ななおさん
番外編 壮介視点 古都に咲く花
コーヒーマシンで淹れたエスプレッソを口にしながら窓の外を見た。梅雨明けにはまだ早い六月末の曇り空は、こちらの気持ちまで憂鬱にさせる。
「午後から鎌倉か。雨降らないといいんだけど」
ぼやきながらデスクに戻り、カップを置いてパソコンで検索を始めた。
みもと屋の休日、木曜日。当然僕以外、誰もこの事務所にはいない。静かな職場は仕事に集中するのにうってつけだった。
「あー……また新作出てるよ。どうしたらこんなに定期的に出せるんだよ、もう……!」
頭を掻きつつ、エスプレッソを口へ流し込んだ。
画面に映し出されているのは和菓子の老舗、風香仙庵のホームページ。四年ほど前から雰囲気をガラリと変え、通販用の品数を増やし、和菓子のネット販売のトップへ躍り出た店だ。その状態が三年も続いている。
経営者兼、四代目の相馬さんは和菓子協会の集まりなどに姿を見せることはなく、SNSを探してもどこにも見当たらなかった。噂によると人前に出るのが苦手らしく、古い付き合いは大事にしているものの、取材などは一切断っているという。
記載されているサイトのメールへ、個人的に連絡を取ろうか迷っていた。
追いつけそうで追いつけない。まれにこちらが通販で一位を取ることがあっても、すぐに追い抜かれてしまう。みもと屋には何が足りないのか、一度でいいから本人に話を訊いて納得したかった。
一人PCを前に唸っていた時、事務所の扉の鍵を回す音がした。
「あれ? 古田さん出勤ですか? お疲れ様です」
笑顔で入って来たのは男性社員の新田(にった)。僕のふたつ年下で頼りになる存在だ。
「どうしたの?」
「ちょっとやり残したことがあったんで、どうしても。このあと朝倉(あさくら)も来ますよ」
「ありがたいけどさ、休む時に休まないと体もたないよ?」
「すぐ帰りますんで」
「無理しないようにね」
「はい」
ジャケットを脱いだ彼は自分のデスクにつき、資料整理を始めた。
「新商品完売しましたね。今回は早かった」
パソコンの画面を見ながら新田が言った。みもと屋の通販部門はありがたいことに、今年に入ってから限定販売の商品が完売するという事態が何度も起きている。
「うん。でもまぁ気を抜かないようにしないとね。すぐに追い抜かれるし、飽きられるのも早い世界だし」
「店頭に置くことはしないんですか? 相乗効果で口コミも増えると思うんですけど、どうなんでしょう?」
「店長が、まだね」
「駄目ですか」
「……駄目だねぇ。まぁ、ネット販売を許してくれただけでも進歩なんだけどさ。そこから先にはなかなか進ませてくれないね」
みもと屋の店長でもある僕の父親は、店のことに関しての考えが古く、これまでも話が進まないことが多々あった。
「新田くんさー、まだここにいる?」
「いますよ。三時過ぎくらいまでかかりそうです」
「僕、一時半に鎌倉だから、もうすぐここ出るんだ。悪いけど帰る時、事務所閉めておいてくれる?」
「わかりました」
「何かあったら連絡して。店の方に店長たちいるはずだから、そっちに言ってくれてもいいし」
時計を見上げた時、女性社員の朝倉が元気よく事務所に入って来た。
信号機の故障だとかで電車が遅れてしまった。相手先に連絡は入れておいたけれど、初めて訪問する和菓子店だから甘える訳にはいかない。急げばギリギリ間に合いそうだ。
鎌倉駅に着き、雨の前の蒸し暑さが広がるホームから階段を駆け下りる。平日だというのにこの駅はいつも人が多い。イラつく気持ちを抑えて混雑した改札を抜け、スマホに表示された地図を見ていたその時、すれ違う人にぶつかってしまった。衝撃で手元から鞄が落ちる。
「……前見ろよ」
「すみません」
舌打ちをした男性に頭を下げて謝った。
自分でも嫌になる。この忙しい時に……。立ち去る男性を確認してから、急いで落とした鞄の方を振り向いた。
鞄から何かが飛び出した音は聞いていた。だからそれを拾い集めようと思ったんだ。でも、僕の動きはそこで止まってしまった。
白く柔らかそうな手が僕のボールペンを持っている。その手の持ち主は、爽やかな淡い水色の和服を着た女性だった。しゃがんで俯く襟元からのぞいた真っ白なうなじに……思わず目を瞠る。
こちらを見上げたその人が、僕に向かって微笑んだ。
「大丈夫ですか? 落ちましたよ、これ」
「……」
「あの……?」
「え、あ、ああ、はい」
かがんで近づきボールペンを受け取るも、僕はすぐに目を伏せてしまった彼女の顔ばかり見ていた。もう一度こちらを見ないだろうか、目を合わせてはくれないだろうか、という期待は虚しく、立ち上がった彼女は小さく会釈をして、僕に背を向けさっさと歩いて行ってしまった。
鞄を拾い上げ、離れて行く彼女を目で追いかけた。江ノ電乗り場へ向かったその背中は、あっという間に人ごみに紛れてしまった。
――時間があれば追いかけたのに。
「……何言ってんだ。急ごう」
彼女とは反対方面へ向き直り、駅前のバスターミナルを目指して歩き始めた。
「お帰りなさい」
鎌倉から戻ると、事務所にはまだ彼らが残っていた。
「ただいまー。長引いてるね」
「そろそろ帰ろうと思っていたところです。朝倉も。な?」
「古田さん、お疲れ様です。コーヒー淹れましょうか?」
新田に目配せをされた朝倉が立ち上がる。気遣い屋の二人らしかった。
