本編完結後、一週間後くらいの七緒と壮介のお話です。

ななおさん

番外編 そうすけさん




 石畳の通りに並ぶ木々は瑞々しい黄緑色の葉をつけ、爽やかな匂いのする風に揺れていた。
「あの店、昼時は本当に混むんだよ。最近は外に並ぶのが当たり前になってるんだ」
「そうなの?」
「この時間なら平気なはずだけどね」
 隣を歩く壮介さんが手首の腕時計をちらりと確認した。

 ゴールデンウィーク直前の木曜日。
 みもと屋が定休日のこの日、家を出た私たちはみもと屋へ車を置き、椅子カフェ堂へ向かって歩いていた。
 壮介さんが大事に取っておいてくれた、私がホテルのデスクに残したお金。彼の仕事が忙しくて中々使う機会が無かったけれど、ようやくその約束を果たせる日が訪れた。
 椅子カフェ堂で一緒に食事をしたい、という彼の申し出は、私にとっても嬉しいものだった。チーズケーキがとても美味しかったから他のメニューも気になっていたし、壮介さんがお世話になっているお店に連れて行ってもらえるのは、私のことを信用してくれている気がして嬉しかった。
 石畳の通りから路地に入る。可愛らしい雑貨屋さんの前を通り過ぎ、しばらく行くと立て看板のあるお店の前に着いた。壮介さんが厚い木製のドアを開けると同時に、からりん、と綺麗なベルの音が響いた。コーヒーのいい香りが漂う。
「いらっしゃいませ」
「くるみちゃん、こんにちは」
「あ、古田さん! 奥様も」
「こんにちは」
 満面の笑顔で出迎えてくれた、以前会ったことのある彼女にお辞儀をした。あの時思ったように、明るくて可愛らしいカフェ店員さんのスタイルが似合っている。
 壮介さんが言った通り、二時を過ぎた店内はお客さんはまばらで、比較的ゆっくりできそうだった。

 席に着いてメニューを見る。彩りの綺麗な料理に目移りしてしまう。
「美味しそう〜! どれにしよう〜……」
「どれも美味しいと思うよ。有澤さんの料理は絶品だから」
 正面に座っている彼が肘をついてメニューの写真を指差した。
「あ、壮介さん好きなの頼んでね。今日は、あのお金を使わせてもらうんだから」
「うん。ありがと」
 優しく笑って頷く彼に、今さらだけど戸惑ってしまう。慌ててメニューへ視線を落として誤魔化した。この半年間、私も彼も素直になれなかったから、逆にこんな反応をされてしまうと照れるというか、いちいち笑顔が眩しいというか……まだなかなか慣れることができない。
「お決まりでしょうか?」
 くるみちゃんと呼ばれていた彼女がオーダーを取りにやってきた。
「私はキャベツとブロッコリーのアンチョビパスタで」
「僕はきのこクリームコロッケセットね。食後にカプチーノつけてください。七緒さんは?」
「私もお願いします」
「かしこまりました」
 オーダーを繰り返す彼女の声を聴きながら、壮介さんが私の顔を覗き込んだ。
「七緒さん、食後のスイーツはいいの?」
「すごく食べたい……! けど、量がわからないから迷ってるの」
「スイーツのボリュームはそれ程ないと思うんですが、良ければお食事の後にオーダーされても大丈夫ですよ」
 クスッと笑った彼女が答えてくれた。
「じゃあ、そうしますね」
 メニューを閉じた時、壮介さんがくるみさんを見上げた。
「くるみちゃん」
「はい?」
「実は僕たちも挙式が決まったんだ。籍は入れてるんだけど、式はまだだったんだよね」
「そうなんですか!? おめでとうございます!」
 彼の言葉にくるみさんの顔がぱっと明るくなった。
「ありがとう」
「いつくらいなんですか?」
「十月に鎌倉で」
「鎌倉なんて素敵! それに十月って、とてもいい季節ですよね〜」
「まーね。ね? 七緒さん」
「え、あ、はい。そうなんです、鶴岡八幡宮で」
 急にこっちへ振られたから驚いてしまう。それにしても壮介さんの顔……と思った時、彼女が呟いた。
「こんなに、にやけながら惚気る古田さん、初めて見ました私」
 私も彼のこんな表情は見たことがなかった。椅子カフェ堂で自慢する、と言っていたのは、このことだったの? 惚気る、だなんて言われて私の方がどぎまぎしてしまう。
「たまにはいいでしょ。いつもくるみちゃんのノロケを聞かされてばっかりなんだから、僕にも言わせてよ」
「うん、いいですよ〜。どんどん言っちゃってください。そうそう、私たちの二次会にもぜひいらして下さいね。奥様もご一緒に」
「いいんですか?」
 顔を上げると、視線を合わせた彼女がにっこり笑った。
「もちろんです! 古田さんに案内を渡しておきますから、ぜひ」

