、館の陰から淡い桜色が覗いていた。ちらちらと花びらが散っている。若草色の着物の袖を揺らしながら、そちらへ歩みを進めて庭の中央まで来たとき、背中を軽く叩かれた。
「お兄様?」
嬉しさを隠しきれずに笑顔で振り向いたが、瞬く間に笑みは消え去った。
「次期当主を間違えるとは失礼な女だな」
そこには、朝食時に現れなかった勝太郎がいた。昨日とは違う三つ揃えを着て、蝶ネクタイを締めている。きつい香水の香りに顔を歪めた糸子へ、勝太郎は顎をしゃくった。
「挨拶はどうした?」
「……おはよう、ございます。きゃ」
頭を下げようとした糸子の顎に、勝太郎の太い指があてがわれ、無理やり上を向けさせられた。
「何を、なさるの」
眉を寄せた糸子に、勝太郎がにやりと笑った。
「なかなかの別嬪じゃないか。あの女に似て」
あの女、とは母のことだろうか。昨日と同じに胸の奥がざわつく。
勝太郎の指から逃れて顔を逸らしたが、今度は手首を掴まれてしまった。伝わった感触に鳥肌が立つ。
「お前も母親のように、その美しい容姿で男を騙くらかすんだろう」
「失礼なことを、お言いにならないで」
「誰に向かって口をきいている。お前も、お前の兄貴も、昨日から自分の立場をよくわかっていないようだな」
ぎりり、と勝太郎の手に力がこもった。
「い、痛い……!」
「お前らは、この堂島家とは何の血の繋がりもない、妾の連れ子に過ぎないんだ。父上の気まぐれで受けている施しに感謝しろ。口答えなど許されない立場にいるということを、わかるまで俺がじっくり教えてやろうか、え?」
触られている手首が気持ち悪い。勝太郎の舐めるようないやらしい視線を受け、糸子は貧血が起こりそうだった。恐ろしさに声が出ない。奥歯を食いしばり、倒れないようにと足に力を入れた、そのとき。
「糸子!」
後ろから、自分を呼ぶ大きな声が届いた。
「お兄様!」
兄の声に応えた糸子は、精一杯の力で勝太郎の手を振りほどいた。こちらへ駆け寄る薫の胸に飛び込む。
「お兄様、お兄様……!」
白いハイカラーシャツの覗く、黒い着物の衿元に顔を押し付ける。兄の匂いに安堵した糸子は涙ぐんだ。
「何があったんだ?」
自分を心配する兄の声に、ただ首を横に振ることしか出来ない。
糸子の震える肩を抱いた薫は、彼女を自分の後ろに立たせた。俯いた糸子は、薫の穿いている袴の縦縞を黙って見つめた。
「妹に何か御用でも?」
「挨拶の仕方がなってないんで、教えてやっただけだ。いちいち騒ぐな鬱陶しい」
「それだけのことで何故、このように震えているのでしょうか」
尋ねた薫に向けて、勝太郎が舌打ちをした。
「自意識過剰な女だな、お前の妹は。このような卑しい女になど、俺が本気で手を出すわけがなかろう」
「……僕の妹は卑しくなどない」
低く発せられた薫の声は怒りに震えていた。滅多に聞くことのない声色に不安が駆り立てられる。今ここで勝太郎に逆らったら、兄が後で何をされるかわからないという懸念が起きたのだ。
「お兄様」
「今言ったことを取り消してください。僕は何を言われても構いませんが、妹を愚弄することだけは受け入れられない」
「お兄様、もうよいの。大丈夫だから」
薫の着物の袖にしがみつき、そこから手を伸ばして彼の大きな手に触れた。強く握る糸子の指に応えるように、自分の指を絡ませながら握り返してくれる。
「糸子」
「お兄様」
薫の顔を覗き込むと、糸子を見つめる瞳がそこにあった。
「何なんだ、お前ら。兄妹で……気持ちの悪い」
吐き捨てた勝太郎は背を向け、その場を去り、屋敷の中へと入っていった。
二人は桜の樹の前まで歩いて行き、そこで立ち止った。
「大丈夫かい、糸子」
「ええ。お兄様が来てくださったから、もう大丈夫」
「遅くなってごめん。ちょっと、奥様に捕まってしまって」
「奥様に?」
「お母様のことを嫌味ったらしく言われただけだよ。注意されても悪びれない、お母様の態度が気に入らないらしい」
行儀が悪いわけではないが、男爵の家のマナーに沿わない母の食事の仕方が、どうも正妻は気に入らないようであった。それ以前に、妾とその子どもも一緒に食事をとる、という男爵の方針に腹を立てたのかもしれないが。
桜の傍に立っていた薫が、傍にある茂みの前でしゃがんだ。糸子へ手招きをしている。
「糸子、来てごらん」
「なあに?」
糸子も薫の隣へしゃがみ、茂みの中を見た。葉の陰にふわふわとした毛を持つ何かがいる。
「猫だね。まだ子どもかな?」
「まあ、可愛らしい。おいで、おいで」
ちっちと舌を鳴らして猫を呼ぶ。こちらに気づいた三毛猫は、にゃあと鳴きながら近付いて、糸子の足に体をすり寄せてきた。
「お腹が空いているのかしら?」
