年が明けて、時は明治の四十年となった。
東京の街は今夜、初雪が降りそうなほどに冷え込んでいる。
雨戸をすべて締め切ってもなお寒い室内で、兄と妹はうつ伏せになり、頭まで同じ布団を被っていた。二人の顔の前には、座敷ランプに照らされた一冊の古い本がある。
「お兄様、何だか怖いわ」
ひらかれた頁から視線が外せなくなった妹の糸子(いとこ)が呟く。彼女をを安心させるかのような声で兄の薫(かおる)が答えた。
「何も怖いことなんてないさ」
「……だってそれ、人魚さまでしょう?」
「ああ、よく知っているね」
頁をめくるごとに、かび臭さのようなものが舞い上がり、鼻を突いた。まるで本の隅々まで毒が染み込んでいるかのように思えた糸子は、そこに指を伸ばすことすら出来ないでいた。
「学校のお友達がお話していたの。人魚さまは海に住んでいて、下半身はお魚、上半身は人のそれに似ているのだって」
「その通りだ。……ん?」
再び頁をめくった薫の手が止まる。
大きく筋張った綺麗な手と彼の端正な横顔を見つめ、糸子は思う。兄はしばらく見ぬ間に、また一歩、大人の男性に近づいたのだと。
正月休みに高等学校の寮から帰ってきた兄は、ずいぶんと背が伸びたようだった。細身ではあるがその体格はすっかり青年のものへと変わっている。低く柔らかな声が紡ぎ出されるたびに上下する喉仏に、糸子はつい触れたくなってしまう。
二人を温める銅製の湯たんぽを薫が足先で転がしながら、本に挟まっていた一枚の紙切れを手にした。折り畳まれたそれをゆっくりひらくと、青いインクで何か書かれている。
「人魚塚?」
目にした文字を糸子が呟いた。隣で薫が首を傾げる。
「何を示す絵だろうか、これは」
文字の横には地図のような拙い画が描かれていた。紙は古く、折られた部分が所々切れており、全体像までは理解できない。
「なんだかよくわからないな」
紙をひらりとさせた兄は、ため息を吐いた。
「ねえお兄様。このご本、もしや軍人のお父様のご本?」
「そうだよ」
「また勝手に持ち出したのでしょう? お母様に叱られちゃわない?」
「叱られるかもね。でもいいさ」
「どうしてよいの?」
「この本を一緒に見ている糸子が、僕の共犯者だから」
薫は糸子の顔を覗き込み、からかうように笑った。すぐそばにある優しい笑みに思わず頬が熱くなる。
「お兄様ったら。勝手に共犯者なんて、そんなこと糸子は知らないわ……!」
右手を握りしめ、軽く兄の肩を叩こうとすると、その手首を掴まれた。
「させないぞ」
「あ」
ぐるりと反転させられた糸子は薫の腕の中に閉じ込められた。ぎゅっと抱き締められ、呼吸がうまくできない。
「どうだ、参ったか」
薫が楽しそうにクスッと笑った。
「ずるい。お兄様のほうが力が強いんだもの」
「最近ずいぶんと大人しくなったね、糸子は」
「え?」
「前はとても女子とは思えないお転婆ぶりを発揮してたじゃないか。お返しに思い切り叩いたり、寝ている僕の上に飛び乗ってきたり」
「そ、そんな幼い頃のことを、いつまでもおっしゃるなんて意地悪だわ」
「僕が寮に入っている間に何があったの」
耳元で囁かれ、咄嗟に顔を逸らすと目の前に本があり、掲載された人魚の姿が目に飛び込んだ。
「……どうして、こんな姿をされているのかしら」
友人に教えてもらった通り、下半身は魚、上半身は人に似ている。しかし顔の造りは魚に似ていて、口はまるで鯉と同じ、パクパクと餌を欲しているかのように大きく開いていた。
その瞳がこちらを見たような気がして、背筋がぞっとした糸子は薫に身を寄せた。
兄と妹が住むこの日本家屋は、糸子の父親である富張宗一郎(とばりむねいちろう)が与えた家だ。こじんまりとしてはいるが造りはなかなかに立派で、家の中に大きな風呂場まである。糸子と薫、そして二人の母である純子(すみこ)と女中が住むには、十分すぎるほどの広さであった。
十数年前、夫と死に別れた純子は、幼い薫を連れて富張家の女中に上がった直後に宗一郎の妾となった。しかし本妻は連れ子の妾をよしとせず、彼らを別の場所へ住まわせるように宗一郎へ要求した。結果、宗一郎はこの家を買い、純子と薫を住まわせ、本家からここへ通うようになった。その後、生まれたのが糸子である。
宗一郎はまだ年若い純子を溺愛した。血の繋がらない薫を可愛がる、とまではいかなかったが、純子が喜ぶならと、薫の習い事や学校などの教育費は惜しみなく出した。良縁があるようにと糸子も女学校へ通わせた。