 美味しいお昼ご飯を満喫し、一度飲んだら忘れられない味のカプチーノを飲み終えた私たちは、席を立ってレジへと向かった。私がレジで支払いを済ませている間、壮介さんは傍に置いてある家具と雑貨を見ていた。可愛らしいアンティークの雑貨の一角に、温かみのある和雑貨のコーナーが目に入る。どれもシンプルなもので、ヨーロッパの雑貨と一緒に飾られていても違和感がない。
「素敵な和食器ですね」
「去年、みもと屋さんとコラボした和フェアの時から、和の食器を仕入れるようにしたんです。作家さんがひとつひとつ手作りしているんですよ〜。良かったら見ていって下さい」
 私にお釣りを差し出しながら、くるみさんが教えてくれた。壮介さんは家具の一部の机を見ている。
 バッグにお財布をしまいながら、コーナーの傍に近寄った。素朴な手触りの白い粉引のマグカップは、コーヒーだけでなくスープを入れても美味しそう。黒もあるから壮介さんとお揃いで欲しいな。その時ふと、足元にあった椅子が目に入った。
「これ素敵……!」
 四角い座面の、小ぶりのスツール。踏み台にしてもいいし、玄関に置いて靴を履く時に使ってもいい。無垢材で出来ているから使い込むほどにいい味が出そうだし、何より形が可愛いからすごく欲しいけど……お値段に唸ってしまう。でも、こんなにしっかりしている作りで、このお値段は安い方だよね。
「あと他に欲しい物は?」
 隣に来た壮介さんが、私が見ていた椅子を持ち上げ、器と一緒に彼女へ渡した。
「え!?」
 驚く私を気にもせず、壮介さんは家具や雑貨を見回している。
「こっちは僕が買うからいいよ。あとはどれが気に入ったの? これ?」
 彼は私が触れようとしていたキッチンクロスを手にした。リネンに黒い刺繍がしてあるアンティークのセンスの良いキッチンクロス。
「気に入ったけど、でも」
「何?」
「今日は、あのお金を使う日なのに……。壮介さんに使わせたら意味ないじゃない」
「いいの、いいの。これはまた別だよ」
 壮介さんはクロスを彼女に渡し、再び私に訊ねた。
「あとは?」
「もう大丈夫」
「だめだよ、もう一個。いや、あと最低三個だな。はい、選んで」
 後ろから私の両肩へ手を置いた壮介さんは、雑貨の方へ私の体を向き直させた。
「さすが太っ腹だな〜古田さん。遠慮せずにどんどん選んでくださいよ。奥さん、ですよね?」
 言われて振り向くと、背の高い男性がこちらを見下ろしている。ここの店員さん? にしては服装が違うような。
「この家具を作ってる職人さんだよ」
 壮介さんが教えてくれると、くるみさんがその男性の隣に来た。
「古田さんなら割引きしますよ〜。ね? 職人さん」
「お前、何堂々と勝手な事言ってんだよ。よっぽど俺にぶちのめされたいらしいな」
「いたた。冗談ですってば、いたた」
 家具職人さんが、くるみさんの頭をげんこつでぐりぐりしている。仲の良い二人に思わず笑ってしまった。
 美味しい食事に、可愛いスイーツと雑貨、素敵な家具。そして温かい雰囲気が漂う居心地のいい空間。とても良いお店だと思った。
「持って帰ります? 宅配便手配しましょうか?」
「いや、車に積んでくからいいよ。このまま持ってく」
 壮介さんがお金を支払うと再び、後ろから声を掛けられた。
「ありがとうございます古田さん。奥様も」
「有澤さん、ごちそうさまでした。相変わらず美味しかったです」
 出た! くるみさんの婚約者のイケメン店長さん。
「あの、本当にとても美味しかったです。カプチーノも」
「ありがとうございます。また古田さんと一緒にいつでもいらしてくださいね。お待ちしております」
「は、はい」
「あ、もちろんお一人でも大歓迎ですよ〜。忙しい古田さんは置いといて、いくらでもゆっくりしていってください」
 この微笑みを目当てに来るお客さんって、絶対にいると思う……!