「給仕に言えば、何か残り物を貰えるかもしれないね。僕が行って来よう、か……」
「どうされたの?」
薫が振り向いた視線の先を糸子も追う。少し離れた場所に、こちらを向いて立つ執事の大野がいた。何やら入った皿を手にしている。
「大野さん、それは?」
薫が尋ねると、ひとつ咳ばらいをした大野が、ぼそりと呟いた。
「猫の……朝飯の時間と思いましたので」
「まあ」
「ところ構わず煩くにゃあにゃあと鳴かれては、旦那様方の迷惑となります。それだけでございます」
糸子の驚きに、大野が慌てて言葉を並べる。その様子が言い訳しているようにも思え、糸子は何だか愉快な気持ちになった。
大野もしゃがみ、猫に皿を差し出した。皿へ盛られた飯にありついた猫は、嬉しそうに喉をごろごろと鳴らしている。
「猫まんまね」
「よくご存じで」
誰ともなしに糸子が口をひらくと、大野が頷いた。気を良くした糸子は話を続ける。
「前のお家にいたとき、庭に猫がよく遊びに来たの。それで私が猫まんまを作ってやっていたのよ」
「なるほど」
「男爵様のお家でも、猫には猫まんまなのね」
「私が作らせたので、男爵様は関係ございません」
「そうね、そうよね」
淡々と話す大野が余計に可笑しくて、糸子は思わずクスリと笑った。傍にいた薫を振り向くと、彼も笑っていた。
猫が食べ終わると、大野は皿を持ち、早々に屋敷へと戻った。
「大野さん、意外と優しいんだなあ」
「ええ、本当に」
意外な執事の様子が、糸子には嬉しかった。勝太郎にあのような態度をされた後だから、余計にそう感じるのかもしれない。
お腹が膨れた猫は毛づくろいをしたあと、満足そうに薫の前でごろりと横になった。
「その猫、お兄様を気に入ったのだわ」
「糸子のことも気に入ったようだよ、ほら」
撫でると、じゃれつく猫を抱き上げた薫が、糸子に猫を手渡す。
「ふふ、くすぐったい」
柔らかい毛の感触に、はしゃいでいた糸子は、ふと薫の視線に気づいた。彼は優しい眼差しで糸子を見つめている。視線が合うと、困ったように微笑んで目を伏せた。
「どうなさったの?」
「何でもないよ」
「何か悲しいことでもおありなの、お兄様」
「何故そう思うんだい」
「何となく、そのようなお顔をされていたから」
糸子は猫を放すと、隣にしゃがむ兄に身を寄せた。悲しいことがあるのなら、少しでも分けてもらえないだろうか。薫を慰めたいと思う気持ちのままに、その横顔に唇を近づける。気付いた兄は顔を逸らし、彼女から離れようとした。
「駄目だと言っただろう」
「先日は、お兄様もお返ししてくださったのに、何故?」
拒否されて納得がいかずに尋ねると、意外な答えが返ってきた。
「いや、僕が駄目なんだ」
「え?」
「これ以上は……歯止めが効かなくなると困るからね」
薫の呟きに、糸子の心臓が大きな音を立てた。
それは、自分を妹以上に見てくれているという意味に取ってもよいのだろうか。自分が薫を思うように、薫もまた自分を思ってくれているのだろうか。期待に甘く震える胸の内が、糸子の口から零れ落ちた。
「私は、よいのに。お兄様にだったら全てを捧げてもいいの。私の何もかも、全て」
「心中することにでもなったら、それこそ取り返しがつかないだろう」
「よいの、お兄様なら私……いいえ、お兄様でなくては嫌」
薫の胸に再び飛び込むと、彼は草の上に尻餅を着いた。大きなリボンの付いた糸子の下げ髪を手のひらで撫でる。
糸子、と優しく囁いた薫は、彼女の耳元で思いを告げた。
「お前のその純粋さが、僕には……苦しいんだよ。いつまでも傍にいてやりたいし、どこにも、誰にもやりたくないなどと、いけないことを思ってしまうくらいに」
「……お兄様」
「でも、それではお前は幸せになれない。僕もだ。わかるね?」
わかってはいる。兄を困らせてしまうことも、何より、世間では許されてはいないことも。全て理解しているはずなのに、兄を思う恋心は増してゆくばかり。どうにもやりきれないのだ。
「いい子だね、糸子。僕が大學へ入学するまでの間、一緒に楽しく過ごそう。普通の兄と妹として」
「……」
「さあ、顔を上げて」
言われた通りにすると、堪えていた涙が糸子の瞳から零れ落ちた。彼女の涙を指で拭った薫は、眉根を寄せて微笑んだ。無理に作った笑顔を見て、糸子の胸が張り裂けそうになる。
――何故、兄妹として生まれてきてしまったのだろう。
二人の上に桜の花びらが舞い落ちる。それは夢のように美しく儚く、物悲しかった。
そうして……薫の宣言通り、大學が始まるまでの二週間を毎日二人で一緒に過ごした。互いの部屋を行き来して、薫が糸子に勉強を教えたり、屋敷の周りを散歩したり、夜はこっそり同じベッドに入って遅くまで話をしたり。薫が糸子を外へ連れ出し、買い物に出たこともあった。
