9月になり、学校が始まった。久しぶりの校舎の匂い。
教室に入ると、愛美から声を掛けられた。
「あ、栞!」
「おはよう。久しぶり」
「どうしたの? 結構切ったね」
あそうか。髪切ってから会ってないんだった。
「うん。暑かったから」
「かわいい、かわいい。似合ってる」
「そ、そう?」
愛美は笑いながら私の頭を撫でる。ふと目線を前にすると、相沢くんが振り返って……笑った。え? 私のこと見てるんだよね? 私も笑い返した方がいいのかな。と思ったら、相沢くんはすぐにまた前を向いてしまった。何? 何だったの?
その時、ガタンと椅子から誰かが立ち上がる音がした。別に大きな音だったわけじゃない。けど、すぐにわかった。
――吉田くん、だ。
彼は黒板の方へ行き、教室の前のドアから急ぎ足で出て行ってしまった。
「あ……」
「栞? どうしたの」
「ううん。何でもない」
「相沢くん笑ってたね。なんでか聞いてみようか? 気にならない?」
「うん。聞いてみたい」
私の返事に、自分で言っておきながら愛美は驚いて私を見つめた。
「え、ほんとに? 平気?」
「うん、大丈夫みたい。あたしも行く」
二人で相沢くんの席の前に立った。
「ね、相沢くん、何で笑ったの?」
「え」
「栞のこと見て笑ってたでしょ」
「あ、ああ。髪切ったんだって思って。別に可笑しくて笑ったわけじゃないよ」
一瞬顔を上げた相沢くんは、片手で頬杖をついて、視線を逸らした。
「そうなんだ」
「俺の姪っ子に似てたから」
「姪っ子さん? 何歳?」
「5歳」
それを聞いて愛美は吹き出した。
「怒った?」
相沢くんは顔を上げてまた笑った。なんか相沢くんテンション高くない? いいことあったのかな。
「……大丈夫」
「いーじゃん、似合ってるし」
不思議。あんなに苦しかったのに、ほんともう大丈夫だ。今似合ってるって言われて嬉しかったのに、飛び上がりたいほどでもない。普通に戻れるかな。うん、大丈夫そう。
それはきっと、こうして普通にしてくれる相沢くんのお陰なんだ。それに夏休み、距離を置いたのが良かったのかな? それが、理由……? だよねきっと。あ、金魚のおかげかもしれない。
……吉田くん、どうしたんだろう。こっちを振り向きもしなかった。
席に戻って鞄を置いて、教室のドアを見る。吉田くんはまだ戻ってこない。吉田くんと仲がいい高野くんも教室から出て行ったきり。
席を立って、廊下に出て壁に寄りかかる。何してるんだろ、私。
いろんな友達に声を掛けられたけど、何だか吉田くんのことが気になって挨拶もうわの空になってしまった。
そこで予鈴が鳴った。
しばらくして廊下のうんと向こうから、吉田くんと高野くんが戻って来たのがわかった。
足音が、近付いて来る。……何で私、ここにいるんだっけ。おはようって挨拶するんだよね。あとは夏休みのこととか話すんでしょ? 近付く足音と共に何故か私の心臓も大きな音を立て始めた。
先に高野くんが教室に入って、少し遅れて吉田くんが来た。顔を上げて吉田くんを見ると、彼も私を見て口を開いた。
「あ、おはよ」
その時突然、私の心臓と顔が反応した。
「……! お、おはよ」
「久しぶり、だね」
何故か彼は私から目を逸らす。
「……うん」
「髪、切ったんだ」
「うん」
どうしよう、私。
「……いいと思う」
「え?」
「や、何でもない」
吉田くんはまた私に目を向けた。
「どうしたの? 教室入らないの?」
「ううん」
「具合、悪い?」
吉田くんが、かがんで私の顔に少しだけ近付いた。
「! ち、違うの。全然平気。教室入ろ」
「……うん」
吉田くんを促して先に入ってもらい、後から教室へ入った。
慌てて自分の席に座る。
「……」
顔を横に振って、心の中で違うをたくさん繰り返した。絶対違うよ。違う違う違う。だって違うよ。そんなこと、有り得ない。
「栞どうしたの?」
「えっ?!」
後ろの席の愛美の声にびっくりして、出そうとした教科書とノートをバサバサと落としてしまった。
「な、何どうしたの? 顔真っ赤だし」
「そんなことないよ。絶対違う!」
「熱、ある? 保健室行く?」
「全っ然! 超元気だし! 違うからほんっと!」
「? 何かやっぱり変だよ」
愛美が心配そうに顔を覗きこんできた。
「鈴鹿さん平気?」
隣の席の男子まで声を掛けてくる。
「全然平気! ほら!」
拾った教科書とノートを両手に持って、笑顔で答える。
「やっぱし、変」
「そ、そう?」
絶対、違う。
さっき吉田くんと目が合った時、胸が痛くなって、顔が熱くなったなんて。
絶対に、違う。
吉田くんを好き……とか、そういうんじゃない。
恐る恐る、後ろの方の席にいる吉田くんを振り返る。ちょうど彼が顔を上げてこちらを見た。ような気がするけど、目が合う前に慌てて顔を逸らして前を向いたから、わからない。
栞、今ならまだ引き返せる。気づかない方がいい事もあるでしょ?
早く消した方がいい。何でもない振りして、さっきのは無かった事にしよう。相沢くんの事だって、今日みたいに大丈夫だった。だからできるよ。まだ小さいから。きっとすぐに消せる。
その場で小さく息を吸い込んで深呼吸した。大丈夫。もう平気。
吉田くんは、友達。特別なんかじゃない。ただの友達。大事な友達。
胸のうんと奥に、小さな思いを閉じ込めて、何事もなかったように教科書とノートを開いて、前だけを見つめた。
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