昨日は結局栞に声もかけず、俺は先に帰ってしまった。
昼休みになって栞と約束しているいつもの場所へ行く。けど、何も食べたくなくて飲み物だけ持っていった。座って缶コーヒーの蓋を開けていると階段を上がる足音が聞こえた。
「あ、早かったね」
栞の声が届く。嬉しい筈のその声が妙に胸に重くのしかかる。
「……うん」
やっぱり目が合わせられない。俺の隣に彼女は座った。
「食べないの? ごはん」
「うん。今日はいい」
「……そう」
栞はそう言うと、弁当箱の蓋を開けた。けどすぐ閉めた。
「あたしも、何だか食欲ないや」
「……」
「……」
少しだけの沈黙が、長くて苦しい。今日はあまり陽が出ていないのか、いつもより少し寒かった。
「さっき科学難しかったね」
栞が明るく声を掛けてきた。
「あたし、全然意味わかんなかったよ。涼は? わかった?」
「うん、まあ」
「そうなんだ。じゃあ後で教えて?」
「……いいよ」
何なんだよ涼、お前は。せっかく栞が何事もなかったかのように話かけてくれてるってのに、いつまで拗ねてんだよ。
何事もなかったかのように……? 栞はそうしようとしてるのか? 俺が怒ったことも、こうしてまだ気にしてることも。
あいつの事が頭に浮かんだ。
何で言ってくれなかったんだよ。俺全然知らなかった。文化祭の時、どうして言わなかったんだよ。
どれくらい付き合ってたんだろ。中三って言ってたけど、もしかして一緒に同じ高校行こうね、とか言って来たのか? ここに。
ペットボトルの蓋を開けている、栞の手を見つめた。
手とか、繋いだりしたのかな。俺が抱き締めたように、栞のこと……。いかんいかん、やめよう。俺の悪い癖なんだよこれ。やめようと思いながらも栞の顔をちらりと見た。
紅茶のペットボトルに口をつける栞が目に入る。もしかしてキスとか、したのか? まさかそれで……。だ――っ! やめろやめろ、涼! それ以上はやめとけ!
またイライラしてきた。だから何なんだよこれ。だって頭に来るなら、栞に馴れ馴れしいあの男にだろ? 何だってこんなに、栞に対してイライラしてるんだよ、俺は。
栞が大好きなのに。なのに栞に頭に来てる。栞のことを見る度に、あいつの姿がチラつく。今だけじゃない、授業中だって、廊下にいた時だって、どうしても頭から離れない。何か全然知らないものに、ずっと取り憑かれて支配され続けてるみたいで、自分じゃどうしようもない。
「……ね」
どうすればいいんだ。
「……涼」
俺、本当に変だ。こんなこと初めてだよ。女の子と付き合っててもこんな風になったことなんてない。
「……涼」
いつも冷静だったのに。何でこんなに余裕がないんだ。自分の彼女が誰と付き合ってたかなんて、ほんとにどうでも良かったのに。
「お願い、こっち向いて?」
栞の泣きそうな声に、はっとして顔を上げる。
「もう嫌われちゃった?」
「え、ちが……」
振り向くと、栞は立ち上がり、駆け出していた。あ、やばいこれ。涼、追いかけろよ。
……けど、俺の足はその場から動かなかった。俺、何してんだよ。でも栞を追いかけたとしても、自分で自分の気持ちがよくわからないのに、彼女に何て言えばいいのかそれこそわからない。
栞、教室に行ったのかな。暫くしてから自分の飲み物と、置き去りにされた彼女の紅茶を持ち、とぼとぼと階段を下りた。
「涼、どうしたの? すごい顔」
「……」
「何怒ってんの?」
また女の子達に声を掛けられたけど、思わず睨みつけてしまった。
「え、なに……?」
「ちょっと、怖いよ、涼」
「……だったら、話しかけんなよ」
いつもなら出さないような低い声で答えてその場を去った。俺、そんな怖い顔してんのか……。
教室に入ると栞は戻っていなかった。どこ行ったんだよ。自分の机に行き、鞄に教科書を詰め込む。
「涼、何やってんのお前」
高野がパンをかじりながら声を掛けてきた。
「……帰る」
「は?」
「適当に言っといて」
「お前、鈴鹿さんは?」
「……」
栞の机の上に、さっき彼女が飲んでいたペットボトルの紅茶をそっと置き、自分の鞄を持ってそのまま教室から出た。
喉の奥の方に入った、いやな色の塊が昨日からずっと取れない。取れないどころか、どんどん大きくなっている気がする。
今栞と顔を合わせたら、栞にひどいこと言ってもっと嫌な態度取るもしれない。怖い。傷つけたくない。一緒にいたいのに、いたくない。
自分の感情がわからないまま土手を歩いて、遠くを見つめた。吹いてくる風は冷たくて頬に刺さるようで、マフラーのない襟元がひどく寒くて堪らなかった。
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