ななおさん

2 着物でお出かけ



「……おはよ」
 眠い目を擦りながらキッチンへ入ると、そこにいた母が目を丸くして言った。
「おはよって七緒あんた、もう十時過ぎよ」
「休みなんだからいいでしょ」
 会社の飲み会の帰りにコンビニで買っておいたレーズンパンをトースターに入れて温める。インスタントコーヒーを淹れている間に、香ばしい匂いを漂わせたレーズンパンを取り出し、お皿に載せた。
 今日は木曜日。わざわざ平日のこの日に有給を消化するには訳がある。
「そうそう、七緒にこれ来てたわよ」
 リビングのダイニングテーブルに着いた私に、母が差し出した。
「!」
 手渡されたハガキを見て、頬張ったパンを喉に詰まらせそうになった。幸せそうな笑顔で映る大学時代からの友人と、彼女の大きなお腹に手を当てて、これまた幸せそうにしている男性の写真。二人の周りにハートがいくつも飛び交っている。
「それさっちゃんでしょう? よく遊びに来た」
「うん」
「結婚したの?」
「出来ちゃった婚で入籍済み。結婚式は赤ちゃんも一緒に来年の予定です、だって」
 ハガキに書かれた文章を棒読みする。それにしてもいつの間に……。これでとうとうあの頃の仲の良い友人の中で、私一人が独身になってしまったというわけか。
「あらそうなの! おめでたいわねぇ。あんたもそうなるといいのに」
 最後の言葉にカチンと来て、母を上目づかいで睨みつけたけれど、私の顔なんて見ちゃいない。お見合いの話を貰ってから三週間。いよいよその日は今度の日曜日にと迫っていた。
 レーズンパンの最後の一口を食べ、コーヒーを口に含みながら、ひとりごとのように呟いた。
「私、これから出掛けるから」
 ソファに座り、テレビの通販番組を見始めていた母が私を振り向く。
「あらそうなの? 帰りは遅い?」
「わかんないけど多分」
「もしかして着物着ていくの?」
「そうだけど。……悪い?」
「いい趣味じゃないの、お母さんは賛成よ。そういうところを日曜日にしっかり相手の方にアピールしなさいよ」
 リモコンでチャンネルを変えながら母が笑った。溜息を吐いて席を立ち、お皿とコーヒーカップを片付ける。

 私だって友人の幸せは嬉しいよ? でも……ハガキを目にしたと同時に大きな焦りと少しの苛立ちを覚えて、嬉しさが萎んでしまった自分が心の底から情けなかった。
 昨夜の飲み会のことが頭を過ぎる。同期は結婚退職してもう誰もいない。私がいる課に女性の先輩はあと一人。彼女は遠距離恋愛の彼氏がいるから、私とは全く違う立場の人。
 そんな中、後輩の女の子がまた一人結婚するらしく、飲み会の席はそのことで盛り上がっていた。私のことは清々しいほどに完全スルー。変に気を遣われたら、それこそいたたまれないからいいのだけど……。
 この七年間、毎日毎日やるべきことはきっちりと、雑用だって何だって人の数倍こなしてきた。でも真面目なだけじゃ駄目なんだと、最近身に染みてわかるようになった。
 ガードが固くて隙が無くて、何言われても泣きそうにない可愛げのない女、って噂されているのを聞いてしまったから。そんなふうに言われたら、さすがの私だって泣きます。……別に男嫌いってわけじゃないのに。
 できることなら私だって「結婚するので会社辞めます」って皆の前で堂々と誇らしげに言ってみたい。