しかし宗一郎は一昨年の末、今夜のような寒い日に病に倒れて亡くなった。残された純子はこの家と宗一郎の遺産の一部を渡され、今後一切の関わりを持つことないようにと正妻から釘を刺されたのだった。
薫の父親は軍人であり、彼は薫が赤ん坊の頃、戦争で亡くなった。母、純子はそこでも妾であったと聞く。
――故に、糸子と薫は父違いの兄妹である。
母は糸子の目から見ても、未だ若く美しかった。とても二人の子を産んだようには思えなかった。そんな母を男たちが放っておくわけもないだろうし、幼い子を連れた若い母が生きていくためには、男に身を寄せるしか術がないことも、成長した糸子には理解できるようになっていた。
だが、母は糸子が幼い頃から感情表現が乏しく、どこか現実とは遠い場所に一人でいるように感じられた。会話も長くは続かない。楽しそうに笑うことも少ない。
全寮制の高等学校へ通う兄は、盆と正月、そして学年の変わる春休みに家へ帰ってくる。大人しい母と年寄りの女中しかいない家で、糸子には兄の帰宅が何よりの楽しみだった。
「人魚の肉は不老長寿の妙薬」
何かの呪文のように抑揚のない声色で薫が言った。
「ふろうちょうじゅ?」
「歳を取らないってこと」
「……歳を取らないって、どういうこと?」
糸子から離れた薫は体を起こし、人魚の本を閉じた。横にずらして置いた枕を布団に引っ張り込み、自身の頭を乗せる。
「糸子はいくつになった?」
「十五よ。四月で十六」
「今お前が人魚の肉を口にしたら、そのまま、何年経っても歳を重ねないで十五でいるということになる。ずっと老いることはない」
「え」
人魚さまの肉を食べる。
それだけでも大層なことであろうに、兄は一体何を言っているのか。糸子があんぐりと口を開けて本へ視線を向けると、横から吹き出す声が聞こえた。
「大きな口だな。たい焼きが丸ごと入りそうだ」
「失礼しちゃう」
糸子のげんこつを避けた薫は、微笑みをその顔に残しながら続けた。
「歳を取らないだけじゃない。永遠の命を授かることができるんだ」
「死なないの?」
「そうだよ。それだけじゃない。病気や怪我も、たちどころに治ってしまうらしい。素晴らしいと思わない?」
薫は天井を見つめて目を細めた。うっとりとした彼の表情にある瞳に、何故だか糸子は不安になる。
「そんなの……何だか、怖い」
「怖がりだな、糸子は」
「お兄様と一緒なら怖くないわ。お兄様と一緒に、人魚の肉を食べるのならよいわ」
「そうか。じゃあ手に入ったら一緒に食べよう。そうしたら糸子は僕とずっと一緒だ」
「ずっと一緒?」
「ああ」
黒く澄んだ瞳に魅入られている妹へ、兄は確かめるように尋ねる。
「本当に怖くないね?」
「こ、怖くなんかない」
そのとき、外の木にとまっていたのだろうカラスが、ぎゃあと鳴いた。
「きゃっ!」
「おっと」
バサバサと飛び立つ音と同時に目の前の人にしがみつく。
「やっぱり怖いんじゃないか」
「違うわ。カラスに驚いただけ」
兄の寝巻の襟元を少しだけ寛がせ、その肌に自分の頬を擦り付けた。不安な気持ちを鎮めるための、いつもの行為であった。
薫の手が糸子のしっとりとした黒髪を撫でた。指で髪の束をすくっては、そのまま櫛のように梳いている。薫の髪も黒く艶があり、癖が少ない。
「……あの男爵様は、いつまでいらっしゃるの?」
夕刻に、この家へ訪れた男を思い浮かべた。
先月、突然この家に現れた男爵は、それから何度も母のもとを訪れている。そして、いつもならば一時間かそこらでいなくなるというのに、今夜は帰った気配がなかった。
「さあ」
「少し苦手なの。私、きっと嫌われているのよ。だって私がご挨拶をすると、いつも嫌な表情をされるのだもの」
「糸子を嫌うだなんて、そんなことないだろうけれど……奇遇だね」
「なあに?」
「僕も、あの男爵様は気に入らないなあ」
母はあの男爵とどのような関係になのだろうか。もしや、そのうち自分たちの生活に入り込んでくるのだろうか。そうして、母はまた妾になるというのだろうか。薫は正月休みが終われば寄宿寮へ戻ってしまう。兄のいない家でそのようなことになったらと想像するだけで、糸子はとても心細くなった。
「普段、寂しくはない? 糸子」