 私の左手には可愛いカップケーキの入った小さな箱。新作のピスタチオと苺ミルクにプレーンとチョコレートを、椅子や雑貨と一緒に彼が買ってくれた。お店を出て、路地から石畳の通りに入ったところで壮介さんがぼそっと言った。
「何赤くなってんの、七緒さん」
「え! なってないです、けど」
「七緒さんて有澤さんみたいなのが好みなんだ、へ〜」
 握られていた私の右手に彼の力がこもる。少し痛いくらいだった。拗ねたような彼の横顔に、そっと話しかける。
「有澤さんはイケメンだとは思うけど、別に好みじゃないです」
「……」
「あのね、壮介さん」
「……」
「知ってると思うけど、言うね」
「……何?」
 やっと返事をしてくれた彼に、深呼吸をしてから伝えた。
「私の好みは……壮介さんみたいな人だから、ね」
 出逢った時のことを思い浮かべる。
 浄妙寺で目が合った時、声を掛けられた時、その後一緒にいることになった時。素敵な人だと感じたから心に留まったことを。私にとっては運命の出逢いだったから。
「僕みたいな人なら誰でもいいんだ。へ〜」
「もう……! だから、私は壮介さんがいいって言ってるの! あ……」
 しまった、と言う顔をした私に、彼がにっと満足そうに笑った。結局また壮介さんのペースに乗せられてしまったのが、ちょっとだけ悔しい。
「まだまだ、こんなもんじゃないよ」
 口を噤んだ私に彼が優しく呟いた。
「どういうこと?」
「七緒さんの好きなもの、好きな食べ物、好きな映画、好きな本、今欲しいもの、片っ端から全部教えて。今したいことも、どう思ってるのかも、何が楽しいのかも知りたいし、あげたいんだよ全部。もっともっと、七緒さんを知りたいし、わかりたいからさ」
 歩きながら俯いた彼が、わからないなんて言ってごめん、と小さな声で言った。河津の旅館で私に向けた壮介さん言葉を思い出し、胸がぎゅっと痛くなる。
「壮介さんも言ってね? 何でも」
 小さな罪悪感を、お互いに持ち続けるようなことは、もうしたくないから。
「……そうするよ。ありがとう」
 目を細めた彼が私へ軽く唇を重ねて、すぐに離れた。
「こ、こんなところで、そういうことは止めた方がいいかと……」
 私、驚いて目を開けたままだった。みるみる頬が熱くなっていくのがわかる。
「ははっ! すごい顔」
「だってこの辺りに壮介さんの知り合いの人、たくさんいるでしょう? 見られちゃったら、」
「僕は別に困らないよ。それに、そういう顔されると、もっといろいろしてやりたくなるな〜」
「ダメ……!」
 無邪気に笑う彼に抵抗する。すぐ傍を、黒いツバメが低い場所から空へ向かって、ついと飛んで行った。つられて顔を上げると雲一つない青空。
「夜帰ってから、じっくりするからいいか。ああ、でも十月までは気を付けないとね。結婚式で七緒さんの具合が悪くなっても困るし」
「何を気を付けるの?」
「子どもだよ、僕たちの」
「!」
「でもな〜。有澤さんたちに先越されるのは悔しい気もするから早く欲しいけど、七緒さんと二人だけの生活ももう少し味わいたいし……」
「……」
「どうしたの? 黙り込んじゃって」
「いろいろ、考えてくれてるんだと思って」
 この一か月の間、彼の口から零れる言葉の意味に圧倒され続けていた。どれもこれも少し前までは考えられなかった、胸が苦しくなるほどの嬉しい言葉。
「当たり前でしょ。七緒さんが、ぼーっとし過ぎなんだよ。僕はずっと先のことまで真面目に考えてるんだからね」
「うん、ありがとう。すごく嬉しいし……幸せ」
 その呟きに立ち止まった彼が私の顔を、まじまじと見た。
「素直になっちゃって。変わったよね〜七緒さん」
「壮介さんもね」
「……まあね」
 苦笑した彼が再び私の手を取って歩き出す。あと少しで駅前。そこを通り過ぎて進んでいくと、みもと屋が現れる。
「次は映画だっけ? 美術館?」
「壮介さんの好きな方」
「たまには美術館もいいかな〜」
 
 壮介さんが言ってくれたように、私ももっと彼のことを知りたいし、わかりたい。
 出逢ってすぐに体を重ねて、お見合いで再会して、結婚しても本当の夫婦になれなくて、何度もすれ違ってから、やっと恋愛を始められた私たち。順番はめちゃくちゃだったけれど、その分これから近付けばいいとわかったから。

 彼は右手に椅子を持ち、私と繋いでいた左手を離すと、その手で私の肩を強く抱いた。春の装いが、ぴったりと寄せた彼の体温をじんわりと感じさせてくれる。
 鼻歌交じりで歩く彼を見上げて、壮介さん、と呼んでみる。彼がいつも私の名を呼んでくれる時のように、好きという気持ちを込めて。

 そうすけさん、そうすけさん、って何度も呼ぶたび、彼はくすぐったそうに笑った。






番外編「そうすけさん」でした。
次話は壮介視点のお話です。