 嫌な気持ちを振り払うように急いで自室へ戻り、クローゼットを開けた。
 着物を収納するために買った桐のチェストの浅い引き出しを手前に引っ張り出す。
 半年前にカルチャースクールへ通い、三か月後には何とか着れるようになった和服。その後、お気に入りの着物を着てどうしても出掛けてみたくて、鎌倉へ訪れたのが六月下旬の梅雨明け前。何故鎌倉かというと……着物が似合う街だし、違和感もないだろうと思ったから。お寺巡りが好きで、家から割と近いから。元々大好きな場所だから。そんなふうにたくさんの理由があった。
 一度目は、ほんの一時間ほど歩き回っただけで満足し、すぐに帰宅した。
 二度目に着物で訪れたのは、すぐ翌週の七月初め。今年の夏は梅雨明けが早く、その日は思いがけない猛暑に遭ってしまった。酷い暑さと着慣れていない着物に具合が悪くなりそうになり、さらに着崩れも起きて最悪。大後悔した私は涼しくなるのを待って有給を取ることにした。比較的空いていて過ごしやすかったから、以前訪れた時と同じ木曜日に。
「そういえばあの時、手帖を失くしたんだっけ」
 あまりの暑さに余程ぼんやりしていたのか、どこに置いて来たかもわからない革の手帖。個人情報は一切書いてなかったから変な心配はなかったけれど、お気に入りだったからしばらくの間へこんでいた。

 秋に着たいと思い買っておいた、からし色の紬を引き出しからそっと取り出す。その重みとしっとりした手触り、綺麗な色に自然と頬が緩んでしまう。着るのをずっと楽しみにしていたんだから嬉しくてたまらない。
 今日は何があってもいいように簡単な着替えを持っていくことにした。くるりと丸めたニットワンピース、ウールのショール、半分に折り畳める柔らかなパンプスとカラータイツ。これらを風呂敷に包んで紙袋へ入れた。一応眼鏡も。結構な荷物だけど、いいのいいの。備えあれば憂いなしなんだから。もしもの時は着替えて、この袋へ着物を入れて持ち帰ればいい。

 からし色の着物に撫子色の帯を締める。蝶の形のアンティークブローチを帯留めにした桃色の帯締め。長い前髪は編み込みにして、後ろ髪はねじってひとつにまとめ、撫子の形をした簪をさした。メイクはいつもよりずっとしっかりめに。目の詰まったあけびの籠バッグに、お気に入りの手拭いで作った、あずま袋を入れて、持ち物の中身が見えないようにした。
 クローゼットの扉に付いている鏡の前に立つ。
「うん、いいんじゃない?」
 着物を着て、眼鏡を外し、いつもと違うメイクと髪形にする。たったこれだけのことで、つまらない日常と卑屈な自分が、くるりと180度姿を変えて目の前に現れてくれるのが楽しかった。

「行ってくるね」
 部屋を出て、まだリビングにいる母へ声を掛ける。
「その色いいわねぇ。綺麗よ、七緒。雰囲気変わるわよね〜! ナンパされちゃうんじゃない?」
「……どうも」
 大げさなんだから。さっきの会話のせいで、その褒め言葉も素直に受け取れない。廊下に戻る私に後ろから母がついてきた。
「ねぇ七緒。日曜日のお見合い、振袖着て行ったらどう?」
「はぁ? ドン引きされるに決まってるでしょ? 私の歳考えてよ」
「そんなことないわよ。振袖は未婚女性の正装なんだから、別に何歳で着たって構わないでしょ。一応二十代なんだし、まだまだイケるって」
「頼むから勘弁して。振袖が似合うような華やかな人なら、何歳で着たっていいだろうけど、私には無理」
 靴箱から草履を出し、玄関に揃えた。
「誰かと一緒なの?」
「そんなとこ。夕飯いらないからね」
「はいはい。気を付けて行ってらっしゃい」
 もちろん誰かと一緒なんてことは嘘。
 一人で出掛けるのは楽しいけど、それをいちいち母に詮索されるのが嫌だった。まだ着物を着こなすにはド素人だけど、最近できた唯一の趣味なんだから誰にも邪魔はされたくない。それに、この非日常を平日の昼間から一緒に楽しんでくれるアラサーの友人なんて、この歳になるともういません。子どもが生まれて忙しかったり、ご主人の転勤先へついて行ってしまったり……なかなか会おうとしても会えないから。
 とにかく、お見合いをして万が一にも上手く行ったら、こんな自由は無くなってしまうかもしれないんだし、今の内に楽しんでおかなくては。

 外は爽やかな秋晴れ。穏やかな陽射しが暖かく風も無い。着物で歩くのには絶好の日和に感じた。
 私は横浜駅から横須賀線に乗り、鎌倉へ向かった。