糸子の気持ちが伝わったのか、薫が心配そうな顔で問いかけた。
「……お兄様がいらっしゃれば寂しくない」
「奇遇だね。僕もだよ、糸子。糸子がいれば寂しくはない。でも」
「でも?」
「さっき話したことは嘘だよ」
「不老長寿のことね。ただの伝説だもの、わかっています」
「そうじゃなくて、僕と糸子はずっと一緒にいられないってこと。……お前にだってそのうち縁談が来るだろう? そうしたらこの家を出ていくことになる」
「そんなの、いやよ。糸子はここにいて、ずっとお兄様のお帰りを待ちます」
くるりと寝返りを打った糸子は薫に背を向けた。
「子どものように言うもんじゃあないよ。こんなに大きくなったのだから」
「……」
「糸子。拗ねないでこっちを向いておくれ」
仰向けになっていた薫も横向きになり、後ろから優しく糸子を抱き締めた。浴衣越しに伝わる兄の体温が一層寂しさを募らせる。
いつか兄のもとを離れてお嫁に行く。兄もそのうち、誰かを嫁にもらって夫婦となる。わかりきった当たり前のことではあるが、今の糸子には受け入れがたいことだった。
「糸子、寒くないかい?」
「ええ。とっても……暖かい」
後ろからすっぽりと包み込む薫の問いに小さく頷く。
「やっぱり、いつまでも、こんなふうにしているのは駄目だな」
「何が駄目なの」
「兄と妹で同じ布団に寝るのは、世間ではおかしなことだからね。登米(トメ)は諦めたようだけど」
仲の良い兄妹が始終一緒にいることに目を光らせていた女中の登米は、薫が高等学校へ行ってからは何も言わなくなった。寂しがる糸子を思えば仕方がないと思ったのだろう。
糸子は薫の腕の中で振り返り、兄の寝巻の合わせに再び頬を摺り寄せた。その胸が深く息を吸い込み、小さく吐き出したのがわかる。
「ここは静かだな」
「寮は静かではないの?」
「糸子が寮の様子を見たら驚いて腰を抜かすんじゃない? 毎晩のように乱痴気騒ぎでさ、寝てたってお構いなしに大騒ぎで叩き起こされる。議論や口論、歌を歌って、窓ガラスまで破る輩までいるんだよ」
「まあ」
「僕が下級生の頃には、もっと悪い先輩がたくさんいたもんだよ。面白かったけどね」
顔を上げて目を丸くした糸子に、微笑んだ薫が呟いた。
「僕は卒業したあと、大學へは進まないと思う」
「お兄様……!?」
「遺産の一部をお母様が受けたと言ったって、それほど多くはないはずだ。まさか父上がこんなに早く亡くなるとは思いもよらなかったからね」
「でも、高等学校をご卒業すればそのまま大學に行けるんでしょう? 皆さんそうしていらっしゃるのでしょう?」
「早く社会に出て、うんと働いて、僕がこの家をしっかり支えていくよ。お前とお母様のことを守っていかなければね」
「だったら糸子も女学校を辞めます」
「それは駄目だ。良い縁談があるまでは、ちゃんと通うんだ。お前は勉強が好きなんだろう?」
「でも」
「僕も卒業まで数か月はあるから、それまでは楽しませてもらうさ。お前は何も心配しなくていい。僕がたくさん働いて、そうしたら何でも買ってあげるよ」
「お兄様」
「木村屋のへそパンを山ほど買ってあげようか? それとも銀座の果物食堂で水菓子をたくさんがいいかい。上野のカツレツでもいいし、精養軒で西洋料理をたらふく食べようか」
「……食べ物ばっかり」
尖らせた糸子の唇に、薫が人差し指を押し付けながら笑った。
「ははっ、じゃあそうだな……リボンやレエスの付いたハンケチかい? 外国製の香水かい?」
「お兄様との」
「ん?」
「私はお兄様との時間が、もっと欲しい」
「……糸子」
「お休みの日が少ないのですもの。寮へ戻ったらお兄様は糸子のことなんて、すぐに忘れてしまう」
「そんなことないさ。いつでもお前を思っているよ」
唇に触れていた指を取った糸子は、その温かさを両手で握った。兄の長く綺麗な指がこの上なく好きだった。
「お手伝いするわ。私ができること、何でもするわ」
明るく笑いながら自分と母を気遣う薫の気持ちに胸が苦しくなる。
「ありがとう、糸子」
薫は再び糸子の洗い髪を撫でた。しっとりとした感触を愛しむように何度も、優しく。
「もうおやすみ。ランプは僕が消しておくから」
「はいお兄様。おやすみなさい」
いつまでもこの温もりが傍にあって欲しい。
こうして帰ってくる兄の匂いと優しい夜が、長く長く続けばよい。
切ない思いを胸に、糸子は瞼を閉じた。