振り向いた男性は、なかなかの爽やかイケメンくんだ。スクエアフレームの眼鏡をしてる。すらっとした背丈は175p以上はありそう。私が155pだから確実にそれくらいはあるはず。私と同じ二十代後半というところかな。

 こんな人がフラれて婚約破棄されるわけないか……と思ったそのとき。
「……どうも」
 私と目が合った彼は、バツが悪そうに苦笑した。
「ど、どうも」
「聞こえましたよね?」
「えっと、ええ。……聞こえちゃいました」
「参ったな」
 やっぱり私と同じ立場なの? いや、婚約破棄を言い渡した側かもしれないし。
「あ……ということは、私の声も聞こえたんですよね?」
 私も苦笑して問いかける。
「まぁ、はい。……お疲れさま、です」
「お……お疲れさま、です」
 思わず噴き出してしまった。お疲れさまよね、うん。その気持ちをわかるってことは、やっぱりフラれた側なのかな。そうだとしたら、かわいそうに。私は自分で買ってないからまだいいものの、高いお金を出して買った婚約指輪があれだけの価値だなんて、やってられないだろう、きっと。

 会釈を交わした私たちは、どちらからともなく離れて店をあとにした。

 それにしても婚約破棄された者同士が出会うなんて、こんなこと奇跡に近いんじゃないの? 悲惨な目に遭ったのは自分だけじゃない。そう思うと、少しだけ心が軽くなった。

「何に使おうかな、お金」
 売ったあとは、その日のうちにぱーっと使ってしまうことに決めていた。
 とはいえ……このお金で手元に残る物を買いたくはない。おいしいものを食べたり飲んだりして使ってしまおう。一人で二万五千円あれば、十分それなりの食事ができる。
 スマホに表示された時間は五時を過ぎようとしていた。まだ夕飯には早いし、少し辺りをブラブラしようか。

 百貨店の中を歩き回る。雑貨を見ていると、食器を扱うコーナーが現れた。可愛らしいお皿を手にして思う。
 ぎりぎりまで食器を買わなくて良かった。引っ越し先が決まるまでは、収納の大きさに検討がつかないので買うのを我慢していた。それが功を奏したというか、何というか。
「……」
 っていうか、一秒でもこんなことを考える時間がもったいない。無駄よ、無駄無駄!!
「本屋でも行こうっと」
 私は気を取り直して上階の書店へ向かった。
 新刊や雑誌をひと通り眺め、何となく足を止めたコーナー。そこには、頑張り過ぎないで楽しく生きる本、恋が終わったときに読む本、自分に向き合う本……どれもタイトルを見るだけで胸に突き刺さるものばかりが並んでいた。やめればいいのに目が離せない。本当はMなのかな私。
 こんな本読んだって、何も変わらないのはわかってるけどさ。
「……」
 いけないいけない、あまり投げやりになるのはよそう。ネガティブすぎると、運がどんどん逃げていく気がする。
 頭を横にぶんと振り、棚にさしてあるポジティブシンキングなタイトルの本へ手を伸ばした。と、同時に誰かの手が同じ本に伸びた。
「あ、すみません」
「いえ、こちらこそ」
 手を引っ込め合って、お互いの顔を見る。
「あっ!」
 さっきの婚約破棄くんじゃないの!
「あ! ……先ほどは、どうも」
 彼もすぐさま気付いたようで、目を逸らしてぼそっと呟いた。
「えっと、どうも」
 どうもとしか言いようがないよね、お互いに。
「どうぞ、この本」
「……いいんですか?」
「何となく手に取ろうとしただけなので。じゃあ」
「あ、はい、じゃあ」
 軽い会釈をして彼はその場を去った。

 なんという偶然。びっくりしすぎて、まだ心臓がどきどきしてる。このタイトルの本を手にしようとするなんて、傷ついた人間の向かう先は同じなのね。ということは、彼も婚約破棄された側だったたんだ。何だか切ない。……やりきれない。

 せっかく譲ってもらったので、手にした本を購入する。百貨店を出れば、すでに六時半になっていた。そろそろ夕飯にしようか。
 フレンチや回らないお寿司屋さんにでも入ろうかと思ったけれど、何となく気分じゃない。口コミがよさげな居酒屋にでも行って、ぱーっと飲んじゃおうかな。

 早速、女性ひとりでも行きやすそうな場所をスマホで探し、そこへ向かった。
 小ぎれいな店構えの居酒屋へ入る。おいしそうな匂いが私を取り囲んだ。うん、いい感じ。適度に騒がしいから、しんみりしないで済みそうだ。
「いらっしゃいませーっ!! おひとりさまですか?」
「あ、はいひとり……あっ!」
 すぐそばにあるカウンター席の人と目が合い、思わず声を上げてしまった。
「あ!」
 彼も私を凝視した。そちらは眼鏡かけてるから、よく見えますよね、うん。
 またお前かと、絶対私と同じことを思ったはず。本当に何なの、この偶然の回数は。
「……ここ、座ります?」
 彼は空いている隣の席を指さした。それを見た店員が「そうされますか?」と私に問いかける。どうしよう、断る理由がない。
「えっと……じゃあ、お邪魔します」
 彼の隣に着席し、熱いおしぼりで手を拭いた。
「いらっしゃいませ、お飲み物をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「とりあえず生で。中ジョッキで」
「かしこまりました。生中ひとついただきましたー!」
 ありがとうございまーす! と元気のいい声がカウンターの中から飛んでくる。
 まずは誤解されないように、彼に言っておかなくては。
「あの、偶然ですからね? あとをつけてきたとか、そういうんじゃないですから」
「わかってますよ。俺……僕も、そこまでうぬぼれたりする人間じゃありませんし。逆に、さっきの書店では、こちらがあなたのあとをついていったふうに感じられたんじゃないですか」
「そんなこと思ってません。そちらも偶然ですよね」
「もちろん偶然です」
 私の前に生ビールとお通しが運ばれると、彼が自分のジョッキを持ちあげた。
「とりあえず乾杯しましょうか」
「そうですね」
 かちんとジョッキを合わせる。
「カンパー……イ」
「……乾、杯」
 何に? とお互いツッコみたくなる雰囲気ぷんぷんだったけれど、気にせずビールを飲む。歩き回って喉が渇いていたせいか、すごくおいしい。
 おいしいけどさ、このあとどうすればいいの。

 隣に座る眼鏡くんは、カウンター越しに焼き鳥を受け取っている。炭火で焼いた香ばしいタレの香りに、お腹がぐうと鳴った。
「食べます?」
「え」
 お腹の音が聞こえたのだろうかというタイミングで、彼は焼き鳥が二本乗ったお皿を私に差し出す。
「どうぞ。旨いですよ、ここの焼き鳥」
「……ありがとうございます。じゃあ、いただきます」
 甘辛のタレと身の締まった鶏肉が、口の中でじゅわっと弾けた。
「ん!? ほんとだ、うまっ!」
「でしょ?」
 ビールを飲んでいる彼がこちらを向いて小さく笑った。近くでそんな顔をされて、心臓がドキリとする。……困った。結構好みの顔してるせいで、その気もないのにときめいてしまいそうだ。
「そういえば……さっきの本、買いました?」
「あ、はい、買いましたよ。ほら」
 バッグから本を取りだして、彼に見せる。
「ほんとだ」
「見ます? どうぞ」
「どうも」

 彼が本をめくる間に私も料理を頼んだ。「あとで俺も買お」という、彼の呟きは聞かない振りをして。