朝から、蝉の鳴き声が元気に鳴り響いている。
「暑い……」
夏休みもそろそろ終わりに近付いていた。目を開けて時計を見ると7時半。もうちょっと寝ようかな……。
「あ、餌!」
私は飛び起きて、パジャマのままリビングに向かった。
「栞? おはよう」
母が声をかけてくる。
「おはよ! あ、健太ダメ!」
リビングの窓辺で、弟が勝手に金魚に餌をあげていた。
「いーじゃん、ちょっとくらい。それにしてもこいつよく食べるよなー」
「もう、あたしがあげようと思ってたのに。いいからあんたは早く部活行きなさいよ」
「んだよ、ドケチ」
弟は口を尖らせて、私を睨み付けた。でも次の瞬間にやっと笑って言った。
「な、これ彼氏にもらったの?」
「え?!」
「だってねーちゃん、金魚なんか一回も取れたことないじゃん」
「そんなことないよ。一回くらいは取れたよ」
「ないね。絶対ないね」
「あるね。絶対あるね」
「ないっつーの!」
「あるってば!」
「もう健太は早く学校行きなさい! お父さんと一緒に出るんでしょ? 栞もすぐムキにならないの!」
「やべ、遅れる!」
健太は大きな鞄を持って、ドタドタとリビングから出て行った。その後をついて、玄関にいた父に声を掛ける。
「お父さん、行ってらっしゃい」
「行ってくるよ」
「俺はー?」
「……早く行って」
溜息を吐いて、リビングに戻り金魚に目をやると、元気に金魚鉢の中を泳いでいた。
「かわいい」
思わず口に出してしまう。ちっちゃくて、赤っていうか朱色だね、この色もすごくかわいい。
「ね、健太の言った事当たってるの?」
母がアイスティーを入れてテーブルに置いてくれた。
「なにが?」
「彼氏」
「ち、違うよ。彼氏じゃないよ」
「彼氏じゃない……けど男の子にもらったんだ」
鋭いなあ。そうだけど。でももちろん彼氏じゃないし。黙っていると、母は続けた。
「かっこいい子?」
「……うん。めちゃくちゃかっこいいよ」
「へえ! あとは? どんな人なの?」
「どんなって……頭もいいし、運動神経もいいし、友達も多くて、すっごく女の子にモテるよ」
「それで?!」
……ちょっと、目が怖いんですけど。本物見たら叫ぶかもね、お母さん。
「それで、って……」
あとは、すごく優しい、よね。
「彼女いるの?」
「え……」
この前、中庭で見てしまった時、吉田くん、今はそういう気がないって言ってた。告白してた子も吉田くんがいつもと違うって言ってたし。
「今は、いないみたい。いっぱい告白されてるらしいけど全部断ってるんだって。皆不思議がってるよ。今までは常に彼女がいる状態だったのに」
私が金魚に目をやると、母がぼそっと言った。
「その子、好きな女の子でもいるんじゃない?」
「え?」
「きっとそうよ。もしかしたら片思いしてるのかも」
「あ、有り得ないよ!」
思わず大きな声で否定してしまった。
「だって、あんなにモテるんだよ? そんな人が片思いなんて絶対に有り得ない!」
「そんなことないわよ。いくらモテたって、どんな人だって、必ず好きな人に好きになってもらえる保障なんてないんだから」
「……」
母の言葉が少し痛かった。そんなのわかってる。そんな保障ないのは知ってる。だけど……吉田くんが、片思い? 学校の中でそんなの誰よりも似合わないよ。でも、もしお母さんの言ってることが当たってたとしたら、その相手って誰なんだろう。
「……」
そこでふと気づく。何だか妙に寂しい気持ちになっていた。
あの花火の日から、相沢くんのことはもうきっぱり諦めたし、やめようっていう踏ん切りがついた。家にいて何となく相沢くんを思い出しそうな時は、リビングに来てこの金魚を眺めてあの時の気持ちを思い出した。
金魚を見て同時に思い出すのは……吉田くんのことだった。
「お母さん、私、今日髪切ってくるから」
「そうなの? 予約入れた?」
「うん。行ってくる。行ってさっぱりしてくる」
「?」
髪、いつもよりも短くしてみよう。それから吉田くんにメールするんだ。金魚は元気だって。写メも送ってみたら何て返事が来るかな。
学校で逢ったら話しかけたい。花火大会のこと、夏休みのこと、何でもいい。
ただ顔を見て話がしたいって、今本当に……そう思ったから。
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