糸子は恋心を胸に仕舞って、兄と一緒に過ごすことを精一杯楽しんだ。
あっという間に時は過ぎ、四月の中頃、薫は堂島家を出た。勝太郎はその少し前に堂島家を出ている。勝太郎は下宿と呼ぶことを憚られるような立派な家に世話になっており、そこから大學へ通っているのだという。薫は、書生たちが共同の生活を営む通常の下宿に入った。
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その後、数か月の間、静かに時は流れていった。
糸子は日々、堂島家の洋館で過ごし、週に二度の家庭教師を迎えて勉学に励んだ。その他に、女中から縫い物や料理など、女学校と同じようなことを習い、退屈な時は庭を歩き、本を読んで過ごした。そして、些細な出来事や日々思うことを薫への手紙に綴った。薫からの返事は大學での出来事、友人の話や下宿の様子などがしたためられており、必ず最後には、謎かけ遊びを面白おかしく、糸子の筆跡を真似るなどして書かれていた。勿論、糸子はそれに喜んで反応して、また返事を書く。それは堂島家で寂しく過ごす糸子にとって最も楽しい時間であり、薫からの手紙が心の支えでもあった。
ここには男爵と正妻の八重子、一人の料理人と愛想の無い女中が二人、運転手を兼ねた執事の大野、耳の遠い庭師、俥夫、そして糸子と母の純子しかいない。誰一人として糸子に近い歳の者はおらず、使用人は全員年老いていた。俥夫が少々若いくらいであろうか。若いと言っても四十代の男爵に近い。そして皆、口数が少なく笑顔が見られなかった。勝太郎は五月早々に欧州へ留学して、今はいない。
そんな洋館へ二週に一度訪れる者がいる。往診に来る医師の戸田(とだ)だ。彼はまだ二十代であるらしく、穏やかな笑顔を絶やすことのない人物であった。八重子はこの医師を気に入っているようで、彼が訪れる日は朝から機嫌が良い。
「こんにちは、糸子さん」
廊下で会ったときなど、この医師は気軽に糸子に声を掛けてきた。彼女も別段危険は感じず、彼と話をする。
「こんにちは」
背の高い医師は糸子の頭の天辺から足先までをさっと眺め、最後に顔をじっと見た。
「外には出ておられますか? 日光浴は健康に良いのですよ」
「ええ、まあ」
「体調に変化がありましたらば、遠慮なくおっしゃってくださいね」
「ありがとうございます」
「では失礼いたします」
挨拶をして戸田は館を出て行った。見送った女中が去り、再び館に静寂が訪れる。玄関ドアの上にあるステンドグラスから夕陽が差し込み、床に一筋の光を投げていた。耳を澄まして聴こえるのは、遠くで鳴いているカラスの声くらいだ。
俯いた糸子は小さく呟いた。
「……つまらないわ」
友人に会いたい。皆で、時間を忘れるほどに、楽しくおしゃべりがしたい。笑いたい。
花嫁修業とはこうも退屈で、つまらないものなのだろうか。皆、よくぞ我慢しているものだと、糸子は大きなため息を吐き、自室へ向かった。
階段を上がったところで、どきりとした。
回廊の窓の前で、母が佇んでいる。食事の席以外の場所で会うのは初めてかもしれない。糸子と薫の部屋は近かったが、母の部屋だけが離れていたせいもあるだろう。
ゆっくりと進んでいき、菖蒲色の着物の背中に声を掛ける。
「お母様」
「ねえ、糸子」
「? はい」
糸子は、振り向きもせずに自分の名を呼ぶ母の隣に立った。夕陽に照らされている母の横顔を見つめ、言葉の続きを待つ。近くへ移動して来たらしいカラスたちの、ぎゃあぎゃあと鳴き喚く声が響き渡った。
「お母様はね、ここにずっといられるとは思っていないの」
「え?」
「薫のお父様の妾になったときも、あなたのお父様の妾になったときも同じ。その前から、私は同じ場所には生きられないの。この先もきっとそうなのだと思う」
突然滔々と話し始めた母に、糸子は動揺した。純子の実家や出生の話は聞いたことがなく、それはもちろん薫も知らない。何か事情があることを察した兄と妹は、話題に出すことすら控えていたのだ。
「……なぜ、そう思われるの」
「この世は限りがあるから美しい。永遠に続くものなどないの。それを欲しがる者は……醜いわ」
糸子は正月明けの晩に薫と見た、人魚さまの本を思い出した。永遠に続く命があれば素晴らしいと、恍惚の表情を浮かべながら話してくれた兄のことも。それは、今の母とは正反対の言葉であった。
「永遠を欲しては、いけないの?」
糸子の問いかけに、ようやくこちらを見た母は微笑みを浮かべ、すぐにまた窓のほうへと顔を向けた。母はいつまでも質問に答えることなく、ただ遠くを見つめ続けていた。