チラリと彼の横顔を見ると、気づいた彼も私を見た。何か言わないと気まずい感じ。
「婚約指輪」
「婚約指輪は」
 またもや同じことを同時に口走っている。気でも合うのだろうか。
「あっ、どうぞお先に」
「いえ、どうぞあなたからお先に」
 彼が先にジョッキへ口をつけてしまったので、私から質問をすることになる。
「婚約指輪は……あなたが購入された物なんですか?」
 私の憶測ならそれでも全然構わないのだけど、やっぱり聞いてみたい。
 ごくんと喉を鳴らした彼は、あっさりと答えてくれた。

「ええ。僕の婚約者に買って、そのあと婚約破棄して、彼女から突っ返された物です。あなたの『婚約指輪』は?」
「私のは、『元』婚約者にもらいました。返されても困ると言われて、さっきのところへ売りに行ったんです」
「なるほど」
「はい」
「そうでしたか」
「ええ」
 別に驚きもしないか。お疲れ様でしたなんて、この人に言われたんだもんね。
 眼鏡の真ん中を押さえた彼が、小さくため息を吐いた。
「まさか……あんな値段しかつかないなんてねえ」
「ふっ、ですよねえ」
 お互いに苦笑して、またビールを飲んだ。

 何だかこの人、話しやすいかもしれない。お酒のせいもあるんだろうけど、初対面の人に戸惑いもせず言葉が出てくる自分に驚く。まぁ、もう二度と会うこともないだろうし、話しちゃっても構わないか。
 ビールは終わらせて、桃酒のソーダ割を頼んだ。彼は緑茶ハイを飲み始める。
 酔いが回ってきた私たちは、くだけた調子で質問し合った。
「彼女とは、どれくらい付き合ったんですかー」
「俺は付き合ったのは一年ですよ、一年。結婚したい結婚したいって会うたびに言うもんだからプロポーズした途端に、これですわ」
「あははっ! 一年ですかっ!」
 いつの間にか「僕」じゃなくて「俺」になってるし。
「笑うとこじゃないですよそれ。あなたはどれくらい付き合ったって言うんですか」
「私はー……二年半くらい?」
 そんなもんだったんだよね。もっと長く一緒にいたような気がしてたのに。
「俺より長いっすね! ぶははっ!」
「そこも笑うとこじゃないですー。別れた原因って聞いてもいいですか?」
 調子に乗って、さらに質問を浴びせてみる。
「別れた原因は〜……」
 笑顔の彼は一瞬言葉を止めてから、目を伏せた。
「浮気されました」
「え」
「彼女の職場の……同僚だか先輩だかに寝取られたってオチです」
 ははっ、と乾いた笑いをした彼は、当然のように私へ訊ねる。
「あなたは?」
「好きな人ができたって言われて。……結婚式直前に婚約破棄されました」
 酔った勢いで上がっていた気持ちが一瞬で下がる。
 口に出すと改めて身に沁みるもんだなぁ……。チクチク、ズキズキと胸が痛む。ああ、まだこんなにも痛むものなんだ。

 彼はそんな私の気持ちを察したらしく、今日一番明るい笑顔を見せて大きな声を出した。
「うおっし、飲みましょう! どんどん飲みましょう! そんで忘れましょう!!」
「そうですねっ! あなたも飲んで飲んで! 一緒に忘れましょうっ!!」
 グラスをがちんと合わせて、またぐびぐびと飲んだ。
「俺は北村(きたむら)っていいます。あなたは?」
「私は加藤(かとう)です」
「よし、加藤さん、おかわりは?」
「いきまーす! あ、私シチリア檸檬サワーがいい!」
「俺も! すみませーん! こっちシチリア檸檬サワーふたつー!」
 そうだそうだ、ぐだぐだ言ってないで、きっぱり忘れればいいんだ。そのために指輪を売ったんだから。あーんな男、いつかばったりどこかで会ったら「どなたでしたっけ?」って言ってやればいいんだ。そうだそうだー。
「北村さんは何歳ですか?」
「俺は二十八です。あなたは?」
「同じだ! 私は今年の九月で二十八歳ですっ!」
「おー! タメじゃないっすか!」
「タメっすね!」
 また、がちーんとグラスを合わせた。ああ、頭がふわふわする。久しぶりに気持ちのいいお酒の飲み方だ……
「あー俺、ワイン飲みてえ」
「頼んじゃいましょうよ。あ、これうまっ! 北村さんも食べて食べて」
「もっと頼んで、じゃんじゃん食うか!」
「あ、そうだ、私が奢りますよっ! 今日臨時収入あったんです!」
「はははっ、それ婚約指輪のカネじゃん! 俺が奢りますって。婚約指輪のカネでな!」
「私が奢るのー」
「いや俺が奢るんだー」
 このあたりからもう何を話したのか、よくわからない。
 ただただ、二人で愚痴を言い合って、ボケてツッコんでバカ笑いしたことしか、覚えてない。

 気がつけば店を出て、北村さんと一緒に繁華街を歩いていた。
 いつの間にか手なんか繋いじゃってる。覚束ない足取りの私は、適当な歌を口ずさみながら歩いた。転びそうになるたびに、彼が支えてくれる。ジャケットを着ている彼の腕にしがみつきながら、ワンピースの裾から覗くふらつく足が妙におかしくてクスクス笑っていると、目の前に美しい建物が現れた。こんなに楽しいのって、いつくらいぶりだろ。
「綺麗なイルミネーションですね。こんなところに豪華マンションが?」
 私が建物を指さすと、北村さんが歩みを止めた。私も一緒に立ち止まる。
「これはラブホテルっすね」
「ふーん。全然そういうふうに見えないですね」
「入りましょうか」
「え」 
 一瞬だけ酔いが醒めたように感じた。
 この人とホテルに……? それって、私とどうにかなりたいと思っている、そういうこと?
「俺は、部屋に行きたいです、あなたと」
「……フラれんぼな私なんかが相手でも、いいんでしょうか」
 あれから私は、何をするにも自分に自信が持てずにいた。
「俺もフラれんぼですから。慰めてください」
「じゃあ私のことも慰めてください。全力で」
 婚約相手を失っただけじゃなく、自分の中にあった大事なものを全て否定されて、どこかへ消え去ってしまったように感じていた。
「わかりました。全力でお慰めします」
 繋いでいた手をぎゅっと強く握られる。
「……お願いします」
「あ、でも、それならここじゃなくて、ちゃんとしたホテルに行きましょうか。といっても俺、この辺はよくわからないんですが」
「いえ、ここでいいです。ここにしましょう、うん! ……移動したら気が変わりそうだから」
 キラキラと光る入り口の灯りを見つめて、北村さんの手をぎゅっと握り返す。
「じゃあやめましょうか。無理はよくないですよ」
「やめませんし無理もしてません。慰めてくれるんですよね? ……全力で」
 隣に立つ彼の顔を覗き込むと、眼鏡の向こうの瞳が揺らいだように見えた。迷いがなくなった瞬間だと、伝わった。
「はい、全力で」
 真剣な表情に変わった彼は、繋いでいた手をほどいて私の肩を抱いた。この人の手、すごくあったかい……

 彼に連れられて自動ドアから建物の中へ入る。
 そういえば今日って何日だっけ? とても大切なことがあった日だったような。
「あ、そっか」
「ん?」
「いえ、何でもないです」
 思い出した私は、ひとり苦笑する。

 結婚式の予定日だったんだ、今日。