栞に片思いをして半年。付き合ってもうすぐ三ヶ月だ。雨音がやけに耳に響いて、出逢った日の彼女の小さな背中を思い出す。
「……傘、無いの?」
あの時届かなかった言葉を、今俺の隣にいる彼女に渡す。
「え?」
「無かったら、俺の貸すよ」
「? あるよ、ほら。どうしたの? 一緒に帰るんじゃないの?」
栞は自分の傘を手にして、不思議そうな顔で俺を見上げた。
「って、言いたかったあの時」
「……あの時?」
「うん」
それきり何も言わずに栞の顔を見つめた。何言ってるのか、全然意味わかんないよな。
「……涼?」
「傘、俺が貸したかったんだ、ほんとは」
「……」
「行こう」
外に出て、傘を広げようとする栞の手を止めた。
「あのさ、俺の傘使わない?」
「あたし傘あるよ?」
「うん。そうだけど、さ」
さっきは栞にあんな風に言えたけど、断られたらって思うとまた緊張する。怒らせたばっかりだし。
「一緒に入るの、いや?」
「……ううん」
静かに答えてくれた栞に俺の傘を広げて差し出すと、遠慮がちに彼女が中に入って来た。
学校の門を出て土手沿いに向かう。川の向こうは霧がかかったように白く霞んでよく見えない。
「涼が濡れちゃうよ」
歩きながら、俺が持つ傘の柄を栞が押した。
「大丈夫だよ」
「駄目だよ。寒いし風邪引くよ?」
「じゃあ……もっと、こっち来て」
「……」
返事がない。やっぱし昇降口での俺の態度が嫌われたかな。本当はまだ怒ってるとか? こっち来てとか、ずうずうしかったか。いろいろ考えて栞の顔を見る事ができない。そう思った時、俺の袖を少しだけ引っ張る感触がした。
「これくらい?」
「う、うん」
「これなら涼も濡れないね」
すぐ傍にいる栞が、俺の顔を見て微笑んだ。
嬉しいんだけど、何て言ったらいいかわからない。さっきまで栞に強気に出てた癖に、栞の言葉と態度に未だに一喜一憂している。怒ってないってわかっただけで、何でこんなに胸が一杯になるんだ。
「……栞は知らないと思うけど」
「?」
「俺が栞の告白見ちゃった日、帰りに雨が降ってたの、覚えてる?」
「あ、うん。覚えてる」
「帰り、昇降口の外に栞が一人で立ってた」
栞が俺に顔を向ける。
「俺、栞に自分の傘貸そうとして外に出たんだ」
「え…え? ほんとに?」
「うん。相沢に先越されたけど」
苦笑いする俺を、栞が真剣な顔で見ている。その視線を受け止めた後、目の前の道に出来ていた小さな水溜りに目線を落とし、話を続けた。
「俺、あの時からずっと栞が気になって仕方がなかった。栞が告白してるの見て、俺のパンを食べてくれてさ、雨の中、一人で立ってて……」
「涼」
「あっという間に、好きになってたんだと思う。自分で自覚するずっと前から」
「……」
「栞に逢ったあの日から、全部変わっちゃったんだ、俺」
栞に伝える事が出来た俺は、傘を右手に持ち替え、左手で栞の手をそっと握った。今日は雪の後の冷たい雨が降っているにも関わらず、やっぱり手袋をしていない栞の手に触れた途端、思わず声を大きくする。
「手、大丈夫?!」
驚くほど冷たくて、凍ってるみたいだった。
「涼の手があったかいから、平気」
栞の声に何故か切なくなって、無言で繋いだ手をそのまま俺のズボンのポケットに入れた。これで少しはあったかいかな。そう言えば赤レンガからシーバスに乗る時も、こうして栞の手をポケットに入れたっけ。
暫く黙って土手沿いを歩きながら、何となく栞の鞄に目が行った。いくつか付いているキーホルダーの中の一つに、ボールチェーンに淡いピンクのリボンが小さな蝶結びになって付いているものがある。自分で付けたのかな。この一つだけ買った物のようには見えなくて、少し違和感があった。
「ん?」
俺の視線に気付いた栞が首を傾げた。
「それ、そのリボン」
「あ……うん。前に涼がくれた花束のなの」
栞が照れたように俯いた。
「涼に初めてもらったから。いつでも見れるようにずっと付けてたんだ。お花はね、いくつか押し花にしてみたの」
「……」
「押し花なんて小学校の時以来だったけど、結構上手くできたよ」
「……これ、ずっと?」
「うん。お花もらった次の日からずっと付けてたの、気付かなかった?」
「……気付かなかった」
「涼、鈍いもんね」
その笑顔に胸が苦しくなって、繋いだ手を離して栞を自分に引き寄せた。
俺、何見てたんだろう栞のこと。全然気付いてなかった、本当に。
「一年後はもっと大きいの買うから」
「この前そう言ってくれたの、覚えてるよ」
俺の腕の中にいる栞の声は、優しかった。
「もっと、もっとさ……花だけじゃなくて」
上手く言えない。言葉よりも先に何かが喉の奥でつかえて、邪魔される。
「……うん」
「一年後も、一緒にいてくれる?」
「……もちろんだよ」
そう言って俺の制服を小さく掴んだ栞を片手でうんと強く抱き締めて、栞の肩に顔を埋めた。
静かな雨音が響いている。
ただ栞を思う気持ちで胸が痛くてどうしようもなくて、少しでも何かを口に出したら泣き出してしまいそうで、何も言えずに傘の中で寄り添っていた。
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