「いや、自分で淹れるからいいよ。ありがとう。もう帰りなね」
スーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めて椅子に座った。パソコンの電源を入れる。鞄から手帖を取り出し、そこに差しこまれたボールペンを引き抜いた。ペン先を出しながら、拾ってくれた着物姿の人を思い出す。
最近見かける、派手な和服を着て楽しむようなグループの女子には見えなかった。ということは地元の人だろうか。歩き慣れている様子から、そんな感じもした。歳は僕よりも少し下くらいかな。
「二十代後半、か」
「次の客層の話ですか?」
鞄を持ちながら新田がこちらを向いた。慌ててボールペンをデスクに置き、パソコンの画面を見ている振りをする。
「え! いやまあ……そうだね。うん、二十代後半がターゲットでいいんじゃない。そう二十代後半ね。二十代後半、うん」
「そんな何回も言わなくても聴こえてますよ。どうしたんですか」
「別に、どうもしないけどさ」
新田に笑われて、ふてくされたような声で返事をしてしまった。何でこんなに動揺しなければならないんだ。
「じゃあ、お先に失礼します」
「私も、お先に失礼します」
「うん、お疲れ様。明日ね」
不思議なことに、和服の彼女のことが頭から離れなかった。
用事を済ませた帰りの鎌倉駅で、いるはずもない彼女を目で探したり、帰りの電車の中でも何度も思い出してしまった。どうしたっていうんだろう。物を落として拾ってもらったことなんか、過去に何度もあるじゃないか。
焦っていた中で、ああいう姿に出逢ったことが新鮮に思えた。それだけのことだ。
仕事を終え、外で夕飯を済ませた僕は家に戻った。風呂上がり、両親のいる茶の間で何となくくつろいでいる僕に母が言った。
「壮介、スマホ鳴ってるわよ」
「え? あ、ほんとだ」
座布団の横に置いたスマホを取り上げた途端静かになった。留守電に入ったメッセージを確認する。明日でも構わない用だった。
「どうしたのよ、さっきから、ぼーっとして。仕事のし過ぎじゃないの?」
「そんなことないよ。大丈夫」
母の淹れてくれたお茶を飲む。確かにぼんやりしている場合じゃない。
「父さん、みもと屋のことなんだけど」
「なんだ?」
「そろそろ僕に経営のこと全部任せてくれない? ネットだけじゃなくて実店舗の方も。今、ネット販売の売り上げが伸びてるんだよ。その時期を逃したくないんだ」
「……お前がきちんと所帯を持ったらな」
熱いお茶を啜った父は僕の方を見ずに答えた。
「そんな無理言わないでよ。第一関係ないでしょ、結婚と経営は」
「無理って何だ。お前の歳なら、もう当たり前のことだろう」
「今のところ、僕にそのつもりはないよ」
小さく溜息を吐いてから返事をする。気持ちはわからなくもないけれど、その気になれないものを押し付けてくるのは勘弁してほしい。
空気を読んだ母がリモコンを操作し始め、忙しなく番組を変えた。
「あら、鎌倉特集だって。最近よくやるわねぇ。母さんも鎌倉は好きだけど」
「壮介、お前今日行って来たんじゃないのか?」
「行ってきたよ。和菓子店でいろいろ話聞かせてもらった」
無理に話題を変えようとする母に付き合う形で答えた。ここで喧嘩をしても何の得にもならないのはわかってる。
「駅周辺は店の回転が早いんだよね、意外と……」
口を動かしながらも、鎌倉駅を映し出したテレビの画面に釘付けになった。
鎌倉駅の改札を出たすぐの場所。蒸し暑い中、涼しげな色の着物が目を引いた。落ち着いた声。清楚な雰囲気と優しげな表情。
彼女にボールペンを渡された、右の手のひらを見つめる。
あれだけのことに何故こんなにも拘っている自分がいるのか、よくわからなかった。彼女の横顔が目に焼き付いて離れない。
足元に咲く小さな花を見つけた時のようだと思った。近づいた時の仄かな香りと、鎌倉の古都という場所が、僕にそう感じさせただけなのかもしれないけれど。
「お茶ごちそうさま。僕はまだ寝ないけど、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
立ち上がり、朝の早い両親に挨拶をしてから呟いた。
「来週の木曜も……」
「え? なんか言った? 壮介」
顔を上げた母が首を傾げた。
「何でもない。じゃあね」
次の木曜日、昼前に起きることが出来たら。
目が覚めてまだ気に掛かっていたら。
見かけることがなくても、暇つぶしと勉強の為に行くのだから無駄じゃない。
頭の中にいくつも並べた言い訳を考えながら苦笑する。
もう一度会ってみたい。ただそれだけの為に? 会える可能性なんて無いに等しいのに? わざわざ休日に鎌倉まで? 家を出て一時間以上はかかるという場所に? そんなことをしている暇なんて今の自分には無い筈じゃないか……。第一会えたとしても何て声を掛けるんだ。馬鹿なことを、と思う頭を横に振りつつ自室に向かう。静かな部屋に入ると、弱い雨の音に気が付いた。昼間とは違い、肌寒さを感じる。
明かりを点け、鞄の中から今日使ったばかりの鎌倉のガイドブックを取り出した。
万が一、奇跡みたいな偶然が起きたなら、細かいことはその時に考えればいい。
雨の音を聴きながらページを捲っていると、いつの間にか眠りに誘